三章 第15話:婚約発表の朝 ― 揺れる学園と、新たな
三章 第15話:婚約発表の朝 ― 揺れる学園と、新たな義務
朝一番、王都のヴァルロード伯爵邸は、いつもより少しだけ落ち着きがなかった。
玄関前に王城の紋章を掲げた使者の馬車が止まり、礼を尽くした挨拶の後、厚みのある封筒が二通、家臣の手によって執務室へ運ばれていく。
ユウは、その封筒が自分に関わるものだとすぐに理解した。
(とうとう来たか)
胸の奥で静かに息を吸い、父の部屋の扉をノックする。
「ユウだ。入れ」
低い声に促され、扉を開けた。
執務机の向こうには、オルグレイン・ヴァルロード伯爵。
隣には母エレノアも姿を見せていた。今日は朝食前だというのに、既に外出用のドレスへと着替えている。
「おはようございます、父上、母上」
「おはよう、ユウ」
オルグレインは短く挨拶を返すと、机の上の封筒を指先で軽く叩いた。
「王城からだ。二通ある。一つはグレイハルト公爵家にも同じものが届いているだろう」
封は既に切られている。
父は一枚の羊皮紙を持ち上げ、はっきりとした声で読み上げた。
「――ヴァルロード伯爵家嫡男ユウ・ヴァルロードと、グレイハルト公爵家令嬢リリス・フォン・グレイハルト。
両家の合意に基づき、その婚約を本日付けで公式に王都へ通達する、とのことだ」
言葉としては、既に知っていた内容。
だが「王城の正式文書」として示されると、その重みがまるで違って感じられる。
(ついに、公表される)
胸が高鳴った。
エレノアが微笑みを含んだ視線でこちらを見る。
「おめでとうございます、ユウ。
今まで水面下で進めていたことが、やっと形になりましたね」
「ありがとうございます、母上」
ユウは素直に頭を下げた。
伯爵はもう一枚の羊皮紙に視線を移す。
「そして二通目だが……こちらは少し趣きが違う」
ゆっくりと文面を追い、わずかに目を細める。
「――“ユウ・ヴァルロードのこれまでの治水・産業振興・王家への献上における功績を鑑み、
王家は新たに男爵位を授ける準備に入る。授与式は一週間後、王城謁見の間にて執り行う”」
一瞬、部屋の空気が止まったように感じた。
「……一週間後、ですか」
思っていた以上の速さだった。
蜂蜜の献上、ため池と堤防による治水、領地産業としての化粧品。
そして先日の王妃用特別化粧品の献上。
それらが点ではなく線として繋がり、これほど早く形になるとは予想していなかった。
「驚いたか?」
父の問いに、ユウは小さく息を吐いた。
「はい。功績として評価していただければ十分だと思っていましたので……
爵位までいただけるとは、正直、想定の外でした」
オルグレインは、そんな息子の反応に満足そうに頷く。
「想定の外であったとしても、現実は現実だ。
これでお前は、将来的にヴァルロード伯爵家の跡取りであると同時に、男爵家としても名を持つことになる」
エレノアも、静かに口を開いた。
「王妃陛下は、“あの夜からこの日までの歩みを含めて”評価してくださったのだと思いますよ」
年末舞踏会の夜。
リリスの隣に立った自分の姿を、ユウは思い出す。
(あの時の判断が、こうして繋がるのか)
感傷に浸る暇もなく、伯爵は表情を引き締めた。
「さて……ここからは、少々現実的な話をせねばならん」
ほんのわずかに空気が変わる。
「男爵位を持つということは、“家”を持つということだ。
家を持つからには――次の代へ繋ぐ義務が生じる」
「……跡継ぎ、という意味でしょうか」
「ああ。これは情ではなく、制度だ。
男爵位以上の家には、“家を絶やさぬこと”が求められる。
そのために、多くの家では側室を置く。正妻だけでなく、複数の妻から子を迎えることで、血筋を安定させるのだ」
分かってはいた。
前世で読んだ物語や歴史の中でも、似たような慣習は何度も目にしている。
だが、今回は自分自身の問題だ。
「……つまり、将来的に、僕は側室を持つことを前提に動くことになる……という理解でよろしいでしょうか」
ユウが確認すると、父は短く頷いた。
「そうだ。だが――ここを勘違いするな」
オルグレインの声が、わずかに強くなる。
「正妻の尊厳と意向を無視してよいという意味ではない。
リリス嬢は、公爵家から嫁いでくる貴重な一人娘だ。
彼女を傷つける形で側室を持つことは、私は許さん」
エレノアも、穏やかな笑みのまま言葉を重ねる。
「それに、側室は“数”の問題ではありません。
家の事情と本人の覚悟が揃って、初めて語るべき話です。
今は、男爵位をいただくことによって、そういった将来の義務も視野に入る――その程度で受け止めておきなさい」
ユウは、しっかりと頷いた。
「承知しました。
……いずれその時が来たとしても、リリス様の心をないがしろにするやり方だけは、絶対に選びません」
エレノアが、ほんの少しだけ目を細める。
「ふふ。そう言い切れるところは、あなたらしいわね」
父は椅子から立ち上がり、窓際へと歩み寄った。
「婚約の公表と、男爵位授与の知らせ。
今日一日で、学園の空気も、貴族社会も大きく動くだろう。――覚悟して登校しなさい」
「はい」
ユウは深く頭を下げた。
◇
その朝の学園前は、いつも以上にざわついていた。
王都に住む貴族たちの屋敷から次々と馬車が到着し、家紋のついた扉が開くたびに、生徒たちの視線がそちらへ向く。
「ねえ、聞いた? ヴァルロード様とグレイハルト公爵令嬢の婚約が、正式に公表されたって」
「噂じゃなくて、本物の公文として回ってきたわよ。
それに――ヴァルロード様、男爵位も授かるらしいわ」
「まだ学生なのに? 本当に?」
「本当らしい。治水と産業と王家への献上で、もう大人顔負けの働きだって」
そんな会話が、あちこちで交わされている。
そこへ、ヴァルロード伯爵家の馬車がゆっくりと乗り付けた。
扉が開き、最初に降り立つのはユウ。
続いてマリア・ベルモンドが、慎ましやかな制服姿で後に続く。
その少し後。
グレイハルト公爵家の紋章を掲げた馬車が現れる。
淡い銀の髪を上品にまとめた少女が、ゆっくりと姿を現した。
リリス・フォン・グレイハルト。
今日は学園の制服に、公爵令嬢としての品格を崩さない範囲で、ささやかなリボンの飾りを加えている。
その後ろに、赤毛の少女――ティアが控える。
孤児出身とは思えないほど整った礼儀と所作で、主の後ろに立っていた。
「本当に、並んでいる……」
「噂じゃなかったんだ」
ユウとリリスが自然に視線を合わせる。
「おはようございます、リリス様」
「おはようございます、ユウ様」
互いに、ごく当たり前の挨拶を交わしただけ。
それだけなのに、周囲の空気が一段階変わるのが分かる。
ティアは主の横顔を見て、胸の奥で静かに喜んでいた。
(やっと……堂々と並べるようになったんだ)
マリアも、少しだけ目を細める。
(本当に、ここまで来たのですね……)
その表情には、寂しさではなく、誇りが宿っていた。
◇
Sクラスの教室は、他のクラスと比べてずっと静かだった。
生徒の数は、ユウとリリスの二人だけ。
従者としてマリアとティアが控え、それぞれ必要な教材の準備を整えている。
黒板の前には、王立学園でも古参とされる男性教官が立っていた。
「まずは、一つ伝えておく」
教官は、いつもの無表情を少しだけ和らげた。
「ユウ・ヴァルロード、リリス・フォン・グレイハルト。
婚約の公式公表、および男爵位授与の内示、おめでとう」
「ありがとうございます」
「感謝いたします」
二人は席を立ち、一礼する。
教官はすぐに表情を戻した。
「――だが、ここは祝宴の場ではない。
Sクラスは、成果を求められる場だ。今日の授業も、いつも通り進める」
黒板には、既に複雑な数式と表が書き連ねてあった。
「今日は、領地の規模と税率を組み合わせた収入予測の演習だ。
戦時と平時、三十年単位の人口変動を仮定して、どの程度の税率変化が許されるか考えろ」
ユウは瞬時に前世の知識と、この世界の事情を結びつける。
リリスもまた、公爵家で学んだ内容を思い出しながら、迷いなくペンを走らせ始めた。
ふと、机の下で何かが触れた気がした。
視線を落とすと、リリスの手の甲が、ほんのわずかに自分の指先にかかっている。
彼女も気づいたのか、小さく身じろぎした。
逃げるように離れるかと思いきや――
ほんの少しだけそのままでいて、やがて、ごく自然な動作で離していく。
(……可愛い)
その一言は、さすがに口には出さなかった。
◇
昼休み。
Sクラスの授業が一区切りついたところで、教官が告げる。
「午後は各自、自習とする。
明日からは、男爵位授与に伴う日程調整も入るだろう。体調を崩すな」
教室を出ようとしたところで、リリスがそっと袖を引いた。
「……ユウ様」
「はい?」
「少しだけ、お時間をいただいてもよろしいでしょうか。
できれば、中庭の方で」
その声音は、いつもの公爵令嬢としてのものより、わずかに柔らかい。
「もちろんです。マリア、ティアは?」
「私たちは廊下で控えております」
「分かった。何かあればすぐ呼んでください」
マリアとティアを残し、二人は中庭へ向かった。
冬の空気は冷たいが、日の差す場所はやわらかく温もりを含んでいる。
木の影が伸びるその一角で、リリスは立ち止まった。
「……改めて、になりますが」
振り向いた彼女の頬が、ほんの僅かに紅く染まっている。
「婚約の正式な公表……おめでとうございます、と言うべきなのか、ありがとうございますと言うべきなのか、少し迷ってしまいました」
「どちらでも、嬉しいですよ」
ユウがそう答えると、リリスは小さく笑った。
「でしたら、両方にしておきます。
おめでとうございます。そして、ありがとうございます」
深く息を吸い、少し言葉を選ぶように続ける。
「――私は、あの夜からずっと、夢を見ているようでした。
王太子殿下に婚約を破棄されたあの場で、ユウ様が私の手を取ってくださって……
その後も、変わらず隣に立ち続けてくださったことが、あまりに幸運で」
「それは僕の方の台詞でもありますよ」
「どうして、ですか?」
「好きな人と婚約できたのですから。これ以上ない幸運です」
ストレートな言葉に、リリスの耳まで赤くなる。
「……こういうところが、ずるいのです」
「ずるいと言われる筋合いは、少しだけ抗議したいところですが」
「だって……そんなふうに言われたら、嬉しくて、また好きになってしまうではありませんか」
彼女は一度視線を落とし、それから少し表情を引き締めた。
「ただ……一つだけ、聞いておきたいことがあります」
「どうぞ」
「男爵位をいただくことになったと伺いました。
――それは、おめでたいことです。
ユウ様の努力と才覚が、正当に評価された証です」
「ありがとうございます」
「同時に、男爵家の当主として、“家を絶やさない責務”が生まれる……と、父から聞きました。
つまり、いずれ側室を持つことも前提に考えなければならない、と」
声は静かだが、その奥に揺れがあった。
「頭では理解しているつもりです。
貴族として生まれ、家を継ぐということは、そういう現実を受け入れることだと」
リリスは胸元で両手を重ね、小さく息を吐いた。
「でも……正直に申し上げると、少しだけ胸が苦しくなります」
その言葉を聞いて、ユウはすぐに否定しなかった。
軽い慰めや、安易な約束を口にするには、あまりにも重い話題だったからだ。
「……僕も、父から似た趣旨の話をされました。
男爵位を持つということは、家を続ける責任を負うことだと」
「はい」
「けれど父は同時に、“正妻の尊厳と心を傷つける形で側室を持つことは許さない”とも言いました。
少なくともヴァルロード家では、“数”のためだけに人を迎えるつもりはありません」
リリスの瞳が、少しだけ揺れる。
「僕自身の考えを言えば――」
ユウは言葉を選びながら続けた。
「僕は、あなたを最優先にします。
どれほど地位が変わろうと、どんな義務が増えようと、その一点は変えるつもりはありません」
「……」
「もし将来、本当に側室を迎える必要が生じたとしても、その時はあなたときちんと話し合います。
一方的に決めて、後から告げるような真似だけは絶対にしません」
リリスは、じっと彼の顔を見つめた。
「……本当に、そうしてくださいますか?」
「僕が約束を違えたことがありましたか?」
即答に、リリスは少しだけ笑った。
「いえ。一度もありませんでした」
笑いながら、瞳に光が差す。
「でしたら、信じてみようと思います。
私が選んだ人が、そこまで言ってくださるのですから」
「選んだ、という言葉は、何度聞いても嬉しいものですね」
「本当のことですから」
そう言ってから、彼女は少しだけ頬を染めた。
「……それに、ユウ様がどれほど忙しくなられても、
こうして時々、中庭でお話しできる時間があれば、私はそれで満たされてしまいそうです」
「満たされてしまう、というのは、少しだけ責任の重い表現ですね」
「責任を感じてください」
リリスは、冗談めかして言った。
「私は、すでに随分とユウ様に惹かれています。
もう後戻りできないくらいに」
その告白めいた一文に、ユウの胸が強く打った。
「……光栄です」
「光栄、だけですか?」
「とても嬉しくて、今少し困っています」
「どうして困るのですか?」
「ここが学園でなければ、もう少し分かりやすい形で気持ちを伝えたくなるので」
リリスの顔が、一瞬で真っ赤になる。
「そ、そういうことを、さらりと言わないでください……!」
中庭の木々が揺れ、枝の隙間から光がこぼれる。
遠くからは、昼休みを告げる鐘の音と、生徒たちの笑い声が聞こえていた。
◇
その昼の出来事は、当然ながら学園中の噂になった。
ユウとリリスが、正式な婚約者として並んで登校したこと。
王城から男爵位授与の内示が出たこと。
そして、Sクラスの教官が授業前に祝辞を述べたこと。
「時代が動いているわね……」
「王太子殿下より先に、学生が爵位を一つ増やすなんて」
「でも、あの二人なら不思議じゃないかも」
そんな声が、あちこちから聞こえる。
アルベルトは、その噂話を窓際で聞きながら、静かに腕を組んでいた。
「……ふん。あいつは、あいつの道を進んでいるだけだろう」
声には以前のような棘は少ない。
プライドは相変わらず高いが、少なくとも「結果を出している者」に対する認識は変わり始めていた。
隣でセレスティアが、いつもの柔らかな笑みを浮かべる。
「殿下も、最近はとてもお忙しいですもの。
誰かと比べる必要はありませんわ」
「当然だ。俺は俺だ」
そう言いつつも、胸の奥で別の感情が揺れていることを、自分でもうすうす感じていた。
◇
その日の放課後。
ユウは、リリスと連れ立って校門を出た。
ティアが主の荷物を受け取り、マリアが一歩下がって二人を見守る。
「ユウ様」
「はい」
「男爵位の授与式の後……
正式な婚約指輪のこと、楽しみにしていますね」
リリスが、少しだけいたずらっぽく微笑む。
「――もちろん。
あなたにふさわしいものを用意できるよう、全力を尽くします」
「それを聞いて、また好きになりました」
「それは嬉しい誤算ですね」
そんなやり取りを交わしながら、四人はそれぞれの馬車へと向かっていく。
王都の空は、ゆっくりと夕暮れ色に変わり始めていた。
一週間後には、男爵位授与という新たな節目が待っている。
それは、ユウにとって「責任の増加」であると同時に――
リリスとの未来を、さらに確かなものにしていくための一歩でもあった。




