第二章 秩序の学園と崩れゆく誓約 第十三話 噂のかたち
第二章 秩序の学園と崩れゆく誓約
第十三話 噂のかたち
学園生活が始まってから、ひと月と少し。
王立高等学園の中庭には、季節の花が規則正しく植えられているはずなのに、そこに立つ生徒たちの視線は、花壇よりも一人の少年と一人の少女へ向かっていた。
アルベルト・ルクレインと、セレスティア・アークロイド。
昼休み。
Bクラスの生徒たちが輪を作る、その中心に彼らの姿がある。
「殿下、昨日の講義でおっしゃっていた軍備の再編のお話、とても興味深かったですわ」
「……そうか? あんなのは、父上の会議で聞いたことをちょっと言い直しただけだ」
そう言いながらも、アルベルトの声には、以前にはなかった落ち着きと余裕があった。
言葉の選び方。
立ち姿。
相手の顔を見る角度。
どれも、以前より丁寧になっている。
セレスティアは、その変化を逃さず拾い上げるように微笑んだ。
「それでも、以前の殿下でしたら、きっと『難しいから面倒だ』で終わらせてしまわれたと思います」
「……昔の話を持ち出すな」
「むしろ、褒め言葉のつもりですわ。だって、今の殿下は違うのですから」
周囲の貴族出身の生徒たちが、感心したように頷く。
「最近の殿下、ずいぶん変わられたよな」
「前より、話しやすくなった気がする」
「セレスティア嬢の影響か?」
こそこそと交わされる声は、好意的なものが多かった。
その輪から少し離れた場所で、Sクラスの二人は別方向へ歩いていた。
ユウ・ヴァルロードと、リリス・フォン・グレイハルト。
講義を終え、Sクラスの教室から廊下に出ると、視界の隅でBクラスの人だかりが目に入る。
その中心にいる王太子を、リリスはほんの一瞬だけ見た。
すぐに視線を戻す。
表情はほとんど変わらない。
礼儀正しい公爵令嬢の顔そのままだ。
(あの方が成長なさることは、王国にとって決して悪いことではありません)
心の中で、淡々とそう言葉を組み立てる。
外から見れば――
今のアルベルトは、確かに以前より「王子らしく」なっているのだろう。
朝の挨拶。
授業での発言。
教師への態度。
どれも、以前より整ってきている。
ただ。
その変化の中から、自分だけが外されているという事実だけが、胸のどこかに細い棘のように残っていた。
「リリス様」
隣で歩いていたティアが、小さな声で呼びかける。
「はい」
「……少し、歩く速度を緩めてもよろしいでしょうか」
「ええ」
その返事ひとつで、二人の歩幅はほんのわずかだけ変わる。
Sクラスは二人だけ。
だからこそ、廊下を歩くときの距離も自然と近くなる。
その背中を、ユウは少し離れた位置から見送っていた。
あえて追いつかない。
あえて距離を詰めない。
(ここで言葉をかけるのは、今ではない)
そう判断している自分がいた。
そのとき――
「なぁ、本当にそう思うか?」
曲がり角の向こうから、男子生徒たちの声が聞こえてきた。
「殿下のご様子のことか?」
「そうそう。前はリリス様の隣で、少し居心地悪そうだっただろう? 今のほうが自然に見えないか?」
声はまだ幼さを残した少年のものだが、内容は妙に大人びている。
「公爵令嬢は、あまりにも完璧すぎるのだ。殿下も息苦しかったんじゃないか?」
「セレスティア嬢くらいが、ちょうどいいのかもしれないな。あの方は殿下の話をよく聞いて、上手に受け止めている」
ティアの肩が、わずかに震えたのが分かった。
リリスは、顔色を変えない。
だが、指先がわずかに強く布地をつまんだ。
(声をかけるべきか)
ユウは一瞬だけ迷い、それから足を速めた。
「リリス様、ティアさん」
呼びかけると、二人が同時に振り返った。
リリスの瞳には、いつも通りの静けさがあった。
だが、その奥には何かが波立った痕跡がある。
「ご一緒してもよろしいでしょうか」
「もちろんです、ユウ様」
リリスは、ほんのわずかに微笑みを作って答えた。
ティアは、視線を床に落としたまま、ぎこちなく会釈をする。
「先ほどの講義の内容について、リリス様のお考えを伺いたいと思いまして」
ユウは、あえてごく当たり前の話題を選んだ。
今日のSクラスの講義は、税率の変化による人口移動、そしてそれが王都と地方に与える影響についてだった。
「税率を一律に下げれば、民は喜びます。ですが、それだけでは王都の機能が保てません」
「はい。地方の領主たちが収入減を恐れて、防衛や公共事業を後回しにする危険もございます」
リリスは会話に乗るように、自然な口調で続けた。
「貴族は、民からの信頼を得るために負担を減らしたくなるものですが、減らしすぎれば結局は治安の悪化や飢饉につながります。短期的な歓心と、長期的な安定のどちらを優先するのかが問われる問題だと感じました」
「同感です。今日の例では、王都の税率を僅かに引き上げてでも、地方に向けた補助金を増やす案が出ていましたが、あれはなかなか大胆でしたね」
「王都の貴族からの反発は避けられないでしょうね」
ティアは二人の会話を、少し離れた位置で黙って聞いている。
その表情には、尊敬と、少しの憧れと、言葉にできない不安が混ざっていた。
(この二人は、同じ場所を見ている)
ユウは、リリスの横顔を見ながらそう思った。
王都の光だけではなく、地方の影。
その両方を含めた全体を見ようとしている。
だからこそ――
その隣に立つべき存在が、今、別の方向を向いていることが、余計に際立って見えた。
廊下の先で、笑い声が響く。
「殿下、明日の騎士団見学もご一緒してよろしいですか?」
「かまわない。どうせ堅い話ばかりで退屈だからな。誰か一人くらい、話し相手がいたほうがいい」
あからさまな言葉ではない。
冷酷な台詞でもない。
だが、その輪の中に「婚約者」の名が一度も出てこないことが、かえって残酷だった。
やがてリリスは、講義棟の出口に差しかかると、いつものように立ち止まった。
「ここまで、ご一緒いただきありがとうございました、ユウ様」
「いえ。こちらこそ、参考になりました」
形式的な言葉。
だが、その裏には確かな意味がある。
「ティアも、お疲れさまでした」
「……ありがとうございます、ユウ様」
ティアは小さな声で返した。
そのまま二人は、貴族用の馬車乗り場へと向かう。
ユウはしばらくその背中を見つめてから、別の方向へ歩き出した。
(――この流れは、自然に見えるからこそ厄介だ)
誰かが露骨にリリスを非難しているわけではない。
誰かが大声で悪口を言っているわけでもない。
ただ、少しずつ。
少しずつ。
「今の殿下は前より良い」という評価が広がっていく。
その影として、「以前の殿下の隣にいた婚約者」が、暗黙に「合わない相手」として扱われていく。
それは、目に見えない形で、確実にリリスの立場を削っていく流れだった。
その日の放課後。
Sクラスの教室には、ユウ一人だけが残っていた。
黒板の文字は消され、窓から射す光が床を斜めに切っている。
机の上には、講義で使った資料と、自分のノート。
ユウは椅子に腰かけたまま、手元の紙に目を落とした。
《異世界ダイナリー》
【王太子アルベルト・ルクレイン】
学内評価:上昇傾向
講義態度:改善
対人評価:良好(※一部を除く)
【リリス・フォン・グレイハルト】
学内評価:緩やかな低下傾向
原因:王太子との関係性の変化に伴う印象操作/直接的な失策は確認されず
(直接的な“失敗”がない分、余計に厄介だ)
リリス自身は、何も間違っていない。
むしろ、期待される役割を過不足なく果たしている。
それでも――
隣に立つべき相手が、別の方向へ歩き始めたことで、
彼女だけが「古い秩序の象徴」のように扱われつつあった。
扉がノックされる音がした。
「失礼いたします、ユウ様」
マリア・ベルモンドが入ってくる。
「お迎えの時間です。……少し、お顔が険しく見えましたが、何かございましたか」
「そう見えましたか?」
ユウは、意識的に表情を緩めた。
「学園の空気が、少し変わったと感じただけです」
「リリス様に関わることでしょうか」
問いは鋭いが、声は柔らかい。
ユウは否定しなかった。
「ええ。リリス様の立場が、静かに削られていく流れが見え始めました」
「直接的な攻撃は、まだないのですね?」
「はい。むしろ、露骨な攻撃があったほうが分かりやすく対処できるでしょう」
ユウは、机の上の資料を軽く叩いた。
「今の状況は、税率の変化に似ています」
「税率、でございますか?」
「ええ。目に見える税の引き上げよりも、見えない形での格差の拡大のほうが、民をじわじわと追い詰めます。それと同じで、リリス様は公然と非難されているわけではありませんが、評価の“基準線”そのものが少しずつ書き換えられています」
マリアは静かに目を伏せた。
「……危険な空気ですね」
「はい。ですが、今はまだ“観察”の段階です」
ユウは立ち上がり、椅子を軽く引いた。
「軽率に動けば、こちらが余計な火種を増やすことになりかねません。リリス様は、誰よりも“自分の役目”を理解している方です。こちらが勝手に庇えば、その尊厳を傷つけてしまいます」
「では、ユウ様はどうなさるおつもりですか」
「今は、必要なときに手を伸ばせる位置を保つことだけを考えます」
それは、逃げではなかった。
助けたいと願うからこそ、距離を間違えないようにするという決断だった。
「……それが、ユウ様らしいお答えですね」
マリアは、どこか誇らしげな、けれど少しだけ寂しそうな笑みを浮かべた。
「では、そろそろお戻りになりませんと。奥様も、今日のご報告をお待ちだと思います」
「そうですね。母上には、学園の講義内容を中心にお話ししましょう」
リリスの名を、家でどこまで口にするべきか。
それを考える自分がいることに、ユウは気づいていた。
(グレイハルト公爵家の事情もある。軽々しく他家の婚約の話を持ち出すべきではない)
だからこそ。
今のところ、彼が選べるのは「見ている」ことだけだった。
学園の空気は、今日も穏やかに流れているように見える。
だがその下で、評価の線は少しずつ書き換えられていた。
それが、後にどれほど大きな波になるのか。
このとき、知っていた者はまだ誰もいなかった。




