第六話 敷地内の離れと約束
第六話 敷地内の離れと約束
四歳になったユウ・ヴァルロードは、屋敷の構造をほぼ理解していた。
本殿、中庭、訓練場、書庫、使用人棟。
そして、そのさらに奥――木立の内側にひっそりと存在する、小さな建物。
誰もが知ってはいるが、ほとんど使われていない場所だ。
◇
本殿の大浴場は、相変わらず立派だった。
天井まで立ち上る蒸気。広々とした湯船。何人でも同時に入れる造り。
だがその湯に浸かっているのは、今日もユウ一人だった。
(……やっぱり、これはおかしい)
湯を張るために動く使用人。温度を調整する侍女。終わったあとの清掃。
すべてが「自分一人のため」に行われている。
申し訳ない、という感情よりも先に浮かんだのは「非効率」という言葉だった。
(もっと楽な方法があるはずだ)
そう考えていたとき、思い出したのが、あの離れだった。
◇
翌日、剣の訓練を終えたユウは、警護の騎士に声をかけた。
「……あの離れを、見てみたいです」
「承知しました。ご案内いたします」
一人で行かない。
それはこの家で生きる者として当然の認識だった。
静かな足音とともに、木立の道を進む。
敷地内ではあるが、人の往来は少ない。そのぶん、静けさが際立っている。
扉を開けると、控えめな空間が広がった。
机。椅子。棚。
そして一人用の小さな湯殿。
(……これで充分だな)
本殿の大浴場とは比べものにならないが、自分が使うにはこれで足りる。それどころか、むしろ過剰な空間を使っていたことを実感した。
◇
ユウはその足で父の執務室を訪れた。
「入れ」
「……ご相談があります」
「聞こう」
「本殿の浴場は、私しか使っていません」
父は黙って頷く。
「それなのに、毎日あれほど大きな湯殿を使うのは、皆に負担をかけすぎています」
顔を上げ、続けた。
「敷地内の離れを、学習と静かな時間の場として使わせていただけないでしょうか」
「理由は?」
「離れの湯殿は小さいので、準備も片付けも簡単です。こちらを使えば皆の手間を減らせます」
一瞬、父の表情がやわらいだ。
「使用は日中のみで構いません。生活はこれまで通り本殿で行います」
しばらく考えるように目を閉じ、やがて口を開いた。
「よかろう。ただし条件がある」
「はい」
「お前は決して一人で離れへ行ってはならない。必ず護衛か使用人を同行させること」
「わかりました」
即答だった。
その言葉に、父は静かに頷く。
「では、離れの使用を許可しよう」
◇
それ以降、ユウが離れへ向かうときは必ず同行者がついた。
「ユウ様、参りましょう」
「はい」
それは不自由ではなかった。むしろ「当然の約束」として、素直に受け入れていた。
離れでは、文字の練習、計算、魔力の安定訓練を行う。
静かな空気の中で思考を巡らせ、自分の内側と向き合う時間。
そして昼過ぎ、小さな湯殿へ入る。
本殿の大浴場とは違い、必要最低限の労力で済むそれは、ユウにとって「適切な選択」だった。
(これでいい)
◇
離れでの時間を終え、本殿へ戻るとき。
警護の騎士がふと呟いた。
「坊ちゃまは、いつも周りのことを考えておられますな」
ユウは何も答えなかった。ただ静かに歩く。
自分が選んだ空間で、自分の時間を持つ。ただそれだけで十分だった。
四歳の少年は、誰よりも早く「合理」と「配慮」を理解していた。
そして離れは、その象徴となる場所へと変わっていく。




