第二章 秩序の学園と崩れゆく誓約 第十八話 年末舞踏会 ― 壊された誓いと、廊下の告白
第二章 秩序の学園と崩れゆく誓約
第十八話 年末舞踏会 ― 壊された誓いと、廊下の告白
王城の大広間は、いつもよりもさらに眩しかった。
無数の魔導灯が天井から吊るされ、金と白を基調とした装飾が一面に広がっている。
磨き込まれた床は鏡のように人々の姿を映し、演奏隊の弦の調べが、まだ始まってもいない舞踏会の期待だけを静かに温めていた。
年末舞踏会。
初等部一年の締めくくりであり、同時に「婚約者を伴っての初舞踏」が予定される、重要な社交の場。
これまで積み上げてきたものが、「並び方」ひとつで評価される夜でもあった。
◇
「……すごい数ですね」
会場へ続く長い回廊の手前で、ユウは思わず小さく息を吐いた。
貴族たちの馬車が次々と王城前に横付けされ、家紋の刺繍が施されたマントやドレスが行き交っている。
淡い香油の香りと、緊張を隠そうとする笑い声が混ざり合っていた。
「王家主催の場でございますからね」
すぐ横で、マリア・ベルモンドが微笑む。
今日はいつものメイド服ではなく、控えめな色合いのフォーマルドレスだった。
露出は少ないが、腰のラインをきちんと拾う仕立てで、彼女の柔らかな雰囲気を引き立てている。
ユウは一瞬だけ視線を向け、それから前へ戻した。
「……とりあえず、今日は従者としての振る舞いより、僕の護衛の方を優先してください」
「護衛、ですか?」
「いろいろと、余計な火の粉が飛んでくる予感がしますので」
「……ふふ。承知しました。
火の粉が降ってきたら、遠慮なく振り払わせていただきます」
マリアは冗談めかして言いながらも、目だけは周囲をよく見ている。
彼女がただの護衛ではなく、「家と自分を守るために常に状況を読む人間」であることを、ユウは知っていた。
◇
やがて、王城内部への案内が始まる。
大広間へと続く最後の角を曲がったところで、ユウは見慣れた後ろ姿を見つけた。
淡い銀の髪をまとめ上げ、深紅のドレスを身にまとった少女。
背筋はまっすぐで、肩の高さひとつ乱れていない。
リリス・フォン・グレイハルト。
彼女は、王太子を待っていた。
やや離れた位置に、公爵家の家族と従者たちの影も見える。
しかし、入口で共に入るのは、あくまで婚約者二人だけ――その“決まり”を誰もが理解していた。
(今日も、完璧に役目を果たそうとしている)
ユウはそう思った。
表情は穏やかだが、指先の力の入り具合や、視線の固定された先から、緊張の深さが読み取れる。
本来なら、その隣にはアルベルトがいるはずだった。
だが――
「あれは……」
マリアが、ほんの少しだけ声を潜めた。
回廊の向こうから現れたのは、王太子アルベルト。
そしてその隣には、明るい栗色の髪を揺らす少女の姿があった。
淡い桃色のドレス。
小さな花飾りを耳元にあしらい、緊張と喜びを混ぜ合わせたような笑顔を浮かべている。
セレスティア・アークロイド。
「殿下が……なぜ、あちらの方を?」
マリアの問いは控えめだったが、その動揺は隠しきれなかった。
リリスもまた、気づいていた。
アルベルトの姿を見た瞬間、瞳がわずかに揺れ――それでもすぐに、何事もなかったかのように元の表情へと戻す。
だが、王太子は彼女を見なかった。
「セレスティア。行くぞ」
「……はい。殿下」
アルベルトは当然の権利のように、セレスティアの手を取る。
そのまま、堂々と会場入口へ進んでいった。
リリスの前を、完全に通り過ぎて。
彼女の近くにいた公爵家の者たちが、一瞬、言葉をなくす。
リリスは顔色ひとつ変えず、ただ静かに視線を下げた。
(ここで感情を見せれば、公爵家全体が笑われる)
彼女はそう理解している。
理解しているからこそ、心の揺れを押し込める。
その姿が、ユウには痛いほどよく見えた。
(普通なら、泣き出しても誰も責めない。
それでも、責められる立場であることを、あの人は誰よりも分かっている)
それが、彼女の強さであり、残酷さでもあった。
ユウは、迷わなかった。
「……失礼します、マリア」
「はい。行ってらっしゃいませ」
マリアはそれ以上何も言わず、一歩下がって頭を下げる。
ユウはリリスの方へ歩み寄った。
「リリス様」
呼びかけると、彼女はゆっくり顔を上げる。
赤い瞳が、驚きと戸惑いを含んでユウを映した。
「……ヴァルロード様?」
「このまま、お一人で会場へ入られるおつもりですか」
問いかけは、責めているわけではない。
ただ現状を確認するための、ごく穏やかなものだった。
「ええ。殿下には殿下のお考えがおありでしょうし……
私が勝手に騒ぎを広げるわけには参りませんので」
リリスはいつも通りの口調で答えた。
しかし、長い睫毛の影で、その視線はかすかに揺れている。
「騒ぎを広げるかどうかの判断は、今は気にしなくていいと思います」
ユウは一度だけ息を吸い、自然な所作で右手を差し出した。
「貴女を一人で歩かせる方が、よほど見苦しい。
もしよろしければ――ご一緒させていただけないでしょうか」
「……ですが」
リリスは戸惑う。
その反応は当然だった。
ここで他家の嫡男と並べば、また別の噂が生まれる。
それを理解したうえで、彼は続ける。
「噂は、今日に始まったことではありません。
だったら、せめて――貴女が一人で耐える必要のない方を選びたいと、私は思います」
それは、綺麗な理屈というより、彼自身の素朴な本音だった。
リリスは一瞬、息を詰める。
唇がかすかに震えたが、やがて、ほんの僅かに笑みを浮かべた。
「……ユウ様は、ときどき、逃げ道を残さない言葉をなさいますね」
「そのつもりはないのですが。
ただ、見て見ぬふりをするには、あまりにも分かりやすい出来事でしたので」
「……でしたら」
リリスは、ごく小さな動作でスカートの裾を持ち上げ、淑女としての礼を示した。
「本日だけ、貴方のお誘いに甘えさせていただいてもよろしいでしょうか」
「もちろんです」
彼女の手を取る。
その手は冷たく、けれど、指先にはかすかな力がこもっていた。
◇
大広間の扉が開く。
王族と主だった貴族がすでに上段に並び、列席した者たちは入場するカップルへ視線を向けていた。
「王太子アルベルト殿下、アークロイド男爵家令嬢セレスティア様――ご入場」
司会役の声が響くと、ざわめきが広がる。
「やはり、あの噂は本当だったのか……」
「婚約者はリリス嬢のはずだぞ」
「王太子殿下が、あのような形で……?」
疑問と好奇心と、不安がないまぜになった視線が、上段の王と王妃、公爵家へと注がれる。
アルベルトはそれらを意識しているのかいないのか、胸を張って歩いていく。
手を引かれているセレスティアは、怯えたように肩をすくめつつも、その頬には微かな満足の色が浮かんでいた。
少し遅れて。
「ヴァルロード伯爵家嫡男ユウ様、グレイハルト公爵家令嬢リリス様――ご入場」
その言葉に、空気が一瞬止まる。
「なぜあの並びに……?」
「婚約は解消されたのか? いや、まだ公表はされていないはずだ」
「それとも、王太子殿下が一方的に……?」
ざわつきの質が変わる。
ユウは、それらすべての視線を正面から受けた。
(いいさ。どうせ、何をしても噂にはなる。
だったら、せめて――この人が一人で笑われる状況だけは避けたい)
隣を歩くリリスは、まるで舞台の上に立つ女優のようだった。
姿勢は崩れず、微笑みは丁寧に整えられている。
その裏側で何を押し殺しているかを知らなければ、誰も彼女の内側を疑えないだろう。
上段から、グレイハルト公爵の視線が刺さる。
その鋭さの奥に、かろうじて「礼を言っている」色が含まれているのを、ユウは読み取った。
(あくまで、今は“場”を守ることが優先――というわけか)
彼もまた、ここで感情を露わにするわけにはいかない。
公爵家当主として、まず守るべきは家全体の立場だ。
ユウたちは所定の位置まで進み、恭しく一礼した。
◇
「……それでは、今年度初等部生を代表して、王太子アルベルト殿下よりご挨拶を」
司会役の声が響く。
アルベルトは、セレスティアを少し後ろに下がらせて前へ出た。
本来なら、その隣に並ぶべきはリリスだった。
彼は一度だけ胸を張り、人々を見渡し――そして、予想もしない言葉を口にした。
「今日は、皆に知らせたいことがある!」
声が、大広間に響き渡る。
王と王妃、公爵たちも眉をひそめた。
本来であれば、ここで述べるのは挨拶と感謝、そして来年への抱負だけのはずだ。
アルベルトは、そのすべてを無視した。
「俺は――リリス・フォン・グレイハルトとの婚約を、ここで破棄する!」
音楽が止まる。
誰かが持っていたグラスが、かすかに震えて音を立てた。
「っ……」
リリスの喉がひゅっと詰まる。
次の瞬間には、表情を取り繕っていたが、その一瞬だけは隠しようもない。
「理由は簡単だ!」
アルベルトは続けた。
「リリスは、堅すぎる。
いつも正しくて、間違いを許さなくて、俺の隣にいても息苦しい。
俺が求めるのは、もっと素直で、俺を見てくれる娘だ!」
彼の視線は、明らかにセレスティアへ向いている。
「俺は――セレスティア・アークロイドを選ぶ!
これから俺の隣に立つのは、彼女だ!」
セレスティアは両手を胸の前で組み、戸惑ったふりをして俯いた。
だが、口元がわずかに持ち上がっているのを見逃した者は少なくない。
大広間の空気が、一気に濁る。
「王太子殿下……今の発言は――」
王が口を開こうとした瞬間、別の声がそれより少し早く響いた。
「――リリス」
グレイハルト公爵の、低く押し殺した声だ。
リリスは一歩前に出て、深く礼をした。
「陛下、王太子殿下。
今の御言葉、しかと承りました」
声は震えていない。
ただ、その背筋は限界まで伸びていて、今にも折れそうなほど細く見えた。
「婚約は、王家と公爵家で交わされた公的な約束です。
本来であれば、この場での軽々しい扱いは認められないものと存じますが……」
一瞬だけ言葉を切り、顔を上げる。
赤い瞳が、真正面から王太子を見据えた。
「それでもなお、殿下がその御意志を変えられないのであれば――
私は、公爵家の娘としてではなく、一人の人間として、その選択を受け止めます」
あまりにも静かな宣言だった。
王太子は気まずそうな顔をするどころか、むしろ開き直ったように肩をそびやかしている。
「……そういうことだ。
お前の方が、俺と合わないんだよ」
その一言で、誰の目にも「幼稚な自己弁護」であることがはっきりした。
王と王妃、公爵家の者たちの視線に、重い怒りが潜む。
しかし、ここで王自ら王太子を公衆の前で叱責すれば、それはそれで王家の威信に傷がつく。
王は椅子の肘掛けを強く握りしめ、短く言った。
「……この件については、後日改めて話し合う。
今宵は、学園生たちの晴れの場であることを忘れるな」
それは、「今ここでは収める」という決定だった。
舞踏会の形式は維持される。
だが、この夜が「何事もなかった」わけではないことを、誰もが理解していた。
◇
音楽が再び流れ始める。
だが、先ほどまでの軽やかさは戻らない。
舞踏会は形だけ続いていくが、その中心にいたはずの少女は――ゆっくりと輪から離れていった。
リリスは、静かに一礼し、会場の端から出口へと向かう。
足取りは丁寧だが、わずかにふらついている。
見慣れたはずのドレスの裾が、今はやけに重そうに見えた。
(これ以上ここにいれば、彼女は“見世物”になってしまう)
その未来を想像した瞬間、ユウの身体は自然に動いていた。
「マリア、少し離れます」
「はい。こちらは心配なさらないでください」
マリアの返事を聞き、ユウは会場を抜け出す。
◇
大広間から少し離れた回廊は、先ほどとは別世界のように静かだった。
窓から差し込む月光が床に帯を作り、遠くからかすかに音楽だけが届いている。
その中ほどで、リリスは立ち止まっていた。
壁にもたれるわけでもなく、ただそこに立とうとしている。
しかし、肩の起伏が大きくなってきているのを見れば、限界が近いことは明らかだった。
「リリス様」
ユウが声をかけると、彼女は振り向いた。
先ほどまで人前で見せていた微笑みは、もうどこにもない。
「……ユウ様」
名前を呼ぶ声が、ひどくか細い。
「会場に戻られなくてよろしいのですか?」
「戻っても、私がいる場所は、もう残っていませんから」
その言葉には、自嘲も怒りもなかった。
ただ、事実を確認しているだけの響きだった。
「婚約が破棄されたということは、私は“王太子妃候補”ではなくなりました。
あの場に残る理由は、どこにもありません」
「理由なら、ひとつあります」
ユウは、ゆっくりと彼女との距離を詰めた。
「あなたが、まだ立っているからです。
あの場から逃げ出さず、公爵家の名を守り、最後まで頭を下げた。
その事実だけで、あなたにはここにいる資格があります」
「……そんなふうに言わないでください」
リリスの瞳に、ようやく涙の光がにじんだ。
「今、そう言われると……本当に泣きそうになります」
「泣いてはいけない理由はありますか」
「今、泣いてしまったら――
婚約が決まってから、私が積み上げてきた“王太子妃らしさ”が、全部崩れてしまう気がします」
その言葉は、彼女自身への呪いのようでもあった。
ユウは、短く息を吐く。
「でしたら、王太子妃ではなく、ただのリリスとして泣いても良いのではないでしょうか」
「そんな人間、今の私に残っているのでしょうか」
自分で言った言葉に、リリスは苦笑した。
笑いながら、目の縁が赤く染まる。
ユウは、迷わず言った。
「少なくとも、僕は見ました」
「……え?」
「学園で、初めてすれ違った時。
試験の日に、疲れた様子の使用人にさりげなく声をかけていた時。
リリス様が誰も見ていないところで、ほんの少しだけ表情を緩める瞬間を。
そういう姿を、僕はちゃんと覚えています」
リリスは息を止めた。
「だから――今日のあの場で、あなたが一人で立たされているのを見て、胸が痛くなりました。
王太子妃としての姿ではなく、
ひとりの人としてのリリス様が、あまりにも雑に扱われていたからです」
彼の言葉はどれも難しくない。
ただ、丁寧に選ばれていることが分かる。
「どうして……そこまで」
「……そうですね」
ユウは少しだけ視線を落とし、それから正面に戻した。
「本当のことを言うと――最初にお会いした時から、ずっと気になっていました」
リリスの瞳が大きく見開かれる。
「堅そうに見えて、実はよく周りを見ているところとか。
誰かが失敗したとき、本当は庇いたそうにしているのに、立場のせいで何も言えないところとか。
それでも自分の役目を崩さないところとか……そういう姿が、ずっと目についてしまって」
それは一気に吐き出されたわけではなく、
ひとつひとつ思い出しながら、確かめるように紡がれた言葉だった。
「今日、殿下にあんな扱いをされたあなたを見て……
ああ、やっぱり嫌だな、と、心の底から思いました」
「嫌……ですか?」
「はい。
好きな人が、あんなふうに踏みにじられるのは、見ていて気持ちのいいものではありません」
「…………」
リリスの頬が、ゆっくりと赤くなっていく。
「す、好き……?」
かろうじて絞り出した声は、いつもの彼女からは想像できないほど弱かった。
ユウはそれを否定しなかった。
「ええ。
“婚約者になりたい”とか、“必ず隣に立ちたい”とか、
今の時点で大きなことを言うつもりはありません」
言いながら、自分の中で言葉を選び直す。
「ただ――あなたのことが好きで、あなたが傷つけられるのが嫌で、
あなたが笑っていれば安心する……そういう感情を、もう誤魔化せなくなりました」
難しい理屈ではない。
11歳の少年が抱く、まっすぐな好意。
リリスは、視界が少し滲んでいくのを感じた。
「……今、そのお言葉をいただくのは、ずるいと思います」
「そうかもしれません」
「殿下との婚約を失ったばかりの私に、
そんなことを言われたら……心が揺れてしまいます」
「揺れてもいいと思います」
ユウは穏やかに言った。
「今日、殿下は“あなたを選ばなかった”と、皆の前で宣言しました。
でしたら、あなたはもう――自分を選んでくれる人の方を見ていいはずです」
その言葉は、宣戦布告でもなく、押しつけでもない。
ただの「選択肢の提示」に近かった。
「今すぐ何かを決めてほしいわけではありません。
ただ、今日の夜くらいは――
あなたの涙を見たくないと思っている人間も、ここにひとりいるということだけ、覚えていてください」
リリスは、とうとう目を伏せた。
「……ユウ様は、ときどき卑怯です」
「それは聞き捨てならない評価ですね」
「こんな日に……そんな優しい言葉をくださるなんて……
それでは、本当に泣いてしまうではありませんか」
ふ、と笑おうとしたが、うまくいかない。
代わりに、ぽろり、と透明な滴が頬を伝った。
「あ……」
自分でも驚いたのか、リリスは指先で涙を押さえようとする。
しかし、一度あふれてしまったものは、そう簡単には止まらなかった。
「……見ないでください」
「見てしまいましたから、最後まで見届けます」
「もう……本当に、卑怯です……」
責めているように聞こえて、その実、どこか救われたような声音だった。
ユウは一歩だけ近づき、しかし彼女に触れはしない。
触れれば、何かが決定的に変わってしまう気がしたからだ。
代わりに、静かに言う。
「リリス様」
「……はい」
「どうか今日のことを、“捨てられた婚約者”としてだけ覚えないでください。
“勝手に手放された宝物を、ちゃんと見ている人間もいた”――
そういう夜だったと、いつか思い出してもらえたら、それで十分です」
リリスは、涙に濡れた瞳でユウを見た。
その視線には、さまざまな感情が混ざっていた。
悲しみ、悔しさ、疲労……そして、ほんの少しの安堵と、これからの不安。
それでも、最後に浮かんだのは、かすかな笑みだった。
「……そんなふうに言われたら、忘れられないではありませんか」
「忘れなくていいと思っています」
「本当に……困った方ですね、ユウ様は」
そう言いながら、リリスは小さく頭を下げた。
「ありがとうございます。
今夜、私の隣に立ってくださって」
「こちらこそ。
あなたの隣に立つ機会を、簡単に諦めたいとは思いませんでしたから」
遠くで、舞踏会の音楽が再び盛り上がり始める。
王城の中では、まだ誰かが踊っている。
誰かが笑い、誰かが噂話をし、誰かが今夜を一生の思い出に変えようとしている。
その少し離れた廊下で――
たった二人だけの、小さな約束にもならないやり取りが交わされた。
この夜の出来事が、
リリスにとって「すべてを失った瞬間」ではなく、
「新しい何かが静かに始まった瞬間」として刻まれるかどうかは、まだ誰にも分からない。
ただひとつ、確かなことがあるとすれば。
ユウ・ヴァルロードという少年は、
この日、王太子が手放したものの価値を、誰よりも正確に見ていた――ということだった。




