第二章 秩序の学園と崩れゆく誓約 第九話 距離という名の甘い檻
第二章 秩序の学園と崩れゆく誓約 第九話 距離という名の甘い檻
王立高等学園の回廊には、午後の光が静かに差し込んでいた。
高く設えられた窓から射す光は白い石床を淡く照らし、列柱の影を長く引き伸ばしている。
授業を終えた生徒たちが、それぞれの会話を交わしながら廊下を行き交う中――ひときわ空気の流れを変えている存在があった。
アルベルト・ルクレイン。
第一王子でありながら、今日この場では「Bクラスの生徒」に過ぎない立場。
だが、その肩には不思議なほど力が戻りつつあった。
「殿下、本日の講義はいかがでした?」
囁くような声。
耳元すれすれの距離で、やわらかな香りを纏った少女が微笑む。
セレスティア・アークロイド。
淡い栗色の髪を揺らしながら、周囲に配慮するように、しかし意図的に“近すぎる位置”で歩調を合わせていた。
「……税率の再編成だの、物流への波及だの。ややこしい話ばかりだがな」
アルベルトはそう答えながらも、口元はどこか緩んでいる。
「ですが殿下は、とても真剣にお聞きになっていましたわ。
私は、それがとても立派だと感じました」
「当然だろう。俺は王になる人間だ」
その返答には、以前の焦りや苛立ちはなかった。
代わりに滲んでいたのは、自信というより――“肯定されている実感”だった。
「ええ、ええ。ですからこそ……今日の殿下は、とても輝いていらしたのです」
セレスティアは言葉を選ぶように、けれど間を与えすぎぬタイミングで微笑む。
視線はまっすぐ、逃げ場なく、しかし押しつけがましくはない角度で。
まるで認めるためにそこにいるかのような在り方だった。
アルベルトの歩みは、自然とゆっくりになる。
「……そうか。お前には、そう見えたか」
「はい。私は、偽りを申しません。
殿下がどのようなお方か、どうしても知りたくなってしまったのです」
自尊心をくすぐるその言葉は、決して露骨な賛美ではない。
“あなた自身を見たい”という響きに変換されていた。
それが、どれほど危うい甘さを持っているかを――
アルベルトは、気づく由もない。
廊下の少し先。
反対側を進んでいたリリス・フォン・グレイハルトが、ふと足を止めた。
「……アルベルト殿下」
呼びかけは、きちんとした距離と礼節を備えたものだった。
婚約者として当然の挨拶であり、最低限の敬意でもある。
だが。
アルベルトは――振り返らなかった。
視線すら動かさず、セレスティアとの会話を続ける。
「今日の講義も、次回で具体的な租税配分の算出へ進むそうだ。ああいう実務的な話は嫌いじゃない」
「まぁ……殿下はやはり“王”としての感覚を自然に身につけておられるのですね」
まるで彼が“ふさわしくない場所に追いやられている”かのような言い方。
それが、無意識のうちに心の奥を補強していく。
リリスはその背を静かに見つめていた。
表情は変わらない。
だが視線の奥には、僅かな違和感が宿っている。
いつものように声をかけ、返事を待つ――そんな関係ではなくなっていることだけは、はっきりと理解していた。
だが、追いかけはしない。
呼び止めもしない。
それが彼女の矜持だった。
アルベルトは、完全にその存在を意識の外へ追いやったまま、セレスティアと並んで歩き続ける。
「殿下……」
「どうした?」
「もしも、誰も殿下を信じなくなってしまったとしても――私は、殿下の価値を疑ったりはいたしません」
ふっと、柔らかな声が落ちる。
「自分を否定する者が周囲に増えるほど、本当に見ている者は一人でも十分だと、私は思うのです」
それは、孤独を埋めるための極めて効果的な言葉だった。
「……お前は、変わっているな」
「そうでしょうか?」
「多くの人間は、俺の立場ばかりを見る。
だが、お前は俺そのものを見ている」
その一言に、セレスティアはわずかに嬉しそうな色を浮かべた。
「それが自然なことだと思います。
私は、アルベルト殿下という“ひとりの方”に興味があるだけですから」
その距離は、誰よりも近く。
しかし自覚させぬ軽さで、じわじわと入り込む。
アルベルトの中で、ある感情が膨らんでいく。
――理解してくれるのは、この娘だけだ。
――リリスは形式的で、距離を保つばかりだ。
――だがセレスティアは、違う。
それを彼は「恋」だと信じ始めていた。
「……なあ、セレスティア」
「はい、殿下」
「お前と話していると、不思議と気分が軽くなる。
無理に何かを背負わなくてもいいと、そう思える」
それは美しい言葉だった。
しかし同時に、責任から目を逸らしている証でもあった。
セレスティアは、どこか切なげに微笑む。
「それでよろしいのです。
殿下は、誰かに縛られるためではなく、愛されるために生まれてこられたのですから」
その言葉に、アルベルトは深く息を吐いた。
胸の奥に感じていた焦りや比較、劣等感は、いつの間にか薄れていた。
代わりにあるのは、“認められているという甘さ”だけ。
それが、どれほど危険な麻薬であるかを――
彼はまだ、知らない。
遠くで、静かに歩くリリスの背中。
決してこちらを振り返ることなく、王族としての姿勢を保ったまま去っていく姿。
だがアルベルトの視線は、追わなかった。
「……俺は、間違っていない」
ぽつりと漏れた言葉に、セレスティアはそっと頷く。
「はい。殿下は、ご自身の心に正直であればよろしいのです」
それは慰めでも、導きでもない。
ただ「依存の扉」を開かせるための、やさしい鍵だった。
こうして――
王族としての義務ではなく、感情による快楽の方へと、アルベルトは静かに傾いていく。
それを彼は「真実の愛」と呼びはじめた。
だが、その道の先に待つものが何かを知る者は、まだ誰もいなかった。




