第五話 一年の積み重ね
第五話 一年の積み重ね
ユウ・ヴァルロードが四歳になった日の朝は、いつもと変わらない静けさの中で始まった。
違うのは、胸の奥にある確かな感覚だった。
(……もう、一年か)
三歳のころから始めた習慣は、一日も欠かすことなく続いている。灰を使った洗浄、剣の型、魔力の調整、言葉と数字の学習。どれもが生活の一部になり、「特別な努力」ではなく「当たり前」になっていた。
窓の外には、淡い朝の光が差し込んでいる。
ユウは静かに立ち上がり、今日も調理場の裏へと向かった。
◇
薪小屋の脇。
いつものように灰の前にしゃがみ込み、布を手に取る。その動作には、もはや迷いがない。
灰を掛け、腕を撫でるようにこする。
ごし、ごし、と。
一年前のぎこちなさは消え、手首の動きは驚くほど滑らかになっていた。力の入れ具合も一定で、肌を傷つけることもない。
流す。
確かめる。
もう一度、灰を載せる。
(状態は、良好)
異世界ダイナリーは控えめに稼働しているが、評価は出さない。それでいい。結果は、指先の感覚が教えてくれる。
布で拭ったあとの肌は、さらりとして、余分なものが残っていない。確実な変化だった。
◇
中庭に出ると、老騎士がすでに待っていた。
「おはようございます、ユウ様。本日も型の練習から参りましょう」
「はい」
木剣を両手で握り、姿勢を正す。
足の開き、背筋の伸び、視線の置き方。すべてが自然に整っていた。
「一の型、始め」
合図とともに、剣を振る。
ひゅっ、と風を裂く音。
一拍ごとに、正確な軌道を描いていく。止め、引き、再び振る。その動作はもはや「子どもの真似」ではなかった。
「……実に滑らかですな」
老騎士が静かに感嘆の声を漏らす。
「三歳のころとは見違えました」
だがユウは浮かれない。なぜなら、まだ足りないことを理解しているからだ。
(型は形。これを実戦で使えるようにするには、まだ時間がかかる)
それでも、積み上げた結果が確実に身体に刻まれていることは、はっきりと分かっていた。
◇
剣の稽古のあとは、魔力の時間だ。
静かな部屋で、床に座り、ゆっくりと目を閉じる。
体内に流れる温かなもの。それが魔力だという感覚は、すでに完全に掴んでいる。
(今日は……薄くしてみよう)
意識を集中させ、魔力を一点に集める。そして今度はそれを、できる限り薄く、広く拡散させていく。
圧をかけすぎず、乱さず、均等に。
指先に現れた光は、ほたるのように淡く、しかし消えない。
強くしようと思えば、もっと明るくなる。だが今は、それをしない。
薄く、静かに、滑らかに。
(……うまくいっている)
魔力の循環も、以前のようなムラは感じない。呼吸に合わせて、自然に巡っている。
それは「力」ではなく、「身体の一部」として存在していた。
◇
午後は学習の時間だった。
大きな机に向かい、木の板に刻まれた数字を見つめる。言葉を教えてくれている老教師が、ゆっくりと説明する。
「この世界の計算は、足し算と引き算が基本です」
「はい」
「たとえば、三に二を足すと?」
「五です」
「では、六から四を引くと?」
「二です」
そのやり取りに、教師は満足そうに頷く。
だがユウは、そこに留まらなかった。
指を机の上で静かに動かしながら、頭の中で数字を組み立てる。
(二と三を何度も足すと、六になる……これは、掛け算に近いな)
この世界ではまだ存在しない概念。それでも理解はできる。
六を三で分けると、二になる。そういう考え方も、すでに形になり始めていた。
もちろん口には出さない。だが確実に、一歩先を歩いている。
◇
夕方、父のもとへ呼ばれた。
「ユウ、こちらへ来なさい」
静かに歩み寄ると、父は椅子に座ったまま、じっとこちらを見つめた。
「今日で四歳だな」
「はい」
「この一年、お前の成長は目覚ましい」
威厳のある声。だがそこには、確かな誇りが滲んでいた。
「剣、魔力、礼儀、学び。そのすべてにおいて、通常の子供の域を超えている」
ユウはただ、静かに頭を下げる。
「だがな……無理はするな。お前はまだ子どもだ」
その言葉に、少しだけ胸が温かくなった。
(大丈夫です。ちゃんと、自分の身体のことは分かっています)
◇
夜。
やわらかな寝台の上に横たわりながら、今日のことを振り返る。
一年。
ただ続けただけの時間。
だがその中で、確実に変わったことがある。
剣の動き。
魔力の感覚。
数字の理解。
そして何より、「続けること」が当たり前になったこと。
(四歳か……悪くない)
小さな身体ではあるが、その中には確実な芯が育っていた。
この習慣は、これからも続くだろう。明日も、その先も。
誰に誇るわけでもなく、ただ自分のために。
ユウ・ヴァルロード四歳。
彼は今日もまた、静かに、しかし確実に、未来へと歩み続けていた。




