第34話「来訪前夜、静かに満ちる灯り」
第34話「来訪前夜、静かに満ちる灯り」
リリス来訪まで、残り一日となった。
ヴァルトニアの空には薄い雲がかかり、日の光が柔らかく地表を照らしていた。
湿地の干上がりはさらに進み、排水路を流れる水の透明度も上がっていく。
輪作区画のある畑には薄い緑が混じりはじめ、村の家々には乾いた風が心地よく通り抜けていった。
そんな中、城塞都市の領主館では、来訪に向けた最終準備が進められていた。
ユウは書庫の机に広げた書類を見つめ、ペンを止めずに手を動かしている。
「リリスには、村の様子をきちんと見てもらいたい。
とくにラディスとモルティ、そしてベイルの白炭……それぞれ改革の手がかりを、順番に案内する必要がある」
ユウはつぶやくように言い、視線を地図に移す。
その横でマリアが控えめに頷いた。
「リリス様がご覧になる順路につきましては、こちらで案をまとめておきました。
人の動線、馬車の通りやすさ、視界の開け方などを考慮しております」
マリアが差し出した紙には、細かい矢印と注意点が記されている。
まるで、彼女がすでに何度もその道を歩いたかのような正確さだ。
「ありがとう、マリア。
君が準備してくれたおかげで、迎える側の心構えが整っていく気がする」
マリアは、ふっと小さく微笑んだ。
「ユウ様。
明日お迎えするのは、未来の正妻となる方でございます。
……その方に、ユウ様がどれほど努力してこられたか、誠実に向き合っているかを、きちんと伝えたいのです」
その声音はあくまで穏やかで、嫉妬や焦りを表に出すことはない。
だが、胸の奥に沈めている複雑な感情だけは、微かな揺らぎとして滲んでいた。
(私は従者として支えるだけ。
その役目に、誇りを持ち続ければいい。それで十分のはずなのに……)
彼女はその想いを自分の内に押し込み、姿勢を正した。
「迎え入れの準備は、この都市の皆が協力してくださっています。
家々の前の通りは清掃が進み、衛生施設の案内も整えました。
リリス様が歩かれる道には、危険がないよう確認済みです」
「……本当に、よくここまで。
この領地は君に助けられてばかりだ」
そう言うユウの声には感謝が深く滲んでいたが、マリアは首を横に振った。
「助けているのではございません。
ユウ様が生きやすい領地を築けるよう、お仕えしているだけです。
そして……それが私の役目です」
その言葉には、隠すように込められた決意があった。
午後になると、都市の外で兵士たちが集まり、城塞都市の正門前で整列訓練をしていた。
風が甲冑に触れ、金属の音が軽やかに響く。
統率を取る隊長が、ユウに深々と頭を下げた。
「ユウ様。明日の警備は万全でございます。
公爵家の護衛が同行されるとのことですが、我々も全力で支援いたします」
「ありがとう。
ここはまだ整備途中の土地だ。リリスが安心して歩けるように、警備も環境も丁寧に整えていきたい」
その言葉が兵士たちに伝わると、隊列がわずかに引き締まった。
「ユウ様は、“誰かを迎える”ということすら、領地の未来に繋げてしまわれるのですね」
隣に立ったマリアが、感嘆というよりも、納得したように言った。
「迎える人が誰であれ、ここが信頼される場所でありたいからね。
領地は人の暮らしだけじゃなく、訪れる者の記憶によっても形を変える」
「……そのお言葉、リリス様はきっと喜ばれるでしょうね」
マリアはそう言いながら、胸の奥に薄い痛みを覚えた。
だが、それを表には見せない。
従者として、ただユウの言葉に誇りを感じるだけだ。
夕暮れが近づくと、ユウとマリアは都市の一望できる丘に立った。
輪作区画の村では、村人たちが木杭を片付け、
ベイルの炭焼き場からは規則的な煙が立ち、
城塞都市では子どもたちの笑い声が響く。
ユウは腕を組み、ゆっくりと息を吐いた。
「ようやく……彼女に見せられる状態になってきた」
「はい。ユウ様が積み重ねてきた道のりを、きっとリリス様は感じ取られます」
マリアの声は淡く温かい。
しかし、言葉の奥には、彼女自身の気持ちがごくわずかに揺らいでいた。
(ユウ様の隣に立つのは、私ではない。
そのことは受け止めている……。
でも、心のどこかで――少しだけ、寂しさがある)
マリアは一歩下がり、主の背中を静かに見守った。
「マリア。
明日、リリスが来たら……領地の案内を一緒にしてくれるか?」
「もちろんでございます。
ユウ様の歩く道に、お供できるのは私の務めです」
その声は揺れもなく、凛としていた。
夕陽が二人の影を長く伸ばす。
都市の灯りがひとつ、またひとつと点り、その光が領地の息吹を静かに伝えてくる。
「明日が……楽しみだ」
ユウが呟いたその言葉は、どこか少年のような素直さを含んでいた。
マリアはその横顔を見つめ、ほんの少しだけまぶたを伏せる。
「ユウ様が思い描く未来に、歩み出す日ですね」
「うん。
ようやく――リリスと一緒に、この領地の始まりを見られる」
その声に、マリアは微笑みを返す。
(この人の未来が幸せで満たされるなら……
私はその道の傍らにいるだけでいい)
心に浮かんだその言葉を飲み込んで、彼女は静かに頭を下げた。
「明日の準備はすべて整えてあります。
あとは、ユウ様が胸を張ってお迎えになるだけです」
「ありがとう、マリア。
本当に……君のおかげで僕はここまで来られた」
夕風が二人の衣を揺らし、ヴァルトニアの大地はゆっくりと夜へ沈んでいく。
そして――
リリス来訪まで、あと数時間。
領地は息を潜めるように静まり、その瞬間を待っていた。




