第十九話 西の三つの村 ― 湿った土と、小さな火
第十九話 西の三つの村 ― 湿った土と、小さな火
ヴァルトニア城塞都市に入ってから、まだ二日しか経っていない。
けれど、その二日のあいだにユウは、街の下水の状況、井戸の位置、ゴミの捨て場、簡易便所の分布、さらには水路と大河との繋がりまで一通り目を通していた。
(城塞都市そのものは、思っていたよりも“崩れて”はいない。
ただ――この街だけを見ていても、この領地の本当の姿は見えてこない)
城門の向こう側に広がるのは、城下町と三つの村だけではない。
南には山脈、北には大河、東には海、そしてその間を埋める平地と湿地。
どこをどう切り取るかで、この領地は豊かにもなれば、ただの“厄介な土地”にもなる。
(まずは、西の三つの村。
人が暮らしている一番外側を知らなければ、内側の整備の意味も変わってしまう)
そう判断して、ユウは三日目の朝、マルケスに村々の視察を申し出た。
「本日、西側の三村を……でございますか」
執務室で地図を広げながら、マルケスは少しだけ目を丸くした。
「はい。街の事情は、おおよそ掴めました。
次は、ここに暮らす人たちの顔を知りたいと思います」
「承知いたしました。もとより、そのつもりでございました。
西の三つの村――ラディス、モルティ、ベイル。
いずれも、小規模ながら長く続いてきた村です」
「では、案内をお願いします。
馬車は一台で足りますか?」
「はい。道が良いとは言えませんので、軽い馬車で向かいましょう。
護衛も最低限に抑えた方が、村の者たちも構えずに済みます」
「任せます。今日の主役は、あくまで彼らですから」
そんなやり取りののち、ユウは簡素な外套を羽織り、城塞都市の西門へ向かった。
門の外には、小回りの利きそうな二頭立ての馬車が一台。
手綱を握っているのは、領兵上がりの御者だという、がっしりした中年男だった。
「ユウ様。私が道案内を兼ねて同行いたします。
マルケス殿には、城内で別件の調整をしていただく必要がございますので」
「分かりました。では、よろしくお願いします」
御者台の後ろ――背の低い荷台に腰を下ろしながら、ユウはそっと振り返る。
城壁の上から、遠く赤毛の少女がこちらを見ている気配がした。
(……気のせい、ではなさそうですね)
あの小さな人影がティアであることは、言われなくても分かる。
リリスが「危ないことをするようなら、必ず知らせてください」と言い含めたに違いない。
(きっと、学園の寮からも同じように空を見ているんだろうな)
王都に残してきたリリスの顔が、自然と思い浮かぶ。
夏季休暇のあいだ、二人は何度か文を交わすと決めていた。
最初の手紙には、「ヴァルトニアでの“最初の一歩”を、楽しみにしています」と可愛い文字で綴られていた。
(……良い報告ができる一日になればいい)
そんな静かな願いを胸に、ユウは馬車の揺れに身を任せた。
◇
城塞都市の外へ出ると、景色はすぐに変わった。
北には、ゆったりとした流れの大河が、鈍い銀色の帯となって横たわっている。
東の先には海があるはずだが、ここからはまだ波の気配は届かない。
南を見れば、山脈の稜線がかすんでいる。その山々から流れ出た二本の川が、領地の中央を北へ向かって走り、大河へ合流している。
そして――その二本の川よりも、西側。
そこに、三つの村がぽつりぽつりと点在していた。
「村が、全部西側に寄っているのですね」
ユウが尋ねると、御者が頷いた。
「はい。川より東は湿地が多く、とても家を建てられる状態ではありません。
それに、昔から“南の山脈からの魔物が北へ抜けないように”という意味合いもありまして。
村々は、城塞都市と連携しやすい西側へ、自然と集まっていったのでございます」
「なるほど。
人が守られた場所へ集まるのは当然です。
……その結果、湿地は“誰にも見られないまま”放置されてきたわけですね」
御者は苦笑した。
「お恥ずかしい限りです。
“元からそういう土地だ”と、皆が思い込んでおります」
(“元からそういう土地だ”――それが一番厄介だ)
ユウは心の中でつぶやく。
前世の記憶と、異世界ダイナリーから引き出した膨大な文字列が、頭の中で静かに組み合わさっていく。
湿地を干拓して輪中を作り、農地と集落を守った世界。
大河と支流を活かし、港と流通を作り上げた国。
(ここは、似ている。
条件さえ整えれば、確実に化ける土地だ)
最初の村――ラディスが見えてきたのは、城塞都市を出てから一刻ほど経った頃だった。
◇
土の色も、柵の高さも、家の数も、まさに「小さな村」という印象だ。
ただ、近づくにつれ、ユウは違和感を覚えた。
(人の声が、少ない)
畑には人影がある。
それなりの数の子どもも見える。
けれど、笑い声がほとんど聞こえない。
馬車が止まると、村長と思しき老人が慌てて駆け寄ってきた。
「ヴァルトニア卿……でいらっしゃいますな。
こんな辺鄙な村へ、お越しいただけるとは……!」
「ユウ・ヴァルトニアです。突然押しかけて申し訳ありません。
領の外れがどんな様子なのか、自分の目で見ておきたくて」
ユウがそう名乗ると、周囲にいた村人たちがざわめいた。
「お若い……」
「本当に、この方が……」
老人は深く頭を下げたまま、申し訳なさそうに言う。
「お見せできるものなど、ほとんどございません。
土地は年々痩せ、川の水は増えるばかり。
我々の力では、どうすることもできず……」
「まずは、畑と川を見せてください。
“何もできなかった理由”を知るところから始めたいと思います」
ユウは余計な慰めを口にしなかった。
口先だけの言葉は、長く諦めてきた人の耳には届かない。
必要なのは、「具体的に何を変えるか」を示すことだ。
村長に案内されて歩き出すと、足裏にじわりと湿気が伝わってきた。
地面は見た目以上に柔らかい。
踏みしめるたび、靴がわずかに沈む。
(これは……川の水が地中に溜まり続けた結果か)
村のすぐ外れには、一本目の川から分かれた細い流れが、半ば自然のままうねっていた。
川べりには簡素な土手が築かれているものの、それは「決壊を防ぐ」ための最低限のものに過ぎない。
「増水の時期は、大変でしょうね」
ユウが尋ねると、村長は苦い顔をした。
「ええ……。
春先の雪解けと、夏の長雨の頃には、畑の半分が水に浸かります。
せっかく芽吹いた苗が、そのたびに駄目になってしまいまして……」
「畑は、毎年同じところに?」
「はい。
土地を動かす余裕も、人手もございませんので……」
(湿地が増え、畑は減る。
収穫は落ち、食べる分だけで精一杯になる。
結果として、排水路を整える余力も生まれない――よくある悪循環だ)
ユウはしゃがみ込み、土を指でつまんだ。
黒く、柔らかい。
水分さえ適正ならば、間違いなく良い土だ。
「――いい土ですね」
「……え?」
「水が多すぎるだけです。
このままでは“泥”ですが、余分な水を逃がしてやれば、“畑”になります」
村長は、信じられないものを見るような顔をした。
「そんな……本当に、そのようなことが……?」
「ヴァルトニア城塞都市から、この村までの道筋を、一本の“輪”のように繋ぎます。
村の周囲に溝を掘り、支流と大河へ流す道を作る。
いきなり大工事はできませんが、少しずつでも水の行き場を作っていけば、地面は変わります」
村長は唇を震わせた。
「わ、わしは……この土地は、もうどうにもならんのだと思っておりました。
この湿気も、ぬかるみも、“生まれつきの呪い”のようなものだと……」
「呪いではありません。
ただ、水の通り道を忘れられているだけです」
ユウは淡々と答えた。
「時間はかかりますが、必ず変わります。
そのために、僕はここに来ました」
村長の目に、うっすら涙が浮かんだ。
「……この村で暮らしてきて、初めて“良くなる”という言葉を信じられそうな気がしました」
「信じていただけるなら、あとは僕が仕事をするだけです」
そう言って、ユウは立ち上がった。
西の空に漂う雲が、ゆっくりと形を変えている。
(ラディスは、“水の行き先”の問題だ。
排水路と輪中――最初に手を入れるべき場所が、ひとつ決まった)
◇
二つ目の村――モルティは、ラディスよりもわずかに高い場所にあった。
丘陵に近い分、地面は乾いている。
しかし、その分だけ別の問題を抱えていた。
「……痩せていますね」
畑の中央に立ち、ユウは土を指先でほぐした。
ぱさり、と崩れる。
色も薄い。
さっきのラディスの土とは、明らかに違っていた。
「ここ数年、収穫がどんどん落ちていまして……」
村の代表らしい中年の男が、頭をかきながら言った。
「肥料は、毎年入れているんですが、どうにも……」
「作っているのは?」
「主に小麦です。
数年前までは、そこそこ獲れていたのですが……」
(連作だな)
ユウは心の中で呟いた。
異世界ダイナリーから引き出した膨大な文字列の中に、「ノーフォーク農法」という言葉がある。
小麦だけを作り続ければ、土は疲弊する。
だからこそ、いくつかの作物を順番に育てることで、土地を休ませ、肥やす仕組みだった。
「――輪作をしましょう」
「りん……?」
代表が首をかしげる。
「小麦、じゃがいも、大麦、クローバー。
この四つを、年ごとに順番に回していきます」
「じゃがいも、というのは……」
横から、痩せた少年が一歩踏み出してきた。
肩まで伸びた髪は風にあおられ、頬はこけている。
それでも、目だけは妙に強い光を帯びていた。
「城塞都市の市場で、一度だけ見たことがあります。
芋なのに、火を通すとやたらと腹に溜まるやつです」
「その通りです」
ユウは頷く。
「じゃがいもは、痩せた土地でも育ちます。
最初の一年は収穫の形もばらつくでしょうが、その代わり――土が息を吹き返します」
「息を……?」
「今の畑は、長く走らされ過ぎた人間と同じです。
休む場所も、水を飲む余裕も与えられず、倒れる寸前まで働かされている。
これ以上小麦だけを求めれば、ある日突然、何も出せなくなる」
少年が、ごくりと喉を鳴らした。
「じゃがいもを作ったら、その年は小麦は……?」
「少し減るでしょうね」
正直に答える。
「けれど、その一年を乗り越えれば、次の年、さらに次の年と、戻ってくるものは大きくなります。
クローバーは家畜の餌になり、大麦は麦酒にも変えられる。
畑は“働き方”を変えるだけで、人も家畜も支えられるようになるはずです」
代表は腕を組み、しばらく黙り込んだ。
村人たちも息を呑んで様子を見守っている。
誰も、「そんな夢みたいな話を」とは口にしない。
ただ、未知のものを前にした不安が、空気を重くしていた。
沈黙を破ったのは、さきほどの少年だった。
「……やってみたいです」
その声は、決して大きくはない。
けれど、はっきりとした芯があった。
「このまま小麦だけ作り続けても、どうせ僕らの代で終わります。
子どもたちに残せるものは何もなくなる。
だったら、一度くらい勝負してもいいんじゃないでしょうか」
「お前……」
代表が目を丸くする。
少年は、照れくさそうに肩をすくめた。
「城塞都市でも、少しだけ勉強させてもらいました。
“今のまま”を続けるのは、楽なようで一番苦しいって、学びました」
ユウは、わずかに口元を緩めた。
(この村は、この少年を中心に変わっていくかもしれない)
「輪作の具体的なやり方は、こちらで図にしてお渡しします。
最初の一年は、こちらからも人を送りましょう。
自分たちの手で回せるようになるまで、責任を持ってお付き合いします」
代表は深く頭を下げた。
「……ヴァルトニア卿。
我々は貧しい村で、あなたにお返しできるものなど、ほとんどございませんが……」
「返礼なら、いずれこの土地がしてくれますよ」
ユウは首を振った。
「この村が豊かになれば、城塞都市も潤います。
ヴァルトニア領全体の力が上がれば、王国にとっても利益になる。
僕は、そういう形の“お返し”が一番好きなんです」
少年の目が、ますます輝きを増した。
◇
三つ目の村――ベイルは、他の二つと少し雰囲気が違っていた。
湿地に最も近い立地のせいか、家々の土台は高く組まれ、足場の悪さをごまかすように板が渡されている。
にもかかわらず、村の空気は妙に賑やかだった。
「……ここは、思ったよりも活気がありますね」
ユウの言葉に、御者が苦笑を漏らす。
「ええ。理由が一つだけ、はっきりしております。
この村――炭焼きが盛んでしてな」
村の外れに目を向けると、いくつもの小さな炭窯が見えた。
白い煙が、空へ向かって撫でるように昇っていく。
炭窯のそばで忙しなく動き回っている青年が、こちらに気づいて駆け寄ってきた。
「お、お待ちしておりました!
ヴァルトニア卿……で、いらっしゃいますか?」
「ユウで構いません。
あなたが、この村の炭焼きをまとめている方ですか?」
「は、はい。トミスと申します。
父の代から炭窯を守っておりまして……」
トミスの肩は煤で黒く汚れていたが、その瞳は真っ直ぐだった。
「湿地に近いせいで、畑は思うように育ちません。
ですが、ここいらの木は火持ちが良くて……炭にすると街で高く買ってもらえるんです。
だから、なんとか生きてこられました」
「立派です」
ユウは素直に言った。
「自分たちの土地で何が生きるのか、きちんと見ている。
それだけでも、この村はすでに一歩前に進んでいます」
トミスは耳まで赤くした。
「し、しかし……湿地は年々広がる一方でして。
このままでは、炭窯の場所も奪われてしまいます。
どうにか、ならないものでしょうか」
「なりますよ」
ユウは、迷いなく答えた。
「ラディスと同じです。
余分な水の行き場を作る。
街の下水と排水路を整え、それを西側へ伸ばし、最終的には湿地全体から水を引き抜く」
「そんな大それたことが……」
「一度で片付くとは思っていません。
ですが、方向さえ決めてしまえば、あとは時間と根気の問題です」
ユウは少し表情を引き締める。
「その代わり――あなた方の炭は、この領地の大きな柱になります。
白炭、黒炭。
今は黒炭が中心のようですが、火加減と窯の作り方を工夫すれば、白炭も作れるはずです」
「し、白炭……?」
「長く燃え、匂いも少ない炭です。
王都の料理屋や、鍛冶場などで重宝されます。
耐火レンガの窯を作る際にも欠かせない素材になる」
トミスは、ほとんど息をするのも忘れたような顔で聞いていた。
「そんなものまで……この村から?」
「ええ。
湿地が乾けば、道ができる。
道ができれば、荷車も行き来できる。
荷車が通えるようになれば、王都とも繋がる。
王都へ炭を送り、代わりに道具や知識を受け取る。
その循環が生まれれば、この村は“湿地の端”ではなく、“王都と繋がる炭の村”になります」
トミスは拳を握りしめた。
「……待ちます。
どれだけ時間がかかっても、窯を守ります。
この村から出した炭が、ヴァルトニアの役に立つのなら」
「役に立ちますよ。
僕がそうします」
その言葉に、周囲で見守っていた村人たちの表情が変わった。
不安と期待が入り混じった空気が、少しだけ軽くなる。
◇
夕刻。
三つの村を回り切り、城塞都市への道を戻る馬車の中で、ユウは静かに息を吐いた。
ラディスの湿った土。
モルティの疲れた畑。
ベイルの炭窯から立ち上る煙。
それぞれが違う問題を抱えながらも、共通しているものが一つあった。
(どの村も、“諦めること”に慣れてしまっていた。
それでも、誰かが一言、未来の話を口にすると――あんな顔をするんだ)
目を閉じれば、ラディスの村長の震える瞳が浮かぶ。
モルティの少年の、未来を見ようとするまなざしが戻ってくる。
ベイルのトミスの、煤だらけの拳が握りしめられる感触が思い出される。
(……リリス様にも、早く伝えたい)
彼女なら、「良かったですね」と微笑んでくれるだろう。
そのうえで、「ここからが大変ですね」と、厳しい現実も見据えた言葉をくれるはずだ。
(そう言ってもらえるように、ここと向き合っていきたい)
馬車の揺れが少し強くなり、遠くに城塞都市の城壁が見えてきた。
「ユウ様」
御者がぽつりと話しかけてくる。
「西の三村を回られたのは、今日が初めてでございますね」
「ええ。ようやくお会いできました」
「……あの者たちは、きっと今日のことを一生忘れません。
“自分たちのことを見に来てくれた領主がいる”という事実だけで、救われる者もおります」
「事実だけで終わらせるつもりはありませんよ」
ユウは軽く笑った。
「見に来たからには、手を入れます。
輪中も、輪作も、炭焼きも。
全部この領地の“武器”にするつもりです」
城門が近づき、門番たちが姿勢を正す。
その向こうには、下水の整備を待つ街があり、湿地の水を逃がすための計画図があり、
そして――遠く王都には、彼の帰りを待つ婚約者がいる。
(ヴァルトニアは、まだ生まれたばかりの領地だ。
ここから先の一歩一歩は、全部、自分の責任で刻まれていく)
ユウは胸の奥で、そっと言葉を結ぶ。
(西の三村は、確かに応えてくれた。
次は――僕の番だ)
馬車は静かに城門をくぐり、夕暮れの城塞都市の中へと戻っていった。




