第三章 第十四話 公爵家の招待 ― 婚約発表の前夜
第三章 第十四話 公爵家の招待 ― 婚約発表の前夜
王都の夕暮れは、今日もいつもと変わらない喧騒に包まれていた。
街路を行き交う馬車の車輪音、人々の話し声、店先から漂う焼き菓子と香油の香り。
ユウにとって王都は、領地とは別のもう一つの生活の拠点だ。
だが今夜だけは、いつもの街並みが胸の奥をわずかに締めつける。
(……いよいよ、公爵家との“最終確認”か)
夕刻、ヴァルロード伯爵家の馬車は静かにグレイハルト公爵邸へと入った。
玄関では最低限の従者のみが控え、儀礼ではなく「内々の席」であることを示していた。
既に父オルグレインも同乗している。今日は“家同士の最終合意”を行う日だった。
◇
通された応接室は豪奢だが、無駄な飾りはない。
応接席の中央に立つグレイハルト公爵オルフェンは、背筋を伸ばしたまま、ユウたちを迎えた。
「よく来てくれた。掛けてくれ、伯爵、ユウ殿」
声は静かだが、いつもよりわずかに硬かった。
ユウは父と共に席へつき、簡潔な挨拶を交わす。
温められた茶が運ばれると、すぐに本題へ入った。
「――リリスの件だ」
短い前置き。それだけで空気が変わる。
オルフェンは一呼吸だけ置き、真正面から言った。
「舞踏会のあと、我が家としては“婚約破棄を公爵家側から正式に受け入れる”と決定した。
王太子の独断であったことは、今も変わらないが……これ以上関わる価値もない」
その声に濁りはない。
公爵家としての決別がはっきり示されていた。
「そして――リリスとヴァルロード家との縁についてだ」
(……来た)
ユウが姿勢を正すと、公爵の視線はわずかに柔らいだ。
「婚約はすでに水面下で了承されている。
あとは“いつ公表するか”だけが残っていたが……」
言葉がそこで切れる。
その続きを促すように、父オルグレインが静かに頷いた。
「ユウ。先に話しておくべきことがあるだろう」
ユウは深呼吸をし、公爵に向き直った。
「……本日、王妃陛下より直接、男爵位授与の準備が始まっていると伺いました。
今回の献上品――特別化粧品に対して、王家が“功績として認める”とのことです」
それを聞いた瞬間、公爵オルフェンの表情がわずかに動いた。
「……男爵位、だと?」
父オルグレインも、穏やかな笑みを浮かべながら慎重に言葉を付け加える。
「まだ王都の公式文書には出ていませんが、遅くとも数日以内には公表されるでしょう。
王妃陛下が“特別に声をかけた”という事実が、何よりの証です」
沈黙がひとつ落ちた。
オルフェンの瞳に、焦りではなく――判断の速さが宿る。
(公爵家としては、早く縁を固めたい……)
男爵位となれば、ユウは単なる伯爵家の後継候補ではなく、
“個人としての爵位”を持つ貴族になる。
婚姻の価値は跳ね上がる。
他家が動く前に、公爵家として確実に縁を結ぶ必要がある。
オルフェンは姿勢を正し、言い切った。
「――ならば、話は早い。
本日付けで、我が家は“正式に”婚約を公表したい」
「本日……ですか」
「もはや先延ばしにする理由はない。
お前の功績は王家から認められつつあり、リリスも長い間、理不尽な立場を耐え抜いてきた。
そして何より――」
公爵は少しだけ表情を緩めた。
「リリスがお前を深く信頼していることは、親として嫌というほど分かっている」
父オルグレインも、穏やかに目を細めて言う。
「ユウ。お前の気持ちは、変わらんのだな」
ユウは迷わなかった。
「はい。
リリス様を妻として迎える意思は、微塵も揺らいでいません。
あの夜のあと、さらに強くなりました」
言葉を一つひとつ区切りながら、誤魔化しのない声音で続ける。
「リリス様の聡明さも、強さも、優しさも……僕にとって何より尊いものです。
彼女を守りたいとかそういう次元ではなく、
“隣にいてほしい”と、心から思います」
その言葉を聞いた瞬間――
扉の陰に控えていた少女が、そっと顔をのぞかせた。
「……ユウ様」
リリスだった。
呼ばれていたのだろう。
だが、ユウの言葉を聞いてしまったことで、耳まで赤く染まり、目元が揺れている。
「リリス。入れ」
公爵が促すと、彼女は一歩進み、深く頭を下げた。
「本日のご相談、すべて伺いました。
ユウ様……そのような想いを抱いてくださっていると知り、私は……」
声が少し震えた。
「……本当に、嬉しいです」
その瞳には、かつての婚約破棄による痛みはもうない。
代わりに、ユウを見るだけで緩んでしまう、甘く穏やかな光だけがある。
ユウはまっすぐ答えた。
「リリス様。
僕はあなたを妻として迎える未来を、誰にも渡すつもりはありません」
その一言で、リリスの瞳はさらに濡れた。
公爵オルフェンは両手を組み、厳かに宣言する。
「では――ヴァルロード伯爵家とグレイハルト公爵家の婚約は、
本日この時をもって正式に成立とする。
明日の朝、王都にて発表する」
父も深く頷いた。
「異論はない。我が家としても光栄だ」
その瞬間、リリスは抑えきれず、ほんの少しだけユウの袖をつまんだ。
いつもは人前で決して見せない仕草。
だが今日は――特別だった。
「……ユウ様。
明日、皆の前で正式に“婚約者”と呼べるのですね」
「はい。
明日から――もう隠す必要はありません」
リリスは小さく笑い、囁くように答えた。
「……幸せです、ユウ様」
その声は、かつて王太子の隣で見せた硬さとはまるで違う。
少女としての素直な甘さと、未来を信じる強さが混ざった、柔らかい響きだった。




