第二章 秩序の学園と崩れゆく誓約 第十話 変わる王の輪郭
第二章 秩序の学園と崩れゆく誓約 第十話 変わる王の輪郭
王立高等学園の空気が、わずかに変わり始めていた。
誰かが声高に語ったわけではない。
だが、生徒たちの視線の向け方、囁かれる言葉の温度、そして沈黙の質が、確実に「以前とは違う感触」を帯びている。
その変化の中心にいたのは、アルベルト・ルクレインだった。
かつての彼は、感情を表に出し、苛立ちを隠そうともしなかった。
しかし今は違う。
廊下での歩き方ひとつにしても、背筋はまっすぐに保たれ、視線は無駄に他者を威圧しない。
言葉遣いは以前より穏やかで、教師への応対も、学園の規律に即したものへと変わっていった。
「殿下、本日の課題についてですが……」
「うむ。君の意見も聞かせてほしい。次の方針を決めるうえで、参考にしたい」
声の調子は落ち着いており、以前のような苛立ちはない。
その様子を見ていた上級生のひとりが、小声で漏らす。
「最近の殿下……ずいぶん落ち着いていらっしゃるな」
「以前より、ずっと王子らしくなった気がする」
それは決してお世辞ではなかった。
彼の変化は確かな事実として周囲に伝わっていた。
だが、その隣には常に一人の少女がいた。
セレスティア・アークロイド。
彼女は決して前に出すぎない。
王太子の横に立つときも、半歩だけ引いた位置を守りながら、しかし決して距離を空けすぎることもない。
「殿下のお言葉は、とても穏やかでいらっしゃいますね。
以前よりも、ずっと安心してお話しできます」
その声音は柔らかいが、どこか計算された温もりを持っていた。
「そうか。……お前と話していると、余計な雑音が頭から消える気がする」
「それは、殿下が本来お持ちの落ち着きが戻っているだけですわ。
私はただ、そのお姿を邪魔しないようにしているだけです」
謙虚に見えるその言葉が、逆に彼の自尊心を静かに満たしていく。
(俺は、間違っていなかったのかもしれない)
そう思わせるには十分だった。
彼は知らない。
この距離感が「信頼」ではなく「依存」へと変わり始めていることに。
それでも、行動だけを見れば――
アルベルトは確実に“理想的な王子”の姿へ近づいていた。
公の場では礼を欠かさず、議論では冷静に意見を述べ、感情に流されることも少なくなっている。
ただひとつ、異なる点があるとすれば。
リリス・フォン・グレイハルトに対する態度だった。
――
「アルベルト殿下、おはようございます」
回廊で顔を合わせたリリスが、丁寧に頭を下げる。
以前であれば、多少ぎこちなくとも、彼は言葉を返していたはずだった。
だが今。
アルベルトは視線を逸らし、何も言わずにその横を通り過ぎた。
一瞬だけ、空気が凍る。
「……」
リリスは何も言わず、ただ静かに姿勢を戻し、歩みを続けた。
その様子を見ていた生徒が、ひそやかに声を落とす。
「殿下、最近リリス様には冷たいよな」
「でも、それ以外は前よりずっと落ち着いてないか?」
「そうなんだよな……前より、王太子らしい」
評価は自然に変わり始めていた。
「もしかして……リリス様が厳しすぎたんじゃないか?」
「殿下、本当はもっと自由でよかったのかもな」
そんな噂が、水に染みるように広がっていく。
リリスはそれらを聞いても、顔色ひとつ変えなかった。
感情を外に漏らすという選択を、最初からしていない。
(私の務めは、王国に恥をかかせないこと。
誰かの評価に揺らぐことではない)
そう心に刻んで、今日も静かに歩いていく。
一方で、セレスティアはそれを横目で見ながら、気づかれない程度に息を吐いた。
(……順調ですわ)
殿下は以前より落ち着いている。
周囲からの評価も上がっている。
そしてその変化の横には、必ず“自分の存在”がある。
(殿下は、私といるときが一番自然でいらっしゃる)
それを、少しずつ彼自身にも思わせていく。
焦らない。
強く迫らない。
ただ、“居心地の良さ”を積み重ねていくだけでいい。
そのやり方こそ、最も静かで、最も深く絡め取る方法だと知っていた。
アルベルトは微笑しながら彼女を見る。
「……セレスティア。お前が側にいると、俺は余計なことを考えずに済む」
「それは光栄ですわ。殿下が歩まれる道を、私はそっと支えたいだけです」
甘美で柔らかな言葉。
それは、彼にとって“真実の理解”のように感じられていた。
そして周囲から見れば――
王太子は変わった。
以前より、ずっと成熟している。
ずっと王にふさわしく見える。
だが、その変化の根にあるものを、まだ誰も正確に見抜いてはいなかった。
それが一人の少女への依存だということを。




