第二章 秩序の学園と崩れゆく誓約 第十六話 治水の答え ― 少年は古の知恵を知る
第二章 秩序の学園と崩れゆく誓約
第十六話 治水の答え ― 少年は古の知恵を知る
学園生活が始まってから一か月。
授業の合間にユウは、しばしば“異世界ダイナリー”を開いていた。
今回調べているのは――治水。
ヴァルロード領には古くから続く弱点があった。
山間部からの雨水が一気に流れ込み、
春と秋にはほぼ毎年、川が氾濫する。
大規模な被害は出ていないが、
田畑の流出、道路の寸断、家屋への浸水。
蓄積すれば確実に領民の生活を蝕むものだった。
(領地改革の基盤は、何よりもまず“水の管理”だ)
ユウは静かに机の上の羊皮紙を広げる。
地図は父から預かった領内の地形図だ。
山から流れる五本の支流。
本流合流地点に偏る村落。
標高差の小さい湿地帯。
(この地形なら……溜池と“堤”の組み合わせが最も効果的だ)
異世界ダイナリーに目を落とすと、
ページが静かにめくられ、前世の知識を断片的に示す。
《ため池:降水を一時的に貯留し、農地への流出を制御する仕組み》
《信玄堤:戦国期の治水技術。堤防を複層化し、流れを逸らして勢いを殺す構造》
(信玄……あの武田信玄か。この仕組みなら、急流の勢いを散らしながら本流に“水を逃がす”ことができる)
その構造を、ユウは小さく描き写していく。
堤防は一本ではない。
強く堅固な一本ではなく、複数の層で受け流す。
まるで木々が風を散らすように、水の勢いを分散させる。
(そして貯水。ため池を複数設けることで、突発的な豪雨でも水が一気に村へ流れ込むことを防げる)
ユウは唇を指先で軽く叩く。
(問題は――人手と資材、そして時間)
だが、考えすぎて止まる必要はない。
提案して意見を交わしていくこと自体が、改革の第一歩だ。
ユウは羊皮紙をまとめ、封をする。
(……父上へ話さないと)
⸻
その日の夕刻。
ヴァルロード家の執務室。
西日が差し込み、父・オルグレインの机の影が長く伸びている。
「入れ」
扉越しに声が聞こえ、ユウは静かに入室した。
「時間をいただきありがとうございます。
本日は、領地の治水について提案がございます」
ユウの声に、父は目を上げた。
驚きはない。
しかし「息子が何を持ってきたか」を見極めようとする緊張が、視線に宿っていた。
「治水……か。あの問題に目を向けたのは、なぜだ?」
「学園で扱った“税率と人口の変動”を考えるうちに、
領地の基盤を見直す必要を強く感じました。
経済は土台が安定していなければ成り立ちません。
その意味で、治水は最優先に考えるべきだと」
オルグレインは軽くうなずく。
「続けろ」
ユウは地図を机の上に広げた。
「まず、こちらの支流に“ため池”をいくつか建設することで、
豪雨時の集中流量を抑えることができます」
「ため池?」
「はい。水を貯め、畑に均等に流すための池です。
ここでは“水を遅らせる”効果が大きく、
氾濫を防ぐのに非常に有効だと思われます」
父は地図に視線を落とし、指先で高低差を確かめるように触れる。
「……ふむ。確かにこの地形なら可能だろう。だが、それだけで足りるか?」
「そこで、二つ目の提案です」
ユウは新しい図を示した。
「“複層堤防”の建設です。
一枚の大きな堤で水を抑えるのではなく、
内側と外側に数枚の堤を重ね、流れを逸らしながら減速させます」
「単純な堤よりも……水の勢いを殺せる、か」
「はい。急流は正面で受け止めると破壊されます。
ですが、段階的に流れをずらし、水を“迷わせる”形にすれば、
堤が決壊する可能性を大幅に下げられます」
父は目を細めた。
「……誰に教わった?」
「学園で扱った地形学と、手元にあった書物を組み合わせて考えました」
もちろん“異世界ダイナリー”の存在は言えない。
父はしばらく地図を眺め、それから深く息を吐いた。
「ここまで構造を理解した上で提案したのなら……すでに私よりも治水の理に通じているな」
「いえ、私はただ、領地のために必要だと思ったことを考えただけです」
オルグレインはしばし目を閉じ、
そして机を軽く叩いた。
「――よくやった、ユウ」
静かだが、確かな称賛の声だった。
「ため池の候補地は、明日から測量隊を動かす。
堤の構造についてはお前とも話し合いながら決める必要があるな」
「ありがとうございます」
「ひとつだけ聞かせろ。
……これは、学園の課題ではないな?」
「はい。あくまで“我が家の問題”として取り組みました」
父はゆっくりと頷いた。
「ならば、それでよい。
領主の息子は多くの場合、成人してから領地を学ぶが……
お前は十歳でここまで考えている」
「未熟な部分は多いですが、できることはしたいと思っています」
「――未熟と言える者は、すでに未熟ではない」
その言葉には、父としての誇りと、
領主としての信頼が混ざっていた。
「今後も、領地について考えがあれば話せ。
私はお前の意見を軽んじない」
「……はい。必ず」
ユウは胸に熱が満ちるのを感じた。
(これで……領地改革の第一歩を踏み出せた)
異世界ダイナリーの知識と、
この世界の地形と、
ユウ自身の思考。
それらすべてが、静かにひとつの形になっていく。
⸻
執務室を出ると、
廊下で待っていたマリアがユウを見上げた。
「ユウ様……終わりましたか?」
「ええ。父上に治水案を受け入れていただきました」
マリアの表情がぱっと明るくなる。
「本当に……すごい方です。
十歳の方が治水の話をするなんて、誰が想像できますか」
「想像していなくても、必要ならやるだけです」
「そういうところが……とても、ユウ様らしいです」
その横で、ティアが目を丸くしていた。
「治水って……お水を守る、ということですか?」
「そうですね。領地を守る方法、と言ってもいいかもしれません」
ユウが答えると、ティアは尊敬の眼差しを向けてくる。
「ユウ様は……領民のこと、いつも考えているんですね」
「考えるだけではまだ足りません。
これから形にしていくのが“領主の仕事”です」
ユウの声は静かだが、芯が通っていた。
(これは始まりだ。
リリス様の未来も、領地の未来も……すべて、これから作る)
少年の歩みは、まだ十歳。
だがその一歩一歩が、確実に王国の形を変えていく。




