第三話 誰にも知られない習慣
第三話 誰にも知られない習慣
ユウ・ヴァルロード三歳。
今日も屋敷は、相変わらず静かだった。
長い廊下の窓から差し込む光が床を照らし、磨かれた木の表面に淡く反射している。その風景をぼんやり眺めながら、ユウは小さな足でゆっくりと歩いていた。
行き先は、誰にも告げていない。
調理場の裏、薪小屋の脇。
昨日と同じ場所だ。
誰かに呼び止められないか、視線が追ってきていないか、それを確かめるように一度だけ振り返る。廊下の先には誰もいない。
(……よし)
小さく息を吐き、目的の場所へ近づく。
そこにあるのは、燃え尽きた薪の残骸と、その周りに集められた細かな灰。昨日と同じ、乾いた匂い。昨日と同じ、少しざらついた感触。
ユウはしゃがみ込み、両手を灰の上に落とした。
ひんやりとして、指の隙間をすり抜ける感触が心地良い。
それを小さな布に取り、今日もまた、ゆっくりと腕を擦りはじめる。
ごし、ごし、と。
力は強くない。けれど丁寧に、同じ場所を何度もなぞる。
まるで砂で絵を描くような感覚だ。
大人が見ればただの遊びにしか見えないだろう。だがユウは、その感触の変化をきちんと感じ取っていた。
(……やっぱり違う)
昨日灰を使ったところと、何もしていないところ。
指でなぞったときの感覚が、明らかに異なっている。ざらつきが消え、わずかに滑らかになっている感触。
それが嬉しくて、ユウは何も言わずに黙々と作業を続けた。
首元、手首、指の間。
とくに指の間は、汗が残りやすい場所だ。そこを丁寧に擦っていく。
誰かに見せるわけではない。褒められるわけでもない。
けれど、この静かな時間が、不思議と心地良かった。
自分の意志で、自分を整える。それだけで、満たされる何かがあった。
◇
「ユウ様、どちらに行かれていたのですか?」
部屋に戻ったとき、世話係のメイドが少しだけ不安そうな顔で問いかけてきた。
「……おそと」
短く答え、視線を逸らす。
嘘ではない。外にいたのは事実だ。
「お怪我はありませんか?」
「だいじょうぶ」
その言葉だけで、メイドはほっとしたように微笑んだ。
「では、少しお着替えしましょう」
そう言って衣服を整えられるが、ユウは抵抗しなかった。
灰の痕跡は、すでにほとんど残っていない。水で流したあと、丁寧に拭いたのだから当然だ。
(問題なし)
心の中でそう確認しながら、小さく頷く。
◇
昼過ぎ。
庭の一角で、他の使用人の子どもたちが石を投げて遊んでいた。
「ユウ様も一緒に遊びませんか?」
声をかけられたが、彼は首を横に振る。
「今日は……やめておく」
理由は説明しない。
その代わり、少し離れた木陰に座り、自分の手を眺めた。
日差しに透ける指先が、以前よりも白く見える。気のせいか、それとも灰のおかげなのか。
(この感覚……悪くない)
完全に満足しているわけではないが、確実に前よりも「いい状態」だと分かる。
それが、幼いユウにとって十分な理由だった。
余計なことは考えない。ただ、続ければいい。
◇
夜。
湯殿で再び身体を流しながら、今日の“遊び”を思い返す。
灰を使うことに、恐れはなかった。ただ慎重に、丁寧に扱う。それだけだ。
湯から上がるとき、母がそっと頬に触れた。
「ユウ、本当にきれいな肌になってきたわね」
「……そう?」
「ええ。触ると、さらさらしているもの」
そう言って優しく笑う母に、ユウは小さく頷いた。
だが理由は言わない。
知らなくてもいい。
知らないほうがいい。
これは、自分だけの習慣でいいのだ。
◇
夜、寝台に横になりながら、天井を見つめる。
三歳の身体はすぐに眠くなるが、意識はまだはっきりしている。
今日も、自分だけの秘密を守った。
誰にも知られず、誰にも邪魔されない時間。
幼い体でできる、ささやかな抵抗であり、改善であり、選択だった。
(明日も……やろう)
それはもはや遊びではなく、小さな決まり事になりつつあった。
だが口には出さない。
ただ、静かに続けるだけ。
灰と、水と、布と、少しの時間。
三歳のユウは、今日もまた、「自分なりの清潔」を選び取っていた。
それがどれほど異質で、どれほど価値のある行為なのかを、理解しているのは、この世界でただ一人だけだった。
そしてその一人は、ゆっくりと目を閉じる。
柔らかな夜の闇に包まれながら。




