第二十三話 マリアの到着と、二人で始める新しい日々
第二十三話 マリアの到着と、二人で始める新しい日々
ヴァルトニア領に夏の強い陽射しが降り注ぐ。
干拓が進み、まだ泥の匂いが残る湿地帯の向こうで、大河がきらりと光った。
輪中の形が見えはじめ、大地の輪郭は確かに変わりつつある。
だがその中心で――
ユウは、ひとつ長い息を吐いていた。
(マリアがいないだけで……生活の密度がこうも変わるとは)
領主としての仕事は山のようにあった。
排水路整備、浄化スライム槽の設置計画、輪中の線引き、村の移転候補地……。
作業そのものは異世界ダイナリーの知識で補える。
だが、日々の暮らしの節目――食事の準備、書類の整理、進捗の記録、睡眠の時間の調整。
それらすべてが途端に崩れる。
(……僕は、どれだけマリアに頼っていたんだろう)
口に出すと照れくさくなるが、事実として否定できなかった。
そんな折、館の門番が駆け込んできた。
「ユウ様! お客様が――ヴァルロード家の馬車が到着しました!」
「……え?」
思ったよりも早い。
手紙が届くまで四日、そこから馬車で四日。
ちょうど八日後――計算上、今のこの瞬間しかない。
ユウは反射的に玄関へ向かって走った。
◇
夏の日差しを受けて馬車が停まる。
その扉がゆっくり開き――マリアが姿を現した。
深い青の旅装をまとい、少しだけ汗を浮かべながらも、姿勢は崩れていない。
けれど、その瞳の奥にある安堵を、ユウは見逃さなかった。
「ユウ様。お迎えに上がりました」
丁寧な言葉のはずが、わずかに震えている。
旅の疲れだけではないことを、ユウはすぐに悟った。
「来てくれたんだね、マリア」
「……はい。お手紙を拝見してすぐに準備いたしました。
“必要としてくださる場所”に、遅れたくありませんでしたので」
その言い方にユウの胸がわずかに熱くなる。
「遠い道のりだっただろう。中へ――」
言い終える前に、マリアが一歩近づいてきた。
「ユウ様……少しだけ、お顔を拝見してもよろしいでしょうか」
「え……?」
「手紙をいただいてから、ずっと……心配しておりました。
どのようなご様子なのか……確かめたくて……」
そう言って見上げてくる瞳は、いつもの冷静さとは違い、柔らかく揺れている。
不意に距離が近くなり、ユウは胸の奥がざわめいた。
「僕は……大丈夫だよ。
ただ――君が必要だと思ったのは、本当だ」
「……そのお言葉だけで、私は十分です」
マリアは深く息を吐き、ほんのわずか頬を緩めた。
「では……入らせていただきますね。
今日からまた、ユウ様の傍で働けますこと……嬉しく思います」
◇
館の中へ入ると、ユウの生活の痕跡が一目で分かった。
書類は山。
食器は昨日のまま。
寝室には毛布がずれたまま放置されている。
マリアは一瞬だけ目を瞬いたが、すぐに静かに頷いた。
「……ユウ様。おひとりでよく、ここまで」
「いや……見れば分かるだろ。上手く回っていなかった」
「はい。よく分かります」
その返しはどこか柔らかくて、叱られているのに心地よかった。
マリアは袖をまくり、すぐに動き始めた。
机に積まれた書類を順番に分け、使われていた道具は種類ごとに並べ替え、
調理場に向かうと、迷わず食材を確認し、鍋を温め、香草を刻み始めた。
たった数分で空気が変わる。
部屋が“働ける場所”になっていく。
(……これだ。
僕が必要としていたのは、まさにこれなんだ)
「マリア」
「はい、ユウ様」
「……帰ってきてくれて、ありがとう」
マリアの手が一瞬止まる。
だがすぐに微笑みが戻った。
「ユウ様のメイドですから。
必要とされるところにいるのは当然の務めです」
言葉は控えめなのに、それ以上の何かが伝わってくる。
◇
やがて夕食が運ばれた。
干し肉と野菜を煮込んだスープ。
香草で香りをつけた焼きパン。
そして疲労回復のための温かな乳飲料。
「今日の献立は……移動と作業の疲労を考慮して選びました。
無理に力をつける料理ではなく、身体が落ち着くものを優先しております」
「……ありがとう。本当に、助かるよ」
「助けるためにおりますので」
その言葉に、ユウは胸の奥に静かな熱を感じた。
「マリア。
君がいない八日間――思っていた以上に大変だったよ」
素直に告げると、マリアの手がわずかに震えた。
「……そんなふうに言われると、旅の疲れなどすべてなくなってしまいます」
そして、少しだけ恥ずかしそうに続ける。
「ユウ様が……私を必要としてくださるのなら。
私は、どこへでも参ります」
言い回しは控えめでも、その想いは濃い。
ユウはスープを口に運びながら、小さく息を整えた。
(……ここからが本当の始まりだ)
輪中の造成。
湿地干拓。
都市の清潔化。
港候補地の選定。
村の移転と新生活支援。
そして――
リリスとの婚約発表後、正式な結婚へ進む未来。
そのすべてを形づくっていくために、
マリアの存在は欠かせない。
「これから忙しくなるよ」
「望むところでございます」
その返事は、迷いがなかった。
夕暮れの光が窓から差し込み、二人を照らす。
こうして――
ユウとマリアの“ヴァルトニア領改革の本当の第一歩”が始まった。




