第三章 ヴァルトニア改革編 第二十六話 最初の一日目
第三章 ヴァルトニア改革編
第二十六話 最初の一日目
朝の霧が、まだ湿地の上に薄く残っていた。
城塞都市ヴァルトニアの城壁から少し離れた場所に、第一の村がある。
南から流れてきた川が大河へ向かってゆるやかに曲がる、その手前。
村の外れには、いつ水に沈んでもおかしくない低地が広がっていた。
夏の始まりだというのに、地面はぬかるみ、靴の裏に泥が絡みつく。
少し踏み込めば、じわりと水が染み出してくる。
「……これが、今の現実か」
ユウ・ヴァルトニア――つい先日叙爵されたばかりの少年領主は、足元を見下ろして静かに呟いた。
周囲には、村の代表者たち。
力自慢の男たち。
簡易な測量道具を抱えた書記役。
そして、背後には、いつものように控える専属メイド、マリア・ベルモンド。
全員の視線が、ユウに集まっていた。
「本日から、ここで排水路の工事を始めます」
ユウは泥に沈みかける足を一度持ち上げ、あえて一歩、前に踏み込んだ。
泥水が跳ね、裾に染みがつく。
村人たちの何人かが、思わず息を呑んだ。
「領主様、自ら……」
「靴が……」
「気にしないでください」
ユウは、軽く笑った。
「僕ひとりの服より、ここで暮らす人たちの生活の方が、ずっと重い」
そう言って、腰にさげた簡易地図を広げる。
紙には、村の輪郭と川筋。
予定している排水路の線。
将来的に築く予定の輪中堤の位置が、細かく描き込まれていた。
「今日やるのは、大きな計画の中の、ほんの一本目です。
山側から流れてくる小さな川と、この村の裏手に溜まる水を――ここへ集めて流す」
指先で地図の一点を示す。
「そこから、大河へ向かって水を逃がす。
まずはこの一本が、全体の柱になります」
「……本当に、そんなうまくいきますかね」
年嵩の男が、不安げに口を開いた。
日焼けした肌に刻まれた皺は、この土地の水と泥と共に生きてきた年数を物語っている。
「今までも、堀を掘ったりはしたんですよ。
けど、雨の季節になればすぐに埋まっちまう。
水の方が、強い」
「分かっています」
ユウは、その言葉を否定しなかった。
「だからこそ、“筋道”をつけます。
ただ掘るのではなく、こちらの都合に合わせて水の通り道を決める。
土を固め、崩れにくい形にしていく」
村人たちの表情に、半信半疑の色が浮かぶ。
「魔法で、ということですか?」
別の男が恐る恐る尋ねる。
ユウは、少しだけ視線を上げた。
「ええ。少しだけ、魔法も使います。
ただし、それは皆さんの働きを軽くするための“補助”です。
肝心なところは、人の手で積み上げます」
それは、嘘ではない。
異世界ダイナリーで確認した輪中や排水路の知識。
ルーン構造から読み解いた地形操作の魔法。
それらを組み合わせれば、ひと夏どころか、数年かかる作業を大きく短縮できる。
しかし、魔法だけで何もかも解決するつもりはなかった。
(ここで必要なのは、“領地全体でこれを続けていける仕組み”だ)
ユウは心の中で、そう繰り返す。
自分がいなくても、維持できるものを残す。
それが、領主の仕事だと信じていた。
「まずは、ここを」
ユウは足元の泥を指さした。
「村と湿地の境目に、一本の線を引きます。
ここが、最初の“境界”です」
「境界……」
「村と水を分ける線、と考えてください」
ユウはそう告げると、マリアに目を向けた。
「マリア。道具の確認を」
「はい。測量道具、杭、縄、簡易図面、すべて揃っております。
食事と水も、午前と午後の分は手配済みです」
マリアは、いつもの静かな声で答える。
だがその目は、すでに現場全体を見ている。
誰がどの程度動けるか。
どこに負担が偏りそうか。
そういったものを、無意識のうちに拾い上げていた。
「では――始めましょう」
ユウは、村の代表者たちに向き直る。
「僕は、最初の一本目だけ、魔法を使って“例”を作ります。
そのあとを、皆さんに続いていただきたい」
そう言って、泥の中に片膝をついた。
指先で土をつまむ。
湿り気のある土が、冷たく手のひらにまとわりつく。
(この水分の量なら、あの術式で十分いける)
頭の中で、ルーンの構造が組み上がる。
土に含まれる水の割合。
周囲の水位。
川の流れ方。
脳裏に浮かぶ線を、地面にゆっくりと描く。
……これは、あくまで自分だけが見る魔法陣。
誰かに見せるためのものではない。
「今から、少しだけ地面を動かします」
ユウは、周囲に聞こえる声で言った。
「驚かないでください。
これは“皆さんの仕事を始めやすくするための下ごしらえ”です」
右手を地面に当てる。
低く、短い詠唱をひとつだけ口にした。
その内容を理解しているのは、この場ではユウだけだ。
次の瞬間――
ユウの手のひらを中心に、地面がゆっくりと沈み始めた。
ぐらり、と大きく揺れるわけではない。
しかし、泥がひと筋に引き寄せられ、その先へ向かって細い溝が出来上がっていく。
村人たちの口から、小さな感嘆の声が漏れた。
「おお……」
「土が、勝手に寄っていく……」
沈んだ溝に、じわりと水が流れ込む。
それまで足元一面に広がっていた水たまりが、少しずつひとつの筋へと集まっていった。
ユウは、額の汗を拭った。
(この程度でも、なかなか骨が折れるな)
魔力が、わずかに削られていく感覚がある。
一気にやろうと思えば、もっと深く、もっと長い溝を作ることもできる。
しかしそれでは、自分の体力も、この場の空気も持たない。
「今の線に沿って、皆さんに掘り進めていただきます」
ユウは立ち上がり、腰のあたりについた泥を軽く払った。
「深さは、ひざ下より少し下くらい。
幅は、肩幅ひとつ分。
そのくらいを目安に」
「……これくらいなら、慣れてますよ」
先ほど不安を口にしていた男が、今度は笑ってみせる。
「水の方が、ちょっと素直になってくれりゃあ、こっちのもんです」
「頼もしいです」
ユウは頷いた。
「水が“ここを通りたくなる形”を、一緒に作りましょう」
号令をかけると、男たちが一斉に動き始める。
鍬を持つ者。
土を運ぶ者。
子どもたちも、遠くからその様子を見つめていた。
マリアは一歩下がった位置で、全体を眺めていた。
そして、ぽつりと呟く。
「……ユウ様が泥だらけになっていらっしゃいます」
「わざとです」
「存じております」
マリアは苦笑した。
「ですが、あまり無茶はなさらないでください。
倒れられたら、工事も領地運営も止まってしまいます」
「倒れるほどはやらないさ」
そう言いつつも、ユウは自覚している。
この手の作業になると、つい限界ぎりぎりまで力を使ってしまう癖があることを。
だからこそ、今日は意識して、一定の線で止めるつもりだった。
◇
午前中。
村人たちの汗が、泥と混ざって地面に落ちていく。
ユウは、要所要所で魔法を使った。
掘り進んだ溝の側面を固める小さな術。
流れ込む水の勢いを弱める補助。
派手な現象は起こさない。
だが、少しずつ、確実に作業の効率が上がっていく。
「さっきまで、ここまで来るのに桶が三つ分くらい必要だったのに……」
水を汲みに来た女が、驚いたように呟く。
「溝のおかげで、足元が軽い」
別の者も同意する。
泥に足をとられていた場所が、わずかだが乾き始めていた。
ぬかるみが消えたわけではない。
それでも、足首まで沈んでいた場所が、くるぶし程度で済むようになった。
ほんの少しの違い。
だが、それは“希望”と呼べるだけの変化だった。
「昼にしましょう」
マリアが、頃合いを見て声をかける。
「水と食事を、あちらに用意しています。
お子さんや年配の方から順番にどうぞ。
あまり一気に動き続けると、午後に力が残りません」
「助かる……」
「さすが、伯爵家のメイドさんだ」
村人たちから、素直な感謝の声がこぼれる。
マリアは、それに深々と礼を返した。
「本日は、ヴァルトニア領の者として動いております。
どうぞ、お気になさらず召し上がってください」
ユウも、ようやく息をついた。
土と汗と、水の匂い。
前世の工事現場を思い出させるような空気が、鼻をくすぐる。
(……懐かしい、なんて言うべきではないんだろうな)
誰にも言えない思いを心の中に押し込みながら、パンと具だくさんのスープを口に運んだ。
◇
午後。
日差しが強さを増す頃、溝はさらに伸びていった。
大河へ向かう本流と、村の裏手から水を引き込む支流。
まだ途中だが、地図で考えていた通りの場所まで、どうにか辿り着きつつある。
「ここで、ひとまず止めます」
ユウは、作業を続けようとする男たちを手で制した。
「今日は、ここまで。
あまり急ぎすぎると、どこかで綻びが出ます」
「領主様がそう仰るなら」
「続きは、明日以降にしましょう。
それよりも――もう一つ、試したいことがあります」
そう言って、村の中央にある井戸へ向かう。
石組みの井戸の縁は、長年の使用で角が丸くなっていた。
桶をおろし、しばらくしてから引き上げる。
水面には、細かな砂と濁りが浮いている。
「これが、今の井戸水だ」
ユウは、村人たちに見せた。
「この水を飲んで、腹を壊した者は?」
問いかけると、何人もの手が挙がった。
子どもを抱えた母親も、その中にいる。
「夏になると、どうしても……」
「雨のあとなんかは、特に良くないです」
誰かの声が、ぽつりと落ちる。
「この井戸を、少しだけ浄化してみます」
ユウは、桶をそっと地面に置いた。
「完全にきれいにすることは、一度では難しいかもしれません。
けれど、少なくとも、今よりはましな水にしたい」
井戸の縁に手を置き、目を閉じる。
水の流れ方。
地中の層。
溜まり方。
頭の中に、見えない図面が描かれていく。
(完全に澄んだ水を作るのは、まだ先でいい)
ユウは、心の中で呟く。
(まずは、“変化が分かるところ”からだ)
短く息を吸い、小さな詠唱を紡いだ。
井戸の中から、かすかな振動が伝わってくる。
水が、底の方からゆっくりと動き出していた。
桶の中の水面が、細かく揺れる。
やがて、揺れは収まり――
「……さっきより、濁りが薄いような」
誰かが言った。
実際、水面をよく見れば、浮いている砂の量が少し減っている。
底の方まで、うっすらと覗き込めるようになっていた。
「まだ、飲んだ方がいいと胸を張って言えるほどではありません」
ユウは正直に告げた。
「ただ、これを何度か繰り返しながら、排水路を整えていけば……
少しずつ、この村の水の質は変わっていきます」
「本当に、変わるんでしょうか」
問いかけの声は、先ほどよりも弱々しくはなかった。
疑いと同時に、期待が混じっている。
「変えます」
ユウは、はっきりと言った。
「時間はかかります。
今日や明日で劇的に変わるとは、僕も思っていません。
けれど、この最初の一日目を重ねていけば、必ず“違う明日”を作れます」
村人たちが、顔を見合わせる。
完全には信じきれていない。
それでも、“この領主は本気だ”ということだけは伝わったようだった。
「……分かりました」
最初に不安を口にした男が、もう一度口を開く。
「領主様がそこまで言うなら、俺たちも腹を決めます。
どうせ、このままじっとしていたって、水が減るわけじゃねえ。
なら、掘ってみますよ」
「ありがとうございます」
ユウは、深く頭を下げた。
「今日のところは、ここまでにしましょう。
皆さん、しっかり休んでください。
続きは、明日です」
◇
夕刻。
日が傾き、空が赤く染まり始める頃、ユウは村を後にした。
城塞都市へ戻る馬車の中で、マリアがそっと水筒を差し出す。
「本日分の作業、お疲れさまでございました」
「ありがとう」
喉を潤しながら、ユウは馬車の窓から外を眺めた。
遠くに見える村の方角。
そこには、今日引いたばかりの一本の溝が、細く黒い線となって伸びている。
まだ頼りない。
しかし、確かに存在していた。
「……どうでしたか、マリアから見て」
ユウは、水筒を返しながら尋ねる。
「正直に申し上げれば、まだ評価するには早いと思います」
マリアは率直だった。
「ですが、村の方々の表情は、朝と比べて変わっていました。
完全な不信ではなく、“様子を見る”という段階に進んでいたように見えます」
「それなら、悪くない始まりだ」
「はい。
少なくとも、“領主が本当に泥の中に立つ人間だ”ということは伝わったはずです」
マリアは、わずかに目を細めた。
「ユウ様。
本日、魔法を使われた回数は、私が数えただけでも十を越えております。
明日はもう少し、負担を分散させる計画を立てましょう」
「もう、ばれているか」
「側で見ておりますので」
ユウは苦笑した。
疲労は、確かに溜まっている。
腕も、足も、重い。
けれど、その重さは嫌いではなかった。
(ようやく、“始めた”という実感がある)
計画を立て、地図を描き、異世界ダイナリーで知識を確認するだけの日々は、準備としては必要だった。
しかし、実際の土と水に触れた今日の一日は、それとはまったく違う手応えをもたらしていた。
「明日は、今日掘った溝の補強と、次の枝の構想ですね」
マリアが手帳をめくる。
「はい。
それと、井戸の浄化をもう一段階進めましょう。
水の変化がはっきりすれば、村全体の気持ちも変わります」
「承知しました。
必要な道具と人員の割り振りは、今夜中にまとめておきます」
「頼りにしてる」
マリアは、少しだけ頬を染めたように見えた。
「私は、ユウ様の専属メイドですから。
お役に立てるなら、いくらでも働きます」
その言葉に、ユウの胸の内が少し温かくなった。
ヴァルトニアの空には、いつの間にか星がひとつ、またひとつと灯り始めていた。
湿地と泥と川に囲まれた小さな領地での改革は、まだ最初の一日目を終えたばかりだ。
だが、その一日目は、確かに地面に刻まれた。
翌日へ、明後日へ、その先の何年も続く日々へ――
その全ての出発点となる、一筋の溝と、わずかに澄み始めた井戸水と共に。




