第31話 — 村に息づく、小さな希望 —
第31話 — 村に息づく、小さな希望 —
日が傾きはじめたヴァルトニアの空は、麦色と藍色がゆっくり混ざりあい、長い影を地面に落としていた。
干拓が進みつつある湿地の上を吹き抜ける風は、以前よりも軽く、土の匂いをほのかに含んでいる。
ユウは村の入口で足を止め、ひとつ深く呼吸をした。
「……この村も、変わりはじめているね」
背後から歩み寄ったマリアは、主の横に静かに立つ。
その横顔にかすかに柔らかい感情がにじんでいるのを、ユウは気づかぬふりをした。
「はい。数日前まで湿っていた地面が、今日はしっかりと足を受け止めてくれます。
ユウ様がお考えになった排水路……村の方々も、とても驚いておりました」
「驚かせるためにやったわけじゃないけれど……喜んでもらえるなら、それで充分かな」
マリアはゆるく瞬きをした。
ユウの声には派手な誇張もなく、ただ村の未来を想っている響きがあった。
それがマリアの胸に、ひどく静かに沁みていく。
「……こちらの畑もご覧になりますか?」
「ああ。今日は成長の変化を見ておきたい」
二人が畑に入ると、夕日が照らし、土の粒が金色に光った。
クローバーが根を広げ、乾いた土地に少しずつ湿り気と柔らかさを戻している。
ユウは土を手に取り、そっと指で崩した。
「ようやく……生きている土の手応えになってきたね」
マリアはその言葉を聞きながら、ユウの手元に視線を落とした。
「……ユウ様は、本当に土の変化を感じ取られるのですね。
領主でありながら、誰よりも手触りで確かめておられる」
「見ないとわからないから。
村人たちが、どんな土地で暮らしてきたか……その続きを、僕が知らずに進めるわけにはいかない」
その言葉の意味を噛みしめるように、マリアは静かに息を吸った。
「村の方々が、あなたを慕う理由が……よくわかります」
「そんなに大したことはしてないよ」
「いいえ。
誰かの暮らしに手を伸ばせる人間が、どれほど少ないか……私は知っています」
マリアの声には、かすかに熱がこもっていた。
それはただの称賛ではなく、ユウという人間を知る者の言葉だった。
「……ありがとう、マリア。
その言葉を、簡単には忘れられない気がする」
「忘れなくて結構です」
マリアはくすりと微笑んだ。
風が二人の間をそっと抜けていき、ユウはその笑みを胸の奥で静かに受け止めた。
村をひと回りし、最後に炭窯の近くに立つ。
煙が細く立ちのぼり、白炭の完成を告げる香りが漂っている。
「村長さんたちが言っていたね。
“この炭で冬を越せる”って」
「はい。皆様、とても誇らしげでした。
……ユウ様の導きがなければ、きっと諦めたままの土地だったのでしょうね」
「導いたというより……背中を押しただけだよ。
動いたのは村の人たちだ」
マリアは首を振った。
「それでも、誰かが最初の火を灯さなければ、暗闇のままなのです。
……ユウ様は、最初の明かりを置いていかれたのだと思います」
ユウは少しだけ目を伏せた。
照れではない。
胸に灯るものの重さを、そっと受け止めるような沈黙だった。
マリアはそれ以上言わず、ただ隣に立つ。
村の家々には、ひとつずつ灯りがともり始めていた。
遠くで子どもの声が響き、家族の影が窓越しに揺れる。
「……いい光だね」
「はい。
これが、“守りたいもの”の形なのかもしれません」
ユウはマリアの横顔を見る。
夕暮れの光が彼女の瞳の奥で揺れ、深い温度を映していた。
「マリア」
「はい、ユウ様」
「……この領地を、君と一緒に良くしていきたい」
淡く、しかし確かな言葉だった。
マリアはわずかに目を見開き、そしてゆっくりと微笑む。
「私は、最初からそのつもりでお仕えしております」
柔らかな声だった。
しかしその奥にある感情は、優しさだけではない。
信頼と、誇りと、それから――言葉にはしない何かが静かに息づいている。
「……ありがとう」
「ユウ様。帰りましょう。
今日の記録をまとめて、明日の準備をいたします」
「うん。よろしく頼む」
二人は並んで歩き出す。
村に灯る光が背中を照らし、
その光が、これから広がっていく未来を静かに示していた。




