第3章・28話「城塞都市の入口にて
第3章・28話「城塞都市の入口にて」
夏休みに入って二週間。
ヴァルトニアの空は、山脈から流れてくる風に煽られながらどこまでも澄んでいた。
干拓地では、輪中の外縁が少しずつ形を成し、排水路は一定の流れを保ち始めている。
湿地だった一帯が乾き始め、その先で人と家畜が動き回る姿が増えた。
だが今日のユウの目的は、干拓地ではなかった。
城塞都市――領地の中心となる巨大な都市。
その内部を、本格的に見る日が来たのだ。
「ユウ様。本日は、城塞都市の“内側”が視察の中心になるのですよね」
マリアが一歩後ろから問いかけた。
髪をまとめ、いつもの黒いメイド服ではなく、砂埃を払いやすい作業向きの外套を身につけている。
彼女がどんな場所にもついてくる姿を見て、ユウは思わず微笑みを浮かべた。
「うん。村だけでなく、この都市そのものの状態を知らなければ、領地全体の改善はできないからね」
二人は城塞都市の正門をくぐった。
だが、くぐった瞬間――マリアは小さく息を呑んだ。
「……これは、想像より……」
整った城壁に比べて、内部の景色はまったく別物だった。
建物は密集し、通路は狭く、人と荷車が頻繁にぶつかる。
市場が近いせいか、魚の匂いと香辛料の刺激が混じり、湿ったような空気が立ち込めている。
石畳の隙間には泥が詰まり、雨が降ればそのまま小さな池になりそうだった。
「歩くたびに靴が引っかかります……」
「これが城塞都市の“日常”なんだろうね」
ユウは人々の動線を観察し、路地の幅、建物の老朽具合、露店の並び方を次々に視界へ収めていった。
すると、すれ違った商人が仲間に向かって言う声が聞こえた。
「また下水が詰まったらしいぞ。昨日の夕方から臭いが立ちこめてるって話だ」
「そりゃあな。あの細さじゃ詰まるに決まってる。掃除も年に一度あるかどうかだろう」
「そもそも、管理してる役人が動かねえからよ!」
マリアが少し眉をひそめ、ユウの横に寄った。
「……この都市の問題は、場所ごとに違うというより、全体に広がっているようですね」
「そうだね。人の数に対して、都市の仕組みが追いついていない」
二人が歩みを進めると、次々に問題点が目に入る。
・雨水が流れきらずに溜まった痕
・路面の石が剥がれ、子どもがつまずきそうになっている
・市場の裏通りに積み上がったままの生ごみ
・井戸の周囲に散らばった木片と藁屑
・廃屋に近い民家の軒下で雨宿りする老人
どれも「誰かが何とかしなければならない」状態のまま長く放置されているように見えた。
「……ここまでとは思わなかった」
ユウが呟くと、マリアは静かに問い返した。
「ユウ様。この都市は、どこから手をつけるのが正しいのでしょうか」
「“正しい順番”なんてないよ。
けれど――人々が毎日使っている場所から変えるべきだ」
ユウは路地に目を向ける。
「例えば、市場の通路。
ここが整えば人の流れが生まれる。
商人の往来が増えれば物が集まり、仕事も増える」
「では、下水も同時に……?」
「うん。市場で水が流れなければ、食べ物も扱えないし、衛生環境は悪くなる一方だ」
マリアは思考するように手帳を開き、細かなメモを書き留めた。
「市場、路地、下水。
それから……治安でしょうか? 先ほどから、路地の陰で不穏な視線が」
「気付いてたんだね」
「ユウ様ほどではありませんが、多少は」
二人がさらに歩いていくと、露店の夫婦が不満げに話している声が耳に入る。
「家賃ばかり上がって、街の整備は全然だよ。
このままじゃ客も離れるさ」
「役人は税を集めるばかりで、何もしてくれないからな」
ユウは足を止め、二人に軽く会釈をして声をかけた。
「少しお話を伺ってもいいですか?」
夫婦は驚いたように背筋を伸ばした。
「お、お、お貴族様……! いえ、そんな、お恥ずかしいところを……」
「気にしないでほしい。現状を知らなければ、改善はできないから」
その穏やかな口調に、二人の緊張はほどけていった。
「この辺りは、人が多いので路地がすぐ傷むんです。
でも修繕を頼んでも、なかなか動いてもらえなくて……」
「下水も長く放置されているみたいですね」
「ええ。水の匂いが市場まで来るんですよ。客が嫌がって……」
ユウが深く頷くと、夫婦はどこか救われたような表情になった。
「ありがとうございます。
こんなふうに、話を聞いてくださったのは初めてで……」
「改善できる部分は必ずある。時間はかかるけれど、一つずつ進めていくよ」
夫婦は何度も頭を下げ、店へ戻っていった。
マリアが横に並び、小さく息をついた。
「……ユウ様が一言声をかけるだけで、人々の顔が変わるのですね」
「僕じゃないよ。
“変えたい”と思っている人の顔は、誰でもあんなふうに明るくなるんだ」
歩きながらユウは、城塞都市全体の姿を心に描いた。
大きな石壁に守られた都市。
人口が多く、物流も多い。
しかし内部は、あまりにも未整備で、そのせいで人の動きが滞り、生活の質まで下がっていた。
(……この都市は、村とは違う。
だが、改善できないわけじゃない)
大切なのは、「人の生活を基盤に整えること」。
それができれば、都市は確実に変わる。
「ユウ様。城塞都市の役人たちと、近いうちに会議を開く必要がありますね」
「そうだね。都市の構造を変えるには、彼らの協力が不可欠だ」
「では、準備は私が進めておきます」
マリアはそう言って、視線をまっすぐにユウへ向けた。
「ユウ様が人々の前に立つなら……その舞台は、私が整えてみせます」
「頼りにしてるよ、マリア」
二人は再び歩き出す。
路地に差し込む陽光が、雑多な都市の影を長く伸ばしていた。
だがユウには、その影の奥に、少しずつ芽吹こうとしている未来が見えていた。
ここを“住む者が誇れる都市”に変える。
その想いが、静かな熱となって胸に刻まれていく。
歩き続けるユウとマリアの背中を、城塞都市のざわめきが押し上げていた。




