第32話「風が運ぶ、新たな季節の気配」
第32話「風が運ぶ、新たな季節の気配」
朝の光がヴァルトニアの大地に差しこむと、湿地に張りついていた薄い霧がゆるやかに消えていった。
風はまだ少し冷たいが、乾いた土が陽に照らされて香りを立てる――そんな朝だった。
ユウは城塞都市の外に立ち、遠くの村まで伸びた道を見つめていた。
その横でマリアが書簡を抱え、控えめに問いかける。
「ユウ様、本日はラディス村からですね?」
「ああ。今日からは、輪作の“最初の一歩”に入る。
――畑を区画に分けて、作目ごとの流れを決めていく」
マリアは小さく頷きながら、一歩斜め後ろに下がる。
しかし、表情はどこか楽しげだった。
「村の方々、とても張り切っておられました。
昨日の夜も、家の前で木の棒を使って“畑の区分けの練習”をしていたとか」
「練習……?」
「はい。“失敗したら、ユウ様に申し訳ない”と」
ユウは思わず苦笑を漏らした。
「失敗は恐れなくていいのに。
大事なのは、何度だってやり直せることなんだ」
「その言葉を、皆様に伝えて差し上げてくださいませ。
ユウ様が仰ると、きっと胸に響きます」
マリアの言葉はふわりと柔らかく、しかし妙に確信めいていた。
ユウは特に反論せず、歩きはじめる。
今日も、領地の風は前へ進もうとしていた。
ラディス村に到着すると、村人たちがすでに畑に集まっていた。
手には木の杭、縄、測量用の棒――そして、期待に満ちた表情。
「ユウ様っ! お待ちしておりました!」
「これから畑を区切るって、本当にわくわくして……!」
「村が変わるんだって……本当に思えるんだ!」
朝の光のせいだけではない。
人々の顔が、どこか明るい。
ユウはゆっくりと視線を巡らせ、ひと呼吸置いてから言った。
「まず、畑を四つの区画に分けよう。
それぞれが“次の作物のための準備段階”になる。
今日は――最初の土づくりからだ」
広がったざわめきの中で、村人のひとりが震えた声で聞いた。
「土が……変わるんですか?」
「変わるよ。
土は生きている。休ませることで呼吸を取り戻すし、
クローバーは、その呼吸を深くする」
その言葉に、村人たちの目が丸くなる。
ユウは続けた。
「僕らは“作物を植えるだけ”じゃない。
土を育てることを、今日から始めるんだ」
その瞬間――
静かだった村人たちが、一斉に顔を上げた。
希望に似た、しかしもっと温度のある表情だった。
作業が始まると、マリアはそっとユウの耳元に寄る。
「皆様、本当に表情が変わりましたね」
「うん。
“変わる理由”を知ると、人はこんなにも動けるんだね」
「それを教えられる方が……そう多くはありません」
マリアが言うと、ユウは少しだけ目を伏せた。
照れる気持ちと、責任を感じる気持ちが心に交差する。
「僕は、ただ……前に進む方法を知っているだけだよ。
村の未来を作るのは、彼ら自身だ」
「そうであっても――その一歩目を置いたのはユウ様です」
マリアが言い切ると、ユウは言葉を返さず、代わりに畑を見つめた。
区画分けが進み、三つの家族が協力して縄を張っている。
子どもたちが、縄に沿って土を踏んでいる声が響いた。
「まっすぐ? まっすぐになってる?」
「うん! ユウ様みたいにきれいに!」
その声に、マリアが微笑む。
「かわいらしいですね」
「……うん。未来そのものだ」
ユウの声は、どこか遠くを見つめるような響きを帯びていた。
ひと通り区画が整った頃、村長が汗だくで走ってきた。
「ユ、ユウ様っ……大変なことが……!」
「どうしたんです?」
「炭焼きの村、ベイルから急ぎの知らせです!
“白炭の出来が、これまでとまるで違う”と!」
マリアが驚いて息を呑む。
「まさか……そんなに早く?」
「乾燥が進んだことで窯の温度が安定したのかもしれない。
……これは、確認したほうが良さそうだね」
ユウは迷いなく歩き出した。
その背中を追いながら、マリアはそっと胸に手を当てる。
(ユウ様は、どれだけ領地が広がっても……
“目の前の誰か”の声を聞きに行く方なのですね)
誇らしさと、温かい痛みに似た感情が胸を満たす。
そして、マリアは小さく呟いた。
「……この方に、お仕えできていることを……私は本当に誇りに思います」
風が二人の髪を撫で、ベイル村へ続く道の上に、未来への予感が静かに落ちていった。




