第二章 秩序の学園と崩れゆく誓約 第十四話 小さな従者たちと、揺れ始めた評価
第二章 秩序の学園と崩れゆく誓約
第十四話 小さな従者たちと、揺れ始めた評価
入学から、二ヶ月あまりが過ぎた。
朝の王立高等学園は、すっかり「顔ぶれの配置」が決まりつつあった。
中庭の一角では、いつも決まった貴族たちが輪をつくり、
講義棟の前では、平民出身の生徒たちが教本を片手に固まっている。
そして、少し離れた位置には――
「アルベルト殿下、昨日の剣のご様子、とても見事でございました」
柔らかく、耳に残る声音。
栗色の髪を揺らしながら、アークロイド男爵家の令嬢、セレスティアが微笑んでいた。
「そうか? あれくらい、騎士たちなら普通にできるだろう」
「いいえ。殿下は“王族として”の立場をお持ちですのに、ご自分で剣を振るわれる。
そのお姿だけで、どれだけ周囲に力を与えていらっしゃるか……」
言葉の内容は大げさだが、声音も表情も、押しつけがましさはない。
むしろ、聞いている本人にだけそっと触れるような、ほどよい距離感だった。
その様子を――少し離れた影の位置から見ている少女がいた。
ティア。
リリス・フォン・グレイハルトに従う、孤児出身のメイド。
制服の上から黒いエプロンドレスを重ね、両手を前で重ねて立つ姿は、どこから見ても従者そのものだ。
だが、その瞳だけは、生徒たちの会話を一つも聞き逃すまいとするように、じっと周囲を観察していた。
(また……一緒にお話ししている)
殿下と男爵令嬢。
その並びは、この二ヶ月で何度も目にしてきた。
最初は、掲示板の前で交わされた、あの何気ない会話だけ。
けれど今では、登校時、休み時間、実技の後――
気づけばいつも、セレスティアは殿下の近くに立っている。
「殿下は、最近本当にお顔つきが変わられましたわ。
剣の稽古でも、教官がお褒めになっていました」
「……あいつがか。珍しいな」
「それは殿下が、周囲の期待に応えようとされているからだと思います。
以前よりも、ずっと」
セレスティアの言葉に、殿下はわずかに胸を反らした。
満足げな色が、その顔に浮かぶ。
(……殿下の剣は、確かに前よりもずっと鋭くなった)
ティアも、それは認めざるを得なかった。
遠目に見るだけでも、踏み込みの速さや構え方が、以前とはまるで違うのが分かる。
人前に出るときの態度も、以前よりきちんとしてきた。
教官への礼も、貴族として恥ずかしくないものになっている。
(でも――)
ティアは視線を少しだけ横へずらした。
中庭の反対側を歩いてくる、黒髪の少女の姿が目に入る。
リリス・フォン・グレイハルト。
公爵令嬢にして、王太子の婚約者である少女。
朝の光を受けた銀糸のような刺繍が、紺色のドレスの裾でふわりと揺れた。
姿勢は伸び、歩みは静かで、どこにも乱れがない。
彼女は殿下たちの近くを通り過ぎる際、迷いのない所作で一礼した。
「おはようございます、殿下。
本日も、良き一日となりますように」
声には冷たさも熱もない。
ただ、公の場にふさわしい礼節だけがそこにあった。
ほんの少し前までは、その挨拶に「おう」「ああ」といった返事が返ってきていた。
けれど今は――
「…………」
殿下は横を向いたまま、セレスティアの言葉に返事を続けた。
「剣の教官がそう言っていたのか?」
「ええ、はっきりとおっしゃっていました。
『以前よりも、殿下の目が戦場を見ているようになってきた』と」
「はは、それは悪くないな」
リリスの挨拶は、空中に溶けた。
まるで、最初から存在しなかったかのように。
ティアは、その瞬間を真正面から見てしまったことを後悔したくなる。
けれど、目をそらすという選択も取れなかった。
自分の主は、何も言わない。
ほんの一瞬、瞼が揺れたように見えたが、表情は崩れない。
「――行きましょう、ティア」
「……はい。リリス様」
リリスは一度だけ、小さく息を吸い込んだ。
それきり、何事もなかったかのように背を向ける。
歩幅が乱れることも、手元が震えることもなかった。
ただ、隣を歩くティアだけが、
その横顔からほんの少しだけ、色が抜けていくのを目にした。
(リリス様は……大丈夫。大丈夫なはず)
何度も心の中でそう言い聞かせる。
けれど、胸の奥で細い痛みが消えない。
孤児だった自分を拾い、身の回りのことを任せてくれた主。
礼儀作法や勉強を一緒にしようと言って、同じ机で文字を並べてくれた主。
その人が、公然と無視されている。
その現実を、ティアは飲み込まなければならなかった。
⸻
その日の午前の講義は、SクラスとAクラスの合同授業だった。
教室の前列に二席だけある、わずかに間隔をあけて用意された机。
そこに並んで座るのは、ユウ・ヴァルロードとリリス・フォン・グレイハルト。
その後ろには、Aクラスの生徒たちが整然と並んでいる。
教室の一番後ろ、壁際の位置には、従者席があった。
そこに立っているのは二人。
一人は、栗色の髪をきちんと結い上げたメイド服の女性――マリア・ベルモンド。
ユウの専属メイドにして、彼が物心つく前から身の回りを支えてきた人物。
もう一人は、さきほど中庭にいたティア。
緊張を隠せず、背を伸ばしたまま固まっている。
(この空間に立つのは、やっぱり圧が強いわね……)
マリアは、軽く息を吐きながら教壇の方へ視線を向けた。
講義内容は「税率と人口流動について」。
難しい顔をしているのは、生徒たちだけではない。
この話を一番真剣に聞いているのは、むしろ前列の二人だった。
ユウは、板書を写すだけでなく、自分なりのメモを書き添えている。
支出項目の横には、小さく「代替案」や「長期的負担」といった文字が並んでいた。
リリスもまた、ただ黙々とペンを走らせているわけではない。
要点を抜き出すように短い文章でまとめ、気になった点には印をつけていた。
(この二人は、本当に“学ぶこと”を当たり前にやってしまうのね)
マリアは、半ば呆れるような、半ば誇らしいような気持ちで二人の後ろ姿を見ていた。
王家から離れた地方伯爵家の長男と、公爵令嬢。
立場だけで言えば、最上位の貴族たちだ。
だが、その背中は「地位」に寄りかかってはいない。
考え、書き、考え直す。
ただそれだけの行為を、当たり前のこととして積み上げている。
(リリス様の横顔、やっぱり綺麗ね……)
美しい、という言葉だけでは足りない。
髪の流れも、首筋のラインも、視線の運び方も。
どれも作られたものではなく、日々の積み重ねの中で磨かれたものだと分かる。
マリアは、ふとそんなことを考えた。
(……だからこそ、殿下が今のような態度でいらっしゃるのは、見ていて気持ちが良くないわね)
あの中庭での光景を思い出し、胸の奥に小さな棘が刺さる。
自分はあくまでユウの側の人間だ。
王太子のことに口を出せる立場ではない。
それでも、長く貴族社会の裏側を見てきた身として、眉をひそめたくなるものはあった。
(あの男爵令嬢も、なかなかのやり手ね。
褒めるところと、黙るところをちゃんと選んでいる)
セレスティアの笑顔は、使用人から見てもよく出来ている。
だがマリアは、彼女が「誰の前で、どのように」笑っているかまで見ていた。
そして、その輪の中に、リリスの姿が一度もないことも。
⸻
「――今日はここまでだ」
教官の言葉で、講義が締めくくられた。
「SクラスとAクラスの諸君。
次回は地方都市の事例をもとに、具体的な改革案を考えてもらう。
それまでに、参考資料の読み込みを忘れないように」
ざわめきが広がる。
Sクラスの二人は、それぞれのノートを閉じた。
「お疲れさまでした、ユウ様」
マリアが声をかけると、ユウは椅子から立ち上がりながら振り返った。
「ありがとう、マリア。
今日の内容は、家に戻ったら父上にも話しておくよ」
「きっと喜ばれますね。
あの方は、こういう堅苦しい話が大好きですから」
軽く冗談めかして言うと、ユウは口元だけで笑った。
「否定できないのが困ったところだ」
そのやり取りを、ティアは視線だけで追っていた。
(あの二人は……主と従者というより、少し、家族みたい)
そんな印象が浮かび、それを慌てて胸の奥に押し込む。
自分が勝手にそう思うこと自体、失礼ではないかと不安になったからだ。
「ティア」
リリスに呼ばれ、すぐに姿勢を正す。
「はい、リリス様」
「資料をもう一部、借りてきてくれるかしら。
復習するとき、ティアにも目を通しておいてほしいの」
「……わ、私にも、ですか?」
「ええ。
地方都市の税率の仕組みは、いずれあなたのような立場の者にも影響してくるはずだから」
言葉は穏やかだったが、その中に「同じ景色を見たい」という意図が、確かに含まれていた。
ティアは胸の奥が熱くなるのを感じながら、小さく頷いた。
「……はい。必ず目を通します」
⸻
教室を出た廊下で、ユウたちとリリスたちの帰路が一瞬だけ重なった。
マリアは、リリスとティアに向き直る。
「本日のご講義、お疲れさまでした。
リリス様、先ほどのご質問、とても的を射ていらっしゃいました」
「ありがとうございます、マリアさん。
あなたのような方にそう言っていただけると、少し自信が持てます」
リリスは、柔らかな笑みを返した。
マリアはふと、彼女の瞳の下に、ほんのわずかな影を見つける。
(……眠れていない日が続いている?)
そう思ったが、直接は聞かない。
代わりに、ほんの少しだけ言葉を添えた。
「無理はなさらないでくださいね。
学園生活は、まだ始まったばかりですから」
リリスは一瞬だけ目を丸くし、それから小さく頷いた。
「お気遣い、感謝いたします」
そのやり取りの横で、ユウはティアに視線を向けた。
「ティアさん」
「は、はいっ!」
思い切り肩を跳ねさせた返事に、ユウは少しだけ目を瞬いた。
「そんなに身構えなくて大丈夫だよ。
リリス様のそばにいる人を、僕は頼もしいと思っているから」
「……えっ」
ティアは、言葉を失った。
自分が孤児であること。
平民よりも低く見られること。
それは、彼女の中で消えない印のように刻まれていた。
だからこそ、「頼もしい」という評価は、あまりにも遠い場所から投げかけられた言葉のように感じた。
「リリス様のことを見ている人が、ここにもう一人いるというのは、悪くないと思っただけさ」
ユウの声は、特別に優しいわけでも、熱っぽいわけでもなかった。
ただ、「事実としてそう思っている」と静かに告げる響きだった。
ティアは、ぎこちないながらも頭を下げる。
「……ありがとうございます」
その様子を見ていたマリアは、心の中で小さく息を吐いた。
(やっぱり、ユウ様は人の“積み重ね”をよく見ている)
孤児だから、平民だから、といった単語で誰かを判断しない。
一緒に過ごした時間の中で、その人が何をしてきたかだけを見る。
その姿勢に、マリアは何度も救われてきた。
(だからこそ、リリス様を見つめる目も、ああいう目になるのね)
横目でユウとリリスの距離を測る。
近くもなく、遠すぎもしない。
礼節があり、境界線もある。
だが、その線の内側に「敬意」と「信頼」が確かに存在する距離だった。
⸻
その日の放課後。
中庭の一角で、再びアルベルトとセレスティアの姿が見られた。
「殿下、今日の税の講義で、先生が仰っていましたわね。
『王族は数字だけでなく、人の顔も見るべきだ』と」
「そんなことも言っていたか?」
「ええ。
殿下は、もうすでに“人の顔”をよく見ておられます。
だからこそ、最近の殿下はとても“王子らしく”なられているのだと思います」
「……そうか?」
「はい。
以前よりも、ずっと」
セレスティアは、決してリリスの名を出さない。
リリスという存在を、あえて会話の地平から外したまま、
「今ここにいる殿下」だけを見ているようにふるまう。
それが、殿下の心のどこかをくすぐり続けていた。
(――殿下は、リリス様の挨拶だけを無視する)
少し離れた位置から、その様子を見ていたティアは、胸の奥で言葉にならない違和感を抱え続けていた。
だが、その違和感を口にする場は、どこにもない。
ただ一つだけ、彼女の中で強くなりつつある気持ちがあった。
(私は、リリス様のそばに立ち続ける)
どれだけ周囲の評価が揺れても。
王太子が誰と笑い合うようになっても。
自分の立場がどう見られようと。
(あの方が一人になってしまうのだけは、見たくない)
その小さな決意は、口に出されることはなかった。
けれど、Sクラスの教室の一番後ろで。
リリスのすぐ斜め後ろで。
確かに、静かに息づき始めていた。
⸻
一方で、マリアは。
その日、屋敷に戻ったユウから授業の話を聞きながら、心の中でひっそりと思っていた。
(学園での評価は、きっとこれから大きく動いていく)
王太子が「以前より良くなった」と言われ始めたこと。
セレスティアが、その評価を巧みに支えていること。
リリスが公の場で感情を見せないことで、「冷たい」と誤解され始めている空気。
そしてその隙間で、ユウとリリス、ティアの三人の距離が、少しずつ近づきつつあること。
(誰が正しくて、誰が間違っているかなんて、今の時点で決まるものじゃない)
それでも。
マリアは、トレイの上に並んだティーカップを見つめながら、ひとつだけはっきりと感じていた。
(この学園で、何かが大きく歪み始めている)
その歪みの中心に、
アルベルトとセレスティア、そしてリリスの名があることを。
そして、そこから少し離れた位置に、ユウと自分たちが立っていることを。
まだ誰も、はっきりとした形では言葉にしない。
だが、確かに。
学園の空気は、静かに変わり始めていた。




