第二章 秩序の学園と崩れゆく誓約 第二十一話 公爵家の決断と、伯爵家嫡男の覚悟
第二章 秩序の学園と崩れゆく誓約 第二十一話 公爵家の決断と、伯爵家嫡男の覚悟
王太子アルベルトが年末舞踏会で引き起こした“公衆の前での婚約破棄”は、その夜のうちに王都中へ広がった。
その場では王が事態を収めたものの、公爵家は王城から帰る馬車の中で一切の会話を許さないほどに緊迫していた。
──翌朝。
グレイハルト公爵家の当主執務室は、朝日が上がったばかりにもかかわらず、怒気で張りつめていた。
「王太子殿下の昨夜の言動、到底容認できるものではありません」
家臣のひとりが震える声で報告する。
公爵は黙って聞いているが、その静かな表情こそが誰より危険だった。
「公爵家としての結論はひとつです。
王太子殿下は“家の正式な意思確認”を経ず、独断で婚約破棄を宣言した。
つまり、あれは──王家でも公爵家でも認めていない、ただの暴挙です」
別の家臣が続ける。
「ゆえに、公爵家としても“王太子殿下との婚約破棄を望む”との形を取るべきかと。
世間への説明としても整合が取れます」
リリスの父である公爵は、重く頷いた。
「……あの場でリリスが耐えてくれたからこそ、この選択が可能になった」
「はい。公爵家が“破棄されて見捨てられた側”ではなく、“望んで破棄した側”として立ち位置を修正できます」
本来なら、婚約破棄された令嬢は評価が大きく下がる。
誰の家に嫁いでも“正妻”の座は難しい。
たとえ公爵家の娘であっても、王太子の後釜にすんなり座ることはできない。
しかし──今回の事情は表向き“王太子の独断”であり、
公爵家は“それを容認しなかった側”として振る舞える。
加えて、昨夜の王太子の発言の幼稚さ、
婚約者を侮辱しながら別の少女を選ぶという無礼、
王からの叱責に等しい静止──
それらすべてが、貴族社会から王太子への信頼を急速に削っていた。
「……問題は、我らがどの王族派につくか、ですな」
「殿下を支持し続ければ、公爵家の名に傷が付く。
次男殿下──リースバルト殿下の派閥に移るべきでしょう」
「うむ。あの方は冷静で、人の話を聞く資質がある。
リリスのことも高く評価していた」
公爵は目を伏せ、静かにひとつ息を吐いた。
「……昨夜の件で、最も傷ついたのはリリスだ。
だが、あの子は泣き崩れず、公爵家の名を守った。
娘として、これ以上誇らしいことはない」
父がそう言い切った時、部屋にいたどの家臣も頷いた。
「問題は、リリス嬢の“将来”ですな……
このままでは、誰が相手になっても“王太子から捨てられた公爵令嬢”という印象が残ります。
たとえそれが不当な烙印であっても」
「正妻は難しいでしょうな。
誰もが恐れるでしょう、“同じように捨てられたら困る”と」
それが、貴族社会の冷たさだった。
「しかし……昨日、あの馬車で、リリス様を抱えていた少年。
ヴァルロード伯爵家の──ユウ様です」
家臣の言葉に、公爵はわずかに眉を上げる。
「……ユウ・ヴァルロードか」
「はい。あの少年は、殿下の暴挙の後、迷わずリリス様へ手を差し伸べました。
公衆の面前で婚約破棄された令嬢に近づくには、相応の覚悟が必要です。
まして、伯爵家の嫡男として」
「……なるほど」
公爵の瞳がわずかに細められた。
「一度、正式に話を聞く必要があるかもしれんな」
──────────────────────
同じ頃──
ヴァルロード伯爵家の応接間では、父オルグレインがユウの帰宅を待っていた。
「戻りました」
「……ユウ。話は聞いている」
伯爵の声はいつもより低かった。
「リリス嬢の件だ。
舞踏会で殿下が行った無礼、あれは“王家の失態”として長く記憶されるだろう。
公爵家も黙ってはいまい」
「はい。おそらく、王太子派を離れると思われます」
「だろうな。で──これからが本題だ」
伯爵は息子を真正面から見た。
「お前は昨夜、リリス嬢を抱えて帰ってきたそうだな?」
「はい。……一人にはできなかったので」
「理由を聞こう」
叱る声ではない。
ただ、伯爵家当主として必要な確認を求めている声音だった。
ユウは隠さない。
「好きだからです」
その言葉は短いが、逃げ道はない。
伯爵はゆっくり目を閉じ、次に開いた時、息子の目をまっすぐ見据えた。
「……個人の感情としては理解する。
だが、伯爵家の嫡男としては、それだけでは足りん。
お前は昨夜、公爵家の娘に手を差し伸べた。
これは、政治的にも重大な意味を持つ行動だ」
「分かっています」
「では言え。
伯爵家がリリス嬢を迎える“価値”はあるのか。
感情ではなく──家としての利点だ」
ユウは迷わず口を開いた。
「価値はあります。むしろ、これ以上ないほどに」
「理由を述べろ」
「まずリリス様は、公爵家の中でも“責任と采配の才”を持つ方です。
学園でも、その落ち着きと判断力は際立っていました。
王太子妃になるべき教育を受け、どの場でも恥をかかない振る舞いができます。
家を任せる立場としては十分です」
「……続けろ」
「次に、彼女は努力を惜しまない人です。
誰も見ていないところですら、自分の役割を落とさない。
あれは人柄であり、才能です。
家を守り、周囲を整える力を持っています」
ユウは少し息をつき、正面から父へ視線を合わせた。
「そして──僕個人の話になりますが……
リリス様は、僕がこれから成そうとしていることに、必ず必要な人だと思っています」
「ほう」
「領地改革には、人を導く力と、外の圧力に屈しない強さが必要です。
僕だけでは足りないところを、リリス様は補ってくださるはずです」
「そこまで断言する理由は何だ?」
「彼女は、昨夜のあんな状況でも、公爵家の名を汚さなかった。
あれほどの侮辱を受けても崩れず、役割を全うした。
あの強さは──伯爵家の“支え”となる力です」
伯爵は視線を外し、ほんの少しだけ笑った。
「……本当に十一歳か、お前は」
「年相応のつもりですが……そう見えませんか?」
「そういう会話運びをするからだ。
十一歳が“家の将来性”などと真っ直ぐ語るものではない」
「必要なことだと思っただけです」
「……まったく、お前というやつは」
苦笑しながらも、その声には息子への深い信頼が宿っていた。
「ユウ。
お前がそこまで覚悟を持って言うのであれば──伯爵家は“正式に”リリス嬢を迎える準備を始める」
「……ありがとうございます」
「勘違いするな。
これは“家としての判断”だ。
だが──息子が選んだ娘を信じるのも、父の役目だ」
そして伯爵は、重々しく続けた。
「公爵家からも、近いうちに動きがあるだろう。
王太子の独断は許されん。
公爵家は破棄を望む形を取り、王太子派を離脱し、第二王子派へ移るはずだ」
「はい。間違いないと思います」
「その後……
伯爵家はリリス嬢を守る立場に正式に入る。
お前が彼女を娶ると言うなら、家はそれを支持する」
ユウは胸の奥が熱くなるのを感じた。
「……はい。
僕は、彼女を迎えたいと思っています。
政治でも、家でも、そして個人としても」
伯爵は静かに頷いた。
「ならば、覚悟を持て。
これから先、公爵家も伯爵家も多くの敵を作る。
それでも貫くと言うのなら──お前は本物だ」
「はい。覚悟はできています」
ユウの声には、迷いはなかった。
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その頃、公爵邸の自室では──
リリスがひとり、夜明けの光の中で静かに涙を拭っていた。
昨夜、ユウの胸で流した涙とは別の、
ゆっくりと心の底から湧き上がる温かい涙だった。
「……困った方ですね、ユウ様は」
そう呟いた彼女の表情は、昨日のどんな時よりも柔らかかった。
誰かに“選ばれた”のではなく。
誰かに“望まれた”──そんな実感を、彼女は初めて知ったのだ。




