第二章 秩序の学園と崩れゆく誓約 第十二話 一ヶ月後のすれ違い
第二章 秩序の学園と崩れゆく誓約
第十二話 一ヶ月後のすれ違い
入学から、一ヶ月。
王立高等学園の石畳は、朝の光を受けて白く輝いていた。
最初の数日はざわつきと物珍しさに満ちていた中庭も、今ではそれぞれのクラスごとの色が、はっきりと塗り分けられ始めている。
成績で分けられたSからEまでのクラス。
その上で、貴族・平民・従者という立場。
目に見えない線が、校舎の中で静かに形を取りつつあった。
ユウ・ヴァルロードは、講義棟の階段を上りながら、廊下の気配をひとつひとつ拾っていた。
(この一ヶ月で、随分と“色”が変わった)
最初は、王太子アルベルトの存在が、良くも悪くも場を支配していた。
しかし今は違う。
「Sクラスのユウとリリス」
「Aクラスの優等生たち」
「Bクラスの王太子と、その取り巻き」
階層が分かれ、それぞれが自分の位置を理解し始めている。
「ユウ様、本日の合同授業はこちらでよろしいのですよね?」
すぐ後ろから、マリア・ベルモンドの声がかかった。
淡い青のリボンで髪を結い、従者用の制服に身を包んだ彼女は、以前より少しだけ立ち居振る舞いが固くなっていた。
学園という、主の周囲に多くの目が集まる場に合わせて、自然と「メイドとしての顔」が前に出ているのだ。
「そうだよ。今日はSとAの合同授業だ。
内容は税率と人口移動……だったはずだけれど」
「経済の講義、ですね。……正直、私には少し難しそうです」
マリアは小さく肩をすくめて、けれど楽しげに笑った。
「分からないところがあれば、あとで一緒に整理しよう。
どうせ僕は、復習するつもりだったから」
「……はい。ありがとうございます、ユウ様」
その一歩後ろを、小さな影がついてくる。
ティア。
リリスの従者として登録された少女だ。
孤児として扱われてきた時間の方が長いはずなのに、その立ち姿には、無理に背伸びをしたような「貴族的な整え方」が滲んでいた。
礼儀作法と知識は、Bクラス上位にも匹敵する。
だが、周囲の視線はまだ厳しい。
貴族の従者としての期待と、平民以下として見られてきた過去。
それらが同時に貼り付いて、彼女を落ち着かない場所に立たせている。
「ティアも、ノートはとっておくといい。今日の内容は、きっと後で役に立つ」
ユウがそう声をかけると、ティアは小さく身体を揺らした。
「は、はい。……私にも、理解できるでしょうか」
「分からないところがあっても構わないよ。
分からなかった場所が、自分の“これから”を示してくれる」
ティアはきょとんとした顔をしたあと、そっと視線を落とし、小さく頷いた。
「……がんばります」
そんなやりとりをしながら階段を上がると、目的の教室が見えてきた。
広めの講義室。
前方には大きな黒板と、王国全土が描かれた地図。
席は段差状になっており、後ろに行くほど高くなる造りだ。
既に何人かのAクラスの生徒が入室しており、その視線が自然と扉の方へ向く。
「……ヴァルロードだ」
「リリス様もいらっしゃるわ」
そんな小さな声が、あちこちでささやかれる。
ユウが教室に入る前に、数歩先を歩く少女の姿があった。
リリス・フォン・グレイハルト。
淡いラベンダー色のワンピースに、白いボレロ。
貴族の子女らしい慎ましさと、上質な布地の光沢が、教室の空気を一段階引き締める。
背筋はまっすぐで、歩幅も乱れない。
彼女の横には、控えめな色合いのメイド服を着たティアがついていた。
その立ち姿だけで、「ここがただの講義室ではない」という空気が、自然と形になる。
⸻
「本日の課目は――税率変動と、人口の流れだ」
前に立ったのは、灰色の髪の中年教官だった。
初老に差しかかっているにもかかわらず、背筋は伸び、目には静かな鋭さが宿っている。
「税率を上げれば、国庫は潤う。
だが、民の生活は苦しくなる。
逆に下げれば、一時的には喜ばれるかもしれんが、王国全体の維持が難しくなる」
黒板に、単純化された図が描かれていく。
王都、地方都市、農村。
矢印で示された人口の流れ。
「では質問だ」
教官は、教室を見渡しながら問いを投げた。
「ある地方領において、不作の年が三年続いたとする。
領主は税収減を恐れ、その分を補うために税率を二割引き上げた。
このとき――その領地にいる“若い労働力”は、十年後にどう変化すると思う?」
ざわ、と空気が揺れる。
誰かが息を呑み、誰かがペンを握り直す。
(単純な計算ではないな)
ユウは、黒板と地図とを交互に見た。
不作が続いた時点で、領民の生活は既に削られている。
そこに税率引き上げが重なれば、負担はさらに増す。
だが、ただ「苦しくなる」だけでは終わらない。
「はい」
ユウは手を挙げた。
「ヴァルロード。言ってみろ」
教官の視線が向けられる。
「短期的には、領民の中から、まず“移動できる者”が外へ出ます。
特に、若くて身軽な労働力が、労働条件の良い別の領地や王都へ向かうはずです」
「ほう。では十年後は?」
「残るのは、移動資金も体力も乏しい者たちと、移動したくても家族構成などの事情で動けなかった者たちです。
結果として、その領地は『高い税率』と『労働力不足』を同時に抱えることになります」
教室のあちこちから、小さなどよめきが漏れた。
「税収を守ろうとして税率を上げたはずが、十年後には税の土台そのものが削られる。
そうなれば、さらに税を上げざるを得なくなり、残った民の生活は、より追い詰められます」
ユウはそこで一度言葉を切り、最後にひとつ付け加えた。
「長く見れば、その領地は“静かに衰退する道”を選んだことになります」
教官はしばらく黙ったままユウを見て、それからゆっくりと頷いた。
「……よく見ているな。
『目の前の金額』だけを守ろうとした結果、『将来の土台』を削る例だ」
チョークが再び黒板を走る。
「この国でも、似た事例は歴史上何度か起きている。
覚えておけ。税とは数字の問題だけではない。人の流れそのものに干渉する、非常に強い手段だ」
教官の視線が、今度は別の方向へ向いた。
「では――その状況で、なお“領地を維持しよう”と考えた領主が取るべき手段は何だと思う?
税を下げる以外の選択肢を挙げてみろ」
短い沈黙のあと、もう一本の手が上がる。
リリスだった。
「グレイハルト。答えてみろ」
「はい」
リリスは立ち上がり、すっと教壇に視線を合わせる。
「その領地の“売れるもの”を増やし、外から金を取り込むべきだと考えます。
例えば、他領にはない特産品を作るか、既存の産物の品質を高めて、より高値で取引できるようにします」
「ふむ。続けろ」
「税率の引き上げだけで帳尻を合わせるのではなく、領地そのものの価値を上げることで、税率を上げずに税収を増やす道を模索します。
その過程で働き手の技術も向上し、領民の誇りも守られます」
その言葉は、教科書の丸暗記ではなかった。
どこかで実際の事例を見てきたかのような、具体性を帯びていた。
ユウは横顔を見ながら、心の中で小さく頷く。
(この人は“命令する側”ではなく、“支える側の視点”をきちんと持っている)
教官はわずかに目を細め、満足げに言った。
「――いい答えだ。
今の二人の答えは、“同じ問題”を別々の角度から見たものと言える」
黒板の上に、二つの言葉が並ぶ。
“人の流れ”
“価値の創出”
「この二つは、これから先、何度も目にすることになる。
覚えておけ。王都にいる者も、地方にいる者も、逃れられん話だ」
講義室の空気が、ほんの少しだけ引き締まった。
⸻
授業が終わると、教室のざわめきが一気に広がった。
「やっぱりSクラスの二人は別格だな……」
「税の話なんて、正直眠くなると思っていたけれど、あそこまで話を広げられるとは」
「リリス様って、完璧なお飾りの淑女って印象だったけど……あの答えを聞くと、少し考えを改めないといけないわね」
そんな声が、あちこちから聞こえてくる。
ユウは教室の後方へ歩きながら、ふと斜め前を見る。
リリスは、教壇に軽く一礼をしてから出口へ向かっていた。
ティアが一歩下がった位置で、それに続く。
マリアが小声で囁いた。
「リリス様、やっぱりすごいですね。
あの場で、あれだけはっきりと考えを言えるなんて……」
「リリス様は、そういう方だよ。
“ちゃんと見れば分かる人”には、きちんと伝わる」
「……ユウ様は、最初からそう思っていらしたのですね」
マリアはそう言って、少しだけ柔らかい表情を浮かべた。
⸻
講義棟の廊下は、ちょうど授業の入れ替え時間で混み合っていた。
SとAの教室から出てきた生徒たちと、別の階から降りてきたBとCの生徒たちが交錯する。
それぞれの制服の色合いと家紋が、廊下の空気に微妙な差を生んでいた。
その中で、ひときわ目立つ一団があった。
アルベルト・ルクレイン。
第一王子。
Bクラスの仲間たちと共に階段を下りてきた彼は、以前よりも表情に落ち着きが出ていた。
「……陛下からの書簡を、ああいう形で返せたのは良かったな、殿下」
「まあな。あのまま受け取っていたら、ただのわがままに見えたかもしれない。
“今は学ぶ時期だからこそ、現場の声を聞きたい”って言えば、父上も少しは考えを変える」
取り巻きの一人と、そんな会話を交わしている。
かつての彼なら考えもしなかったであろう、丁寧な言い回しと配慮。
傍目には、“王族として成長している”と見える姿だった。
その隣には、柔らかな笑みを浮かべた少女が歩いている。
セレスティア・アークロイド。
明るい栗色の髪を肩のあたりでゆるく巻き、小さな花飾りを添えた令嬢。
Cクラスのはずなのに、その立ち振る舞いは、周囲の空気を読むのに長けていた。
「殿下が、ご自分の言葉で陛下に返書を書かれたとお聞きして、私はとても嬉しかったです。
きっと陛下も、“息子が自分の考えを持ち始めた”とお感じになられたと思います」
「ああ。……セレスティアが、あの文の言い回しを手伝ってくれたからだ」
「いえ、私はほんの少し、お手伝いをしただけですわ。
殿下の中にあるお考えを、言葉にするお手伝いをしただけです」
その会話は、通り過ぎる生徒たちの耳にも入る。
「最近、本当に殿下は変わったな」
「前よりも周りがよく見えている感じがする」
「セレスティア嬢がそばにいるからかもしれないな。
リリス様の時より……いや、あまり大きな声では言えないけれど」
そんな囁きが、廊下の隅で交わされる。
ユウは、その全体の流れを少し離れた位置から見ていた。
(……評価が変わりつつある)
アルベルトは、リリスと距離を取るようになってから、露骨に乱れる場面が減った。
代わりに、セレスティアと過ごす時間が増えたことで、会話の中に「配慮された言葉」が増えたのも事実だ。
それを見て、周囲はこう感じ始めている。
――今の殿下の方が、「良い王子」に近いのではないか、と。
ただ一つ、決定的な問題を除いて。
「――リリス」
アルベルトの視線が、ふと前方に向いた。
廊下の少し先で、リリスとティアがこちらへ歩いてくるところだった。
リリスはすぐに気づき、わずかに歩みを緩める。
そして、正式な婚約者としての礼を尽くすべく、静かに裾をつまみ腰を折った。
「殿下。本日の講義、お疲れさまでございます」
声は澄んでいて、礼儀として一切の欠けがない。
だが――
アルベルトは、完全に無視した。
視線が、リリスの肩越しに通り過ぎる。
耳に届いたはずの声を、意識的に拾わないかのように。
「それでだな、セレスティア。さっきの授業なんだが――」
婚約者からの挨拶など、元から存在しなかったかのように、隣の令嬢との会話を続ける。
セレスティアは、一瞬だけ申し訳なさそうに眉を寄せ――しかし、それをすぐに引っ込めた。
「さきほどの『物と人の流れ』の話ですね?
私も、あの内容はとても興味深いと思いました。
もしよろしければ、あとで共に復習を……」
「お前が一緒なら、退屈しなさそうだな」
笑い声。
取り巻きの軽いはやし立て。
そのすぐそばで、リリスは静かに頭を上げた。
表情は――いつも通りだった。
微笑も、目の形も、声の調子も。
外から見れば、何ひとつ変わらない。
ただ、ティアだけが知っている。
彼女の歩幅が、ほんの少しだけ短くなったこと。
指先に込める力が、わずかに強くなったことを。
「リリス様……」
小さく名を呼ぶと、リリスはすぐに顔を向けて、穏やかな声を返した。
「大丈夫よ、ティア。
殿下はお忙しいのでしょう。……今は特に」
その声には、痛みを直接示す言葉は、ひとつも含まれていない。
ただ、丁寧に織られた布の裏側に、小さな裂け目が生じ始めているような――そんな印象だけが、ティアの胸に残った。
⸻
少し離れた場所で、その一部始終を見ていたユウは、ゆっくりと呼吸を整えた。
(あからさまになってきたな)
最初の頃、アルベルトは少なくとも表面上は礼を保とうとしていた。
挨拶には返事をし、必要最低限の言葉を交わしていた。
それが今は――完全な無視に変わっている。
その変化は、周囲の目にも映っていた。
「最近、殿下とリリス様の距離……」
「公の場で、あそこまで露骨に無視されるなんて」
「でも殿下、前よりはずっと落ち着いているよな。
あのCクラスの令嬢と話している時の方が、よほど王子らしいというか……」
囁きは徐々に、「どちらが悪いのか」という方向へ傾いていく。
「もしかして、リリス様の方が殿下に合っていなかったのでは?」
「完璧すぎるのも、殿下には負担だったのかもしれないわね」
そんな声が、壁に反射して耳に届いた。
(……原因は、そこではないのに)
ユウは、胸の奥で静かに思う。
リリスは、期待された役割を理解し、その期待に応えようとしてきただけだ。
アルベルトも、“王子という肩書き”に押しつぶされそうになりながら、自分なりの逃げ場を求めただけかもしれない。
そこへ、セレスティアのような“理想的な聞き役”が現れた。
分かりやすく、自尊心を満たしてくれる存在。
「今の殿下の方が良い」と囁いてくれる周囲。
(この流れは、もう止まらない)
ただし――だからといって、放っておくつもりもなかった。
歩き出したリリスの方へ向かい、ユウはマリアとティアに視線で合図を送る。
「リリス様」
廊下の角を曲がったところで、声をかけた。
リリスは足を止め、振り返る。
先ほどと同じ、穏やかな微笑。
「ユウ様。先ほどは、お見事でした。
あの答えで、教官の方も『本気の講義』に切り替えられたように見えました」
「リリス様の答えがあったからだよ。
“人の流れ”だけでなく、“価値の創り方”に視線を向けたのは、リリス様だけだった」
それはお世辞ではなく、事実だけを述べた言葉だった。
リリスは一瞬だけ瞳を見開き、それからそっと視線を伏せる。
「……そう言っていただけるのは、少し救われる気持ちになります」
その一言には、さっきの廊下での出来事が、確かに影を落としていた。
「今日の内容は、きっと私たちの“これから”にも関わるはずです。
復習の場を設けたいのですが……もしお時間が許すようでしたら、ご一緒しませんか」
「もちろんですわ。
私も、きちんと整理しておきたいと思っていました」
短い会話。
踏み込みすぎない距離。
けれどその中で、確かにひとつだけ、形になりかけているものがあった。
それはまだ、名前を持たない。
恋と呼ぶには早く、友情と呼ぶには重い。
ただひたすら、「互いをよく見ている」という事実だけが、静かに積み重なっていく。
⸻
その日の夕刻。
寮の自室で、ユウは机に向かいながら、昼間の講義内容をノートにまとめていた。
扉のそばでは、マリアが紅茶の準備をし、ティアが遠慮がちにその手伝いをしている。
「人口の流れ……特産品……
リリス様の答え、やっぱりすごかったですね」
マリアがそう言うと、ユウはペンを止めずに答えた。
「そうだね。
あの人は、自分の役目を理解している。
“領地を守る者”が何を考えるべきか、よく知っている」
「……殿下は、どうでしょうか」
ティアがおそるおそる口を開いた。
「最近の殿下は、以前よりも周りを見ていらっしゃるようにも見えます。
けれど――リリス様への態度だけは……」
ユウはペンを置き、机の上の地図に視線を落とした。
「王太子殿下も、自分の居場所を探しているのだと思う。
ただ、その過程で、誰かを切り捨てていることに気づいていない」
そして、ほんの少しだけ言い方を柔らかくする。
「今の殿下を支えているのは、セレスティア嬢の“言葉”だ。
それ自体が悪いとは言わないよ。
ただ、その結果として――誰が傷ついているのかを見ようとしないなら、それは王族として危うい」
そこまで言ったところで、ユウは自分の口調が少し厳しくなりかけていることに気づき、息を吐いて和らげた。
「……まあ、僕がどうこう言える立場じゃないけれどね」
「いいえ」
マリアが、紅茶の入ったカップをそっと置きながら言う。
「ユウ様は、いずれ“そういう場所”に立たれる方です。
今から考えておかれるのは、きっと無駄にはなりません」
ティアも、小さく頷いた。
「私も……リリス様のそばにいる者として、見ておかなければならないと思います」
三人はしばし黙り、湯気の立つ紅茶の色を見つめた。
外では、学園の鐘がゆっくりと夕刻を告げている。
一ヶ月。
その短い時間で、王立高等学園の中には、見えないひびがいくつも走り始めていた。
婚約。
評価。
期待。
不満。
甘い囁きと、黙ったままの痛み。
それらが少しずつ積み重なり、やがて――誰も無関係ではいられない大きな亀裂へと繋がっていく。
だが、その時点でそれを正確に言葉にできる者は、まだ誰もいなかった。
ユウでさえも、ただ静かに「おそらく、このままでは良くない」と感じているだけだった。
それでも、彼は知っている。
今日のような小さなすれ違いが、いつしか決定的な瞬間へ変わることを。




