第三章 揺らぎ出す王都と、ひとつの恋心 第二話 学園に広がる静かな噂と、距離の縮まる午後
第三章 揺らぎ出す王都と、ひとつの恋心 第二話 学園に広がる静かな噂と、距離の縮まる午後
春の朝は、昨日より少しだけ暖かかった。
二年生となったSクラスには、既に数人の生徒が教室に入っており、新しい教材をめくっては内容を確認している。
扉が開き、リリスがティアと共に姿を現すと――
教室の空気が、すうっと変わった。
「……あ、グレイハルト公爵令嬢が来たぞ」
「昨日の様子、見たか? あの気品……すごかったな」
「破棄されても、あれだけ堂々としていられるなんて……」
囁きは決して大きくない。
しかし、昨年と明らかに違う。
――彼女を責める声が、ひとつもなくなっていた。
むしろ、敬意に近い感情が漂っている。
リリスは気づいていないように装っていたが、
耳はほんの少し赤かった。
(……噂、まだ続いているのですね……)
だが、昨年とは質が違う。
誹謗でも嘲笑でもなく、“美しさと強さ”への純粋な評価。
ユウは、その変化に気づいていた。
(……やはり、あの夜の振る舞いは誰の目にも残っているんだ)
王太子に踏みにじられながらも、
最後まで気高さを手放さなかった少女。
心の中で泣き崩れながらも、誰よりも美しい姿勢で立ち続けた。
人は、そういうものを忘れない。
ユウは微笑んで、声をかけた。
「おはようございます、リリス様」
その声に、リリスは反射的に顔を上げた。
「……ユウ様。おはようございます」
声が、少し柔らかい。
昨日よりも、ほんの少しだけ距離が近い。
それを見ていたティアが小声で囁く。
(……見てください、マリアさん。リリス様の声、甘いです)
(ええ。これはもう、ご自身で自覚していないだけで……恋慕の声ですね)
(ですよね!)
(はい。ほぼ確定です)
「二人とも、聞こえてますよ」
ユウとリリスが同時に赤くなる。
最初の授業は政治基礎だった。
二年生からは、税制と人口政策の基礎を学ぶ。
教師が黒板に数字を書きながら言う。
「では、税率を二%引き上げた場合、農村と都市、それぞれで起きる変化とは……」
リリスは即座に手を上げ、完璧な回答を述べた。
去年と変わらぬ鮮やかさだ。
教師も満足げに頷く。
「さすがはグレイハルト令嬢。見事な分析だ」
次にユウも手を上げた。
「――追加で一点だけよろしいでしょうか」
全員の視線が彼へ向く。
「引き上げによる直接の損失は数字の上では小さく見えますが、
“商人と農家の信用”が揺らぐことで二年後、三年後に大きな人口移動が起こり、
結果的に都市の労働バランスが崩壊します」
教師の表情が変わる。
「……非常に興味深い指摘だ。
ユウ君、その分析はどこから?」
「去年の領地改革の経験から得た考察です」
ざわめきが広がる。
「ヴァルロード伯爵家の領地って……最近急に発展してるあの?」
「そんなところまで考えて改革してたのか……!」
教師は深く頷き、黒板にユウの意見を書き込んだ。
「すばらしい。領地運営の視点を含めた考察は、非常に高度だ。
二年生でここまで分析できる生徒は、そう多くない」
リリスは横でそっと息をのんだ。
(……やっぱり……ユウ様は本当にすごい……)
その横顔に、憧れと――恋が深まる。
昼休み。
リリスはパンではなく、丁寧な弁当箱を開いていた。
ティアの手作りだが、彩りは華やかで美しい。
そこへユウとマリアが歩いてくる。
「ご一緒してもよろしいでしょうか?」
「……もちろん、ですっ」
返事が早すぎ、本人が驚くほどだった。
(……わ、私……落ち着いて……! もう少し上品に……)
だがユウは気づかず、自然に座った。
マリアも隣に控える。
「リリス様のお弁当、今日も綺麗ですね」
「えっ……あ、あの……これは、ティアが……」
「ティアさんの腕は相当ですね。彩りも味も、どれも素晴らしいです」
褒められたティアが照れながら言う。
「ユウ様のためにも作りましょうか?」
「……っ!!!」
リリスの手が止まり、
フォークを持つ指がぴくりと震えた。
「ティ、ティア? 何を言って……!」
「いえ、リリス様が特別な方に作っているなら、
その方にも同じものを、と思いまして」
「特別……っ」
顔から火が出そうだ。
(ティア……余計なことを……!)
そこへユウが、穏やかな声で言った。
「お気持ちは嬉しいですが、リリス様のお弁当は……
“リリス様のための味”だと思いますから」
「~~~~っっ!!」
リリスは文字通り、耳まで真っ赤になった。
(そんな……そんな言い方を……!
それでは……私が特別に思われているようではありませんか……!)
マリアは静かにティアへ頷く。
(……見ました?)
(はい。今日も好感度は順調に上昇してます)
(このまま押せば……夏頃には両想い確定ですね)
(ティア、距離感を間違えないようにね)
午後の授業が終わり、
校舎の外へ出ると、風が柔らかく頬を撫でた。
帰り支度をしながら、リリスはそわそわした表情でユウを見つめていた。
「あ、あの……ユウ様」
「はい?」
「今日の復習……もしお時間があれば、ご一緒に……」
言い終わる前に、自分で真っ赤になる。
(誘った……わたし、また誘ってしまった……!)
ユウは優しく頷いた。
「ええ。リリス様と学ぶのは、僕も嬉しいです」
「……っ」
声にならない喜びが胸に広がる。
その横で、ティアとマリアがそっと目を合わせた。
(マリアさん……リリス様、可愛すぎません?)
(ええ。これはもう……あとはユウ様が気づくだけですね)
(夏までに進展しそう……!)
(むしろ夏まで保つかどうか怪しいです)
春の光が校舎に差し込み、
二人の影が並んで伸びていく。
ユウはまだ知らない。
――今日、リリスの心はまた一段階、深く傾いたことを。
リリスはまだ気づいていない。
――自分がもう、ユウなしでは朝の光さえ違って見えるほど、
恋に落ちていることを。
そして学園はまだ知らない。
――この“二人の距離の変化”が、後に貴族社会全体を揺らすほどの影響力に育つことを。




