第四話 静かな鍛錬の日々
第四話 静かな鍛錬の日々
三歳になったユウ・ヴァルロードの一日は、驚くほど規則的になっていた。
夜明けとともに目を覚まし、まずは窓辺で深く息を吸う。ひんやりとした朝の空気が胸に満ちるのを感じながら、静かに呼吸を整える。それは誰に教わったわけでもない。前世で覚えた、疲労を和らげるための習慣が自然と身体に染みついていた。
(今日も、ちゃんと整えておこう)
そう思いながら、そっと寝台を降りる。
まず向かうのは、あの場所だ。
調理場の裏。薪小屋の脇。
燃え尽きた灰が、今日も静かに積もっている。
ユウは、誰にも気づかれないようにしゃがみ込み、布切れを手に取る。毎日同じ動作。毎日同じ工程。それが、もはや当たり前になっていた。
灰を布に含ませ、ゆっくりと腕をこする。
ごし、ごし、と。
指先から肩口へ、丁寧に。
昨日よりも、今日。
前よりも、今。
水桶で流し、また灰をつける。
それを何度も繰り返しながら、表面の感覚を確かめる。
(……こうすると、やっぱり違う)
自分でも理由は説明しない。ただ、確かな「結果」のみを受け取っている。
◇
灰洗浄を終えると、次は中庭だった。
朝の光が差し込む石畳の上で、ユウは小さな木剣を両手で握る。それは装飾ではなく、父の命で用意された練習用のものだ。
「構えは、そのまま。背筋を伸ばしなさい」
指導についている老騎士が、ゆっくりと声をかける。
「はい」
三歳とはいえ、言葉遣いはすでに整えられている。返事も、礼も、所作も、極力丁寧に心がけていた。
ユウは足を踏みしめ、木剣を水平に構える。力は弱い。だが意志は確かだった。
「振り下ろすときは、腕ではなく、体全体を使うのです」
言われた通りに、ぎこちないながらも剣を振り下ろす。
ひゅっ、と空を裂く音。
何度も、何度も。
汗が額に滲み、指に力が入らなくなるまで続ける。それでもやめない。
(今はこれでいい。形を覚えれば、それで十分だ)
異世界ダイナリーが静かに内部記録を更新する。
《剣術基礎:習得中》
《可動域:拡大傾向》
だがユウは、表示を意識していない。ただ、黙々と繰り返した。
◇
剣の練習が終わると、次は室内へ戻る。
静かな書斎で、今度は机に向かう。目の前には、簡素な文字表が置かれていた。
「こちらが『礼』、こちらが『誠』です」
侍女が優しい声で教えてくれる。
ユウは小さな指でなぞりながら、文字の形を正確に追う。
「――礼とは、相手を敬う心。誠とは、真実を偽らぬ姿勢です」
「はい」
その意味を、理解している。
だが、それを“守れる人間”になるためには、学ばなければならないと思っていた。
机に向かって字をなぞり、発音を繰り返す。
言葉を知り、礼を知り、立ち居振る舞いを身につける。それは貴族としてではなく、人として必要なものだった。
◇
そして最後は、魔力の時間。
誰にも邪魔されない部屋で、ユウは静かに座り、目を閉じる。
意識を身体の内側へ。
胸の奥で、ゆっくりと流れるぬくもりを追う。それが魔力の流れであると、すでに理解していた。
(急がない……ゆっくり、巡らせる)
呼吸と同期させるように、意識で流れを整える。
焦らず、乱さず、ただ循環させる。
すると、指先がわずかに熱を帯びた。
小さな光が、ほのかに瞬く。
だが、誇示しない。
これは練習だからだ。
できることを、できるだけ静かに、確実に積み重ねる。
◇
その日の夕方。廊下を歩くユウの姿を、父が静かに見つめていた。
「……本当に三歳か?」
「ええ。ですが、なぜかしら。まるで何年も生きている子のようで」
「いや……それ以上だな」
そう呟く父の声に、ユウは気づかなかった。
◇
夜。
湯殿で体を流し、布で拭かれながら、今日の一日を思い返す。
灰洗浄。
剣の練習。
文字の学習。
魔力調整。
すべてが静かに、確かに積み重なっている。
(悪くない)
眠りに落ちる直前、ユウは小さく目を閉じた。
三歳の身体なのに、毎日を無駄にしていないという実感がある。
それだけで、前世では得られなかった満足感が胸に満ちていく。
今はまだ、小さな努力にすぎない。
だが、これが積み重なった先に何があるのかを、ユウは知っているつもりだった。
だからこそ、ただ続ける。
誰のためでもない。
誰に見せるためでもない。
――自分の人生を、正しく生きるために。
月明かりの中で、三歳の少年は静かに眠りについた。
そして明日もまた、同じ一日を繰り返すだろう。
静かで、確実で、意味のある一日を。




