27話 「村に灯る、小さな光」
27話 「村に灯る、小さな光」
ユウがヴァルトニア領へ来て十日が過ぎていた。
城塞都市の外壁から外を眺めると、干上がりはじめた湿地の一角に、人々の影が点々と動いているのが見える。
排水路が本格的に流れはじめ、泥に覆われていた土地が、わずかにだが表情を変えつつあった。
その変化を、ユウは無言で見つめていた。背後に控えるマリアは、主の思考を邪魔しないよう、静かに距離を保っている。
「……ここまで、進むものなんですね」
少し風が弱まったとき、マリアが小さく言った。
「ひとつの流れが整うと、他も繋がる。
この湿地は何十年も放置されてきたけれど、皆が手を貸せば、必ず形を変えられる」
ユウの声は穏やかだが、その奥に確かな決意があった。
「では、今日は村の視察へ向かわれるのですね?」
「ああ。城塞都市から北西に点在する三つの村。その現状を、目で確かめたい」
マリアは深く頷いた。
身なりを整え、手帳を抱え、いつものように一歩後ろで従う。
二人が城門を出ると、乾いた風が草の匂いを運んでくる。
大河へ向かう南からの二本の川のうち、東側の川を少し離れた位置で眺めると、流れの強さと深さがよくわかる。
「この川……本当に、“渡れない”のですね」
「そうだ。橋がなければ、領民は対岸へ行くことすらできない。
だから村はすべて西側に作られてきた」
マリアは真剣な眼差しで川面を見つめた。
「この地に暮らす方々は……どれだけ不便を抱えてきたのでしょう」
「多いよ。だが、負けていない。
村に入ればわかる。皆、自分たちの生活を守るために、手を止めていない」
ユウが歩を進めると、やがて最初の村が見えてきた。
家屋は質素だが、乾いた風が通り抜ける道筋には、子どもたちの笑い声が響いていた。
井戸の周りでは女性たちが洗濯をし、老人は編み物をしている。
生活は決して豊かではないが、荒廃とは無縁の空気が漂っている。
村長が慌てたように駆け寄ってきた。
「ぼ、ぼぼ、ぼユウ様っ……! ようこそ、お越しくださいました!」
「突然押しかけてすまない。村の現状を見ておきたくてね」
「と、とんでもございません!
ユウ様が領主として来られると聞いて……村の者は皆、光が差したようだと申しておりました!」
ユウはその言葉に僅かに眉を動かすが、それ以上の反応は見せず、淡々と歩き出す。
村の中心を回ると、畑に向けて開いた土地が目に入る。
しかし、土は痩せ、表面は乾燥してひび割れていた。
「……やはり、現状では穀物を育てるのは難しいな」
ユウはしゃがみ込み、指先で土をすくい上げた。
粒子が手のひらで崩れ、風にさらわれる。
「ユウ様……この土では、何も?」
「今のままでは、ね。でも“今のまま”を続けるつもりはないから」
マリアの瞳がぱっと開かれる。
「クローバーからだ。土を耕し、空気を入れ、根が土を育てる。
輪作を始めれば、この土地は必ず応えてくれる」
説明を受けた村長は、唇を震わせた。
「そんな……我々が何年やっても、土地は変わらなかったのに……!」
「変わらなかったのは、やり方を知らなかっただけだよ。
変える方法を知らなければ、誰だって同じ結果になる」
村長が目に涙を浮かべるのを見て、マリアは胸を押さえた。
ユウの声は威圧でも誇示でもなく、ただ希望を植えるためのものだった。
視察を終えて村の端に立つと、マリアがそっと口を開く。
「ユウ様……今日、あなたのお言葉を聞いた村の方々は、きっと胸を張って歩けるようになります」
「そうだといいけれど、希望を語るだけでは意味がない。
実際に成果を見せるまでは、何も始まらない」
マリアはその言葉を噛みしめるように目を閉じ、そして優しく問いかけた。
「ユウ様は……領地を、どうしたいのですか?」
ユウは空を仰いだ。
雲一つない空が、真っ直ぐに広がっている。
「ただ“豊かにしたい”わけじゃない。
誰かが困っていたら、手を差し伸べられる場所にしたい。
ここで生まれた子どもが、自分の人生を選べる領地にしたい」
その声は、未来を語るというより、未来そのものを掴もうとしているようだった。
マリアは、その横顔を見つめながら静かに微笑んだ。
「……ユウ様らしいお考えです」
帰り道、風がふたりの間をそっと通り抜ける。
マリアが歩幅を合わせながら話す。
「村の方々があなたを慕う理由……今日、よくわかりました。
ユウ様は、誰よりも先に“誰かのために動く方”だからです」
「そんなに立派なものじゃないよ。僕は、ただ……」
言いかけて、ユウは言葉を飲み込んだ。
(僕は――この領地の未来に、マリアの姿を入れて考えてしまっている)
だが口にはしない。
従者と主という線がある以上、心にしまっておくべきだと理解していた。
マリアは気付かぬふりをして、柔らかく笑う。
「本日の視察記録は、戻り次第すぐまとめておきますね」
「ああ。ありがとう、マリア」
「ユウ様のお役に立てることが……私は、とても嬉しいのです」
その言葉は、夏の光よりも温かく、優しく、まっすぐだった。
輪中の形が浮かび上がり、湿地が干上がり、畑が息を吹き返す――
ヴァルトニア領は確かに動き始めている。
その隣には、必ずマリアがいた。




