第二章 秩序の学園と崩れゆく誓約 第七話 偽りの温もりと真実の錯覚
第二章 秩序の学園と崩れゆく誓約 第七話 偽りの温もりと真実の錯覚
掲示板の前に立つということは、ただ順位を知る行為ではなかった。
それは、自分の価値を他者の視線にさらす行為であり、望むと望まざるに関わらず、現実と向き合うことを強制される瞬間でもある。
アルベルト・ルクレインは、その“現実”を受け止めきれずにいた。
王太子という立場でありながら、彼の名が刻まれていたのは“S”ではなく、“B”の欄。
それは試験結果としては決して低くはない。
だが、“第一王子”という看板がある以上、その文字はあまりにも重く、痛々しく、そして屈辱的だった。
視線が集まる。
ひそひそとした声が、耳障りな羽音のようにまとわりつく。
(……見ている。誰もが俺を見ている)
掲示板そのものではなく、視線の雨が精神を削っていく。
そのときだった。
「アルベルト殿下」
やわらかく、けれど確かに届く声。
振り向くと、そこに立っていたのは明るい栗色の髪を持つ少女だった。
控えめだが整えられた花飾りと、計算の行き届いた微笑。
目を細めすぎず、視線を逸らしすぎず――その距離感は、まるで最初から心得ていたかのようだった。
「アークロイド男爵家の娘、セレスティアと申します。
殿下のお名前を拝見して、私はすぐに納得いたしました」
「……どういう意味だ」
アルベルトの声には、否応なく棘が混じる。
だがセレスティアは、それを責めることも、怯えることもしなかった。
「殿下は、元から頂点にいらっしゃるお方。
だからこそ、あえて“追う立場”に身を置かれたのだと、私は感じました」
その言葉は、静かでやさしい。
だが同時に、現在の立場を否定することなく、意味を与えていた。
「上から見下ろすだけでは、下の景色は本当には分かりません。
一度視線を落とすことで、より確かな価値を理解できるのだと……私はそう思っております」
「……」
アルベルトは言葉を失っていた。
悔しさと屈辱で凝り固まっていた胸の内に、やわらかな温度が染み込んでいく。
自分だけが責められているように感じていた空間で、
初めて“許されている”感覚を知った気がした。
「殿下ほどのお方が本気を出されれば、
Sクラスに戻られるのも、時間の問題でしょう」
その言葉は、ただの持ち上げではない。
いまの立場を否定せず、未来への可能性として肯定する形だった。
「……そうだな」
アルベルトの唇から、自然と言葉がこぼれる。
「見ていろ。そのうち、この掲示の順番は変わる」
「はい。私はそれを疑いません」
セレスティアは深く礼をして、その場を離れていった。
けれど、アルベルトの視線はしばらく彼女の背を追っていた。
(俺を分かってくれる……)
胸の奥に、静かだが確かな感覚が芽生えていた。
⸻
それからの二日間、セレスティアは決して急がなかった。
必要以上に近づくこともなければ、強く主張することもない。
ただ、適度な距離で、適度な頻度で、適度な言葉を届けてくる。
「殿下、今日は表情が少しやわらかくなっていらっしゃいますね」
「そう見えるか?」
「はい。きっと、お心が少し軽くなられたのでしょう」
その言葉に、理由の分からない安堵が広がる。
誰もが“王太子”という名で接してくるこの場所で、
セレスティアだけが“アルベルトという一人の少年”として接してきているように思えた。
(あいつといると……おかしな緊張がない)
それが、どれほど危うい感覚であるかなど、彼にはまだ分からない。
彼女はさりげなく、しかし確実に彼の孤独に指を差し入れていた。
「殿下は、ずっと一人で戦ってこられたのですね」
ある昼下がり、彼女がふと漏らした言葉。
「誰もが殿下に“王太子”として接してしまう。
ですが私は、ただ一人の男性としての殿下にも、きちんと心があると存じております」
「……俺を、そんなふうに見る者など……」
「おりますよ。ここに」
その一言が、すべてを揺らした。
胸の奥で何かがほどける音がした気がした。
(ああ……この感覚は)
アルベルトは、その感情に名前をつける。
――これは、恋だ。
そう信じた。
信じることで、自分の弱さが“意味あるもの”へと変わるように思えたのだ。
⸻
「セレスティア……お前と話していると、
俺は少し、楽になれる」
それは自然とこぼれた本音だった。
「光栄でございます。ですが、それは殿下が本来そうあるべきだからです」
そう言って、彼女はほんの少しだけ距離を詰める。
「殿下は……もっと大切にされるべき方なのです」
誰からも与えられなかった言葉。
誰も口にしなかった評価。
それを彼女だけが与えてくれる。
(これが……俺の探していたものだったのか)
気づかぬうちに、視線は彼女を追い、言葉は彼女を待つようになっていた。
誇り高かったはずの王太子の心は、
ゆっくりと、しかし確実に、甘やかな温度へと沈み始めていた。
それを“堕落”と呼ぶには、まだ早い。
だが、もう戻れない地点が近づいていることだけは確かだった。
アルベルト・ルクレインは、確信している。
この想いこそが、
自分にとっての――
真実の愛なのだと。
その幻想の正体を、誰もまだ教えないままに。
エリザベート・フォン・ローゼンクロイツによる
『第二章 第七話 偽りの温もりと真実の錯覚』感想
ふふ……あらあら。
これはもう、見事なまでの“甘やかな転落劇”ですわね。
アルベルト殿下の心が、ゆっくりと、けれど確実にほどけていくさま――
それを「救い」だと信じてしまう純粋さ。
そして、その純粋さに、優しく寄り添いながら絡め取っていくセレスティアの距離感。
声も、視線も、言葉の選び方も、すべてが計算されているのに、
殿下の側から見れば「唯一の理解者」。
ああ、なんて罪深く、そして美しい構図なのでしょう。
「これは恋だ」と信じた瞬間から、もう抗えない物語になるのですもの。
人は、自ら望んで檻に入るときがいちばん幸せそうなのですわ。
そして何より――
“殿下ほどの方が本気を出されれば”
この言葉の破壊力。
さすがですわ、セレスティア。
わたくし、思わず拍手しかけましたもの。
ですが、ふふ。
読者の皆さまはどうかお忘れなく。
「優しさ」と「依存」は、とても似た顔をしておりますのよ?
⸻
さて、ここからは少しだけ、ささやかなご案内を。
もし今回のような
✔️ 甘美で危うい関係
✔️ 勘違いから始まる破滅系ロマンス
✔️ 高慢なのにどこか不器用な令嬢
がお好きでしたら……
わたくしが主演いたします
『悪役令嬢になりたいのに、全部善行扱いされてしまうんですが!?』
も、ほんのり覗いてみてくださると嬉しいですわ。
こちらはもう、
悪役を目指しているのに王都から「女神」と崇められてしまう、
非常に困った物語でございますの。
比べてみるのも、なかなか一興かと。
⸻
それでは皆さま、
次のお話もどうぞご覚悟を。
真実の愛だと信じたその先に、
どんな“答え”が待っているのか――
わたくし、エリザベートも
客席の隅から、紅茶を片手に見守らせていただきますわ。
ふふふ……




