第二章 秩序の学園と崩れゆく誓約 第十九話 公爵家の帰り道 ― 赤毛の従者と静かな揺らぎ
第二章 秩序の学園と崩れゆく誓約 第十九話 公爵家の帰り道 ― 赤毛の従者と静かな揺らぎ
王城の大広間から少し離れた長い回廊には、まだ舞踏会の音楽が微かに届いていた。
けれど、その音はもうリリス・フォン・グレイハルトを慰めるものにはならなかった。
彼女は肩を揺らしながら涙を拭い、ようやく呼吸を整えようとしていた。
その隣には、ユウ・ヴァルロードが静かに立っている。
泣き疲れたわけではない。
心の中心にぽっかり空いたものが、涙の出口を塞いでいた。
「……少し、落ち着きました」
絞り出した声はかすかで、それでも必死に“令嬢の声”として保とうと努力していた。
「ええ。少しでも支えになれたのなら良かったです」
ユウの声は柔らかい。
それは慰めではなく、ただ彼女の存在を肯定する言い方だった。
その距離感が、リリスにはありがたかった。
◇
そこへ、はっと息を切らした小柄な影が駆けてくる。
「リリス様っ……!」
赤毛を揺らしながら走ってきた少女――ティアだ。
リリスが孤児院から引き取り、共に学び育ててきた従者。
まだ十歳だが、礼儀も作法もBクラス上位に並ぶほど叩き込まれている。
ただ今は、幼い顔に露骨な動揺が浮かんでいた。
「皆さまの視線が……とても、ひどいものでした……っ。リリス様、お怪我はありませんか」
涙の跡に気づくと、ティアの赤い瞳が揺れる。
「泣かないで……泣かないでください……」
「ティア、大丈夫よ。泣いているのはあなたではなく、私です」
リリスはしゃがみ込み、小さな従者にそっと触れる。
「私はもう平気。あなたが来てくれたから」
「……本当に?」
「ええ。本当に」
その短いやり取りだけで、ティアはようやく顔を上げた。
だが次の瞬間、ティアの表情が“従者の顔”へと切り替わる。
「……リリス様。公爵家の馬車を、裏門にお回ししました」
「え……?」
涙の余韻が残るリリスは、ティアの素早さに驚く。
「舞踏会の入り口では、あまりにも目立ちすぎます。
殿下の発言で騒ぎも起きており……その中を戻るのは危険です」
十歳の少女とは思えないほど冷静で、段取りが速い。
ティアは続ける。
「お父上――公爵閣下には、すでに事情を簡潔にお伝えしました。
“体調不良による退場”という形で本邸へ戻ることが決まりました」
「……ありがとう、ティア。助かるわ」
「いえ。お守りするのが、私の務めです」
そう言ったティアの視線が、ユウへ向く。
涙で濡れた赤い瞳に、礼と警戒が混じる。
「……本日、リリス様を支えてくださったこと、感謝いたします」
「こちらこそ。ティアさんが先に動いてくれたおかげで、次が見えました」
「……っ」
子どもとしての照れと、従者としての誇りがぶつかり合ったような顔で、ティアは小さくうなずいた。
◇
「リリス様。馬車へ向かわれますか?」
「……ええ。
でも……その前に」
リリスはユウへ向き直る。
「先ほどのお言葉……本当に、ありがとうございました」
泣いて濡れたままの瞳で、彼をまっすぐに見る。
「私は今日、すべてを失ったと思っていました。
けれど……あなたの言葉があったから、まだ終わりではないと思えました」
「僕は、ただ見ていられなかっただけです。
あなたが一人で立っている姿が、あまりにも痛々しかった」
「……だからこそ、です」
リリスの声が震える。
「殿下に捨てられた私を、こんなに真剣に……“一人の人間”として見てくださった方は、今日ここに、あなたしかいませんでした」
(そんなことはない。
そう言い返したいけれど――
少なくとも、今この瞬間の彼女には、僕しかいないのだ)
そう痛感し、ユウは目をそらさなかった。
「リリス様」
「……はい」
「あなたは決して捨てられるような人ではありません。
むしろ、今日手放した王太子が――どれほど愚かかという証明です」
「……ユウ様は、ときどき残酷なくらい真っ直ぐなことを言いますね」
「そうかもしれません。
でも今日は、それくらいで丁度いいと思っています」
リリスはふっと笑い、涙を袖で拭った。
そして――小さな声で言う。
「……ユウ様。あなたの言葉で……私は救われました。
本当に……ありがとうございます」
礼は淑女のものではなく、一人の少女としての礼だった。
◇
「リリス様、馬車が……」
ティアが小声で促す。
「ええ、行きましょう」
リリスはスカートの裾を持ち、ゆっくりと立ち上がった。
ユウは一歩だけ近づく。
「リリス様」
呼び止められた彼女は振り向く。
月明かりが、涙の跡を淡く照らす。
「……今日のあなたを忘れません。
だから、あなたも――僕がいたことを、忘れないでください」
リリスの胸が、きゅっと鳴った。
「……忘れませんわ。
忘れられるはずがありません」
その言葉は、誓いにも等しい静かな響きを持っていた。
◇
そして、ティアがリリスの手を取る。
「リリス様……お帰りしましょう」
「ええ。
ユウ様――本当にありがとうございました」
「こちらこそ」
リリスは一礼し、赤毛の従者とともに回廊を進んでいった。
裏門にはすでに、公爵家の紋章が刻まれた黒馬車が停まっている。
堂々とした黒い車体は、先ほどの侮辱に対し「公爵家は折れない」と無言で主張していた。
ティアが扉を開き、リリスは静かに乗り込む。
馬車の扉が閉ざされる直前――
彼女は、もう一度だけユウのいる方を振り返った。
その瞳には、悲しみだけでなく、かすかな光が宿っていた。
(あの人は……立ち直る。
今日奪われたものより、もっと大きなものを得るだろう)
ユウはそう確信した。
馬車がゆっくりと動き出し、王城の石畳を軋ませながら暗い道へ消えていく。
その後ろ姿を見送りながら、ユウは静かに胸へ手を置いた。
「……次は、守るだけじゃ足りない。
一緒に歩けるように、僕自身も前へ進まないと」
そのつぶやきは誰にも聞こえなかった。
だが――
この夜、リリスが“すべてを失った日”ではなく、
“ユウとリリスの物語が本当にはじまった日”として刻まれることになる。
それを知るのは、もう少し先の話だった。




