第三章 第四話 領地が生まれ変わる音と、ひとりの少女へ贈るもの
第三章 第四話 領地が生まれ変わる音と、ひとりの少女へ贈るもの
王都の空気とはまるで違う。
ヴァルロード伯爵領に降り立ったユウは、風の匂いを吸い込みながら小さく息を吐いた。
土の匂いが濃く、川の流れは落ち着き、遠くで農民の笑い声が響いている。
(治水が成功すると、土地全体の息づかいまで変わるんだな)
自然と歩みが軽くなる。
屋敷へ戻ると、父オグレインが腕を組んで待っていた。
「よく帰った、ユウ。……見たか? 土地が見違えたぞ」
「父さんのおかげでもありますよ。指揮してくださったから、作業が早かったんです」
「いや、お前の計画が優れていたのだ。誇っていい」
父は珍しく素直に褒めてきた。
その横で、軽やかなステップを踏むように母エレノアが現れる。
「お帰りなさい、ユウ」
薄い青のドレスを纏い、かつて「社交界の月光」と讃えられた面影が戻っている。
最近、母は王都の舞踏会に時々顔を出していた。
「美容液の件だけれど……この二週間で注文が十倍になったわ。皆が“どうして手に入らないのか”と騒いでしまって」
「え……そんなに?」
「ええ。『エレノア様の紹介がなければ買えない特別品』だなんて噂が一人歩きしてしまって……そのたびに私が頭を下げているのよ」
母は困ったように笑った。
自分で誇っているわけではなく、周囲が勝手にブランド化してしまった状況を苦笑しているだけの柔らかな声だった。
「でもね、ユウ。それだけ“本物だ”と評されている証拠よ。あなたが誇りに思っていい成果」
その言葉は温かかった。
翌日から、治水エリアの視察が始まる。
川幅は均され、護岸は滑らかに補強され、農道はかつてのぬかるみが嘘のように固まっていた。
「これなら、雨が降っても大丈夫だな」
父の声が重く響く。
「作物の収穫量も増えるはずです。浸水の危険が減っただけでも、相当な違いでしょう」
「まったく……十一歳で領地の礎を動かすとはな」
「必要だっただけです」
ユウが答えると、父は笑うでもなく、じっと息子の横顔を見つめた。
(……子に恵まれたな)
言葉にはしないが、そういう眼差しだった。
治水地帯の次は、丘の上の養蜂施設へ向かった。
巣箱を覗くと、蜂たちが忙しなく羽を震わせ、蜜蝋が去年より厚く輝いている。
「蜜の質がまた上がっていますね、ユウ様」
マリアの言葉に、ユウも頷く。
「水と花が安定してるからだと思う。蜂は正直だよ」
巣箱の中の黄金色を見ながら、ユウはそっと瓶を取り出した。
それは、蜜蝋と花油を混ぜた試作品――リリスへ贈る予定のものだ。
(もう少し滑らかに……。香りも控えめにした方がいい)
リリスは強い香りが苦手だ。
ドレスの布地にほのかに香るくらいが、彼女にはちょうどいい。
「リリス様……これを見たら、きっと……」
マリアの言葉に、ユウは少しだけ顔を赤くする。
「……そうだといいけど」
「大丈夫です。以前の舞踏会の夜で、お二人の距離は……目に見えて近づいておりますから」
からかわれるような声音に、ユウは反論もできず視線を逸らした。
帰り道。
農地の端で農民たちが丸い根を捨てているのが目に入った。
「その作物、使わないんですか?」
「へえ、ユウ様。これは固くて食えたもんじゃなくて……家畜も嫌がるんですよ」
ユウは拾い、割ってみる。
淡い香り。しっとりした繊維。水分の中にほのかな甘味。
(……甜菜……?)
記憶のどこかにあった“甘味を抽出できる植物”。
加工すれば砂糖が作れる。
王国にない、新しい産業。
(試す価値はある……!)
「父さん、これ……甘味を作れる可能性があります」
「なに?」
「新しい産業になります。庶民にも手が届く甘味――それが生まれれば、市場が大きく変わります」
父は目を細め、深く息を吸った。
「……面白い。お前の提案は、いちいち領地を変える力があるな」
「上手くいけば、ですが」
「試す価値は十分ある。すぐに専門家を集めよう」
その返答が、ユウの胸を高鳴らせる。
屋敷に戻ると、ユウは自室に籠もり、リリスへの贈り物を仕上げていった。
蜜蝋と花油を丁寧に溶かし、甜菜の試作シロップで柔らかさを調整。
刺激のない香り付けを微量に加え――
瓶に詰めたのは、肌を整えるクリーム、目元用美容液、香り控えめのバーム。
どれも、リリスのためだけに調合した特別仕様。
(舞踏会の夜……泣きそうだった彼女を思い出すたびに、もっと楽に生きられる日を渡したくなる)
完成した瓶の並びを眺めると、自然と微笑みが生まれた。
夕食後、父の執務室へ呼ばれた。
「治水に続き、甜菜の件。どれも領地の柱になる。……いい働きだ」
「ありがとうございます」
「それから、もう一つ。リリス嬢を迎える件だが――公爵家との話は整った。
公式な発表に向けて準備に入る。……お前にも覚悟が必要だ」
「もちろんです」
ユウはまっすぐ父を見る。
「僕は、リリス様を妻として迎える意思があります。
あの人以外に、僕の人生を並べたい相手はいません」
静かだがぶれない声だった。
父は満足げに頷いた。
「ならば、ヴァルロード家はお前の選んだ女性を全力で支える。
……ユウ、お前は領地を変えただけでなく、自分の未来も掴もうとしているな」
机の上の小瓶が、月光を受けて淡く光った。
甘くはない。けれど確かな幸福へ向かう光。
ユウはその光を見つめながら、
リリスへ手渡す未来を静かに思い描いた。




