第二章 秩序の学園と崩れゆく誓約 第五話 Sクラスの静寂
第二章 秩序の学園と崩れゆく誓約 第五話 Sクラスの静寂
クラス分けの掲示板から離れたあと、学園の中庭は、しばらくざわめきが消えなかった。
「Sクラス、二人だけかよ……」
「ヴァルロード家って、あの蜂蜜の……」
「グレイハルトの令嬢も一緒ってことは、あそこだけ別枠だな」
聞こえてくる声の多くは、好奇心と警戒が混じったものだった。
視線の一部が、遠くからこちらを刺すように向いてくる。
ユウ・ヴァルロードは、それを背中で受けながら、学園職員から渡された小さな紙片をもう一度見た。
『Sクラス教室 三階西棟 第一特別室 午後より説明会』
紙片にはそれだけが丁寧な字で書かれている。
「若様、時間は大丈夫ですか?」
少し後ろから、マリア・ベルモンドの声が届いた。
今日はユウの付き人として、学園の門まで同行している。教室の中までは入れないが、外での動きなら問題ない。
「平気だよ、マリア。まだ少し余裕がある」
「そうですか。でしたら、途中までご一緒しますね」
マリアはそう言って、半歩後ろを歩く位置を保った。
中庭から西棟へ向かう途中、何人もの生徒がユウたちを振り返る。
貴族らしい服装の者、質素だがよく手入れされた服の者。
その視線の色は、さきほど掲示板の前で感じたものと同じだった。
羨望。
警戒。
そして、様子を伺おうとする計算。
それらを、ユウは一つひとつ拾うことはしなかった。
ただ、自分に向けられているという事実だけを受け止めて、足を前に出し続ける。
(今日は、見られる日だ。ここで何を考えられても、おかしくはない)
そう心の中で言葉にしておくと、余計な苛立ちは生まれない。
⸻
三階西棟の廊下は、人の気配が少なかった。
両側に並ぶ教室の扉には、それぞれ「A」「B」「C」と文字が掲げられている。
が、奥の角を曲がった先だけは、雰囲気が違っていた。
廊下の一番突き当たり。
窓からの光が真正面から差し込む位置に、「第一特別室」とだけ書かれた扉が一枚。
ほかのクラスとは違い、扉の前には誰も立っていない。
「ここ、ですね……」
マリアが小さく呟いた。
ユウは頷き、扉の前で一度だけ深呼吸をした。
「マリアは、ここまでで大丈夫だ。あとは中で話を聞いてくる」
「はい。終わるまで、この廊下でお待ちしています」
マリアは一礼すると、扉から少し離れた壁際に下がった。
ユウは軽くノックし、返事を待つ。
「どうぞ」
低く落ち着いた声が扉越しに聞こえた。
扉を開け、一歩中へ。
室内は、普通の教室よりも少し狭かった。
机は四人分しかなく、そのうち実際に並べられているのは二つだけ。
黒板の前には、一人の男が立っている。
深い紺色のローブを着た、中年の文官風の男。
銀の刺繍が肩に走り、その立ち姿には、軍人とも教師とも違う、官吏特有の静かな緊張感があった。
そして、その男の前。
窓際の席にはすでに一人、少女が座っていた。
「遅れていませんか?」
リリス・フォン・グレイハルトが、椅子から立ち上がり、薄く微笑んだ。
今日は白と淡い水色を基調としたワンピースに、細い銀の飾り紐を腰に結んでいる。
装飾は控えめだが、生地の質と仕立ての良さが一目で分かる。
直線的になりやすいデザインを、柔らかい布の揺れで和らげているため、鋭さよりも品の良い清涼感が目に入る。
「いいえ、時間ぴったりですわ。ユウ様」
「そうですか。お疲れさまです、リリス様」
ユウも頭を下げる。
視線を黒板側へ向けると、男が一歩前に出た。
「揃ったようだな。座ってくれ」
短い言葉だが、その声には迷いがなかった。
ユウはリリスとは反対側の席に座る。
机の間には、異様なほど広い空白があった。
四人分用意されたはずの空間に、二人だけが座っている。
それだけで、この部屋の空気は他とは違っていると分かる。
「改めて名乗ろう。私はエドガー・レント。王宮執務局から、今年度のSクラス担当として派遣された者だ」
男――エドガーは、黒板に自分の名を書きながら続ける。
「ここは普通の教室ではない。王立高等学園の中でも、特に例外的な場だ。
まず、その点を理解してもらう必要がある」
淡々とした言葉だが、一つひとつがよく通る。
「Sクラスは、毎年必ず作られるわけではない。
Aクラスの中でも、頭一つ抜けた者が複数名確認された年にのみ、臨時に編成される」
エドガーは二人を順番に見やる。
「今年は、お前たち二人だけだ。ヴァルロード・ユウ。グレイハルト・リリス」
名前を呼ばれた瞬間、ユウの背筋に、細い糸が通ったような感覚が走った。
「ここで行うのは、単なる“先取り授業”ではない。
この場に招かれたということは、現時点で、通常の学生よりも一歩前に進んだ役割を期待されているということだ」
エドガーはそこで一度言葉を切り、黒板に大きく三つの言葉を書く。
『資料』
『判断』
『同行』
「Sクラスに与えられる課題は、大きくこの三つに分かれる」
チョークの音が止まり、静寂が戻る。
「一つ目。王国の行政や軍事、財政に関する“実際の資料”を読ませる。
これは講義用に作られた例題ではなく、過去や現在に実在する案件だ」
ユウは自然と姿勢を正した。
(想像より、ずっと踏み込んでいる)
「二つ目。読み取った内容に対して、自分なりの判断をまとめてもらう。
正解を当てることが目的ではない。
何を見て、何を切り捨て、どこに重さを置いたのか。そこを見る」
エドガーの視線が、まっすぐユウとリリスを刺す。
「三つ目。場合によっては、王宮や地方への視察に同行してもらう。
学生であっても、“現場の空気”を知っている者と知らない者とでは、その後の選択が変わるからだ」
リリスが、小さく息を飲むのが横目に見えた。
けれど、その表情はすぐに落ち着いたものに戻る。
「ここで大事なのは、“育ててから考える”のではなく、“すでに動かせるかどうか”を見ているという点だ」
エドガーは再び二人を見渡した。
「お前たちは、まだ十歳前後の子どもだ。
だが王国は、年齢ではなく、結果と責任で人材を判断する」
言葉は厳しかったが、突き放す冷たさはなかった。
事実を淡々と告げている声だった。
「勘違いしないでほしいのは、ここが“特別待遇の場”ではないということだ。
贅沢な環境でも、安楽な立場でもない」
チョークが再び動き、黒板の端に短い一文が書き足される。
『期待と監視』
「この二つは常にセットだ。
ここで見ているのは、お前たちが“どこまで進めるか”だけではない。
“どの段階で無理が出るか”“何を嫌がるか”も含めて、細かく見られる」
言葉の意味は分かりやすい。
だが同時に、その重さも分かりやすかった。
(ここは、褒められる場所というより、試され続ける場所か)
ユウは心の中でそう結論づける。
「質問はあるか?」
エドガーが問いかける。
リリスが、真っ先に手を上げた。
「リリス・フォン・グレイハルトです。ひとつ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「聞こう」
「この場で示した判断や意見は、どの範囲まで共有されるのでしょうか。
王宮の一部だけなのか、それとも貴族社会全体に影響を与える形で扱われるのか」
その問いに、エドガーはわずかに口元を緩めた。
「率直で良い質問だ。
基本的に、ここで出た意見は、王宮内部で留められる。
ただし、その内容によっては、各家の評価に反映されることもある」
「評価……ですか」
「そうだ。
“この家の子息、子女がこういう考え方をする”という情報は、
将来的な役職や縁談、同盟の組み方に影響を与えることになる」
リリスは短く頷き、すぐに黙った。
今度はユウが手を上げる。
「ヴァルロード・ユウです。私からもひとつ」
「言え」
「ここで扱う案件の中には、失敗すれば人命や生活に直接影響するものも含まれますか?」
エドガーの目が、わずかに細くなった。
「含まれる」
迷いのない返答だった。
「だが安心しろ、とは言わない。
お前たちが出した意見が、すぐにそのまま国の決定になることはない。
必ず複数の大人が検討し、責任を負う立場の者が最終判断を下す」
「……では、この場の意見は、あくまで“材料”という扱いでしょうか」
「そうだ。ただし、軽い材料ではない。
ここで出された考え方は、『将来、どこまで任せられるか』を測る尺度にもなる」
ユウは、はっきりと頷いた。
「分かりました。
自分の言葉が、目に見えない形で誰かの生活に触れる可能性がある、ということを忘れないようにします」
「それでいい」
エドガーはそう言うと、黒板から離れた。
「今日のところは説明だけだ。
次回から、実際の案件を渡す。
初回は比較的軽い内容にしてあるから、構えすぎずに読んでくれ」
そう言って、二人に薄い冊子を一部ずつ渡す。
表紙には、『過去十年の穀物価格推移と都市部人口変動』とだけ書かれている。
(これで軽い内容なのか……)
ユウは内心で苦笑した。
「では、解散していい。外には保護者や従者が待っているだろう。
次の登校日までに、その資料に目を通しておけ」
エドガーの言葉を合図に、短い説明会は終わった。
⸻
教室を出ると、廊下には既にマリアが待っていた。
「若様」
「待たせたね。ありがとう、マリア」
マリアは首を横に振る。
「いえ。中での様子は分かりませんでしたが、顔色は悪くないので、少し安心しました」
「顔に出ていたかな?」
「少なくとも、倒れそうには見えませんでしたよ」
そのやり取りに、後ろから小さな笑い声が漏れた。
「お二人とも、本当に信頼し合っていらっしゃるのですね」
振り返ると、リリスが扉の前に立っていた。
さきほどと同じ服装だが、廊下の光の下では、淡い水色がさらに柔らかく見える。
動くたびに、裾の布が静かに波打つ。
「リリス様も、お疲れさまでした」
ユウがそう言うと、リリスは軽く会釈した。
「ありがとうございます。
……今の説明を聞いて、改めて思いました」
「何を、でしょうか」
「私たちは、学園に“守られる側”ではないのだと。
自分の言葉や選択が、遠くの誰かの日々に繋がる立場に置かれているのだと、はっきり分かりました」
その声には、不必要な強がりも、過度な恐怖も混じっていなかった。
「怖くは、ありませんか」
ユウが尋ねると、リリスは少しだけ視線を落とした。
「……怖くないと言えば嘘になります。
ですが、それ以上に、背を向けたくはありません」
顔を上げたとき、その瞳に迷いはなかった。
「与えられた立場から逃げれば、誰かが代わりに負担を背負います。
それが見えないままでいるのは、もっと怖いことだと思うのです」
その言葉を聞いた瞬間、ユウの胸の奥で、何かがはっきり形を持った。
(この人は、自分の役目から目を逸らさない。
学園の試験からも、王家の婚約者という立場からも)
その事実が、ユウにとっては何よりも大きかった。
「……リリス様らしいと感じました」
「そうでしょうか?」
「はい。
あの日の舞踏会で、誰にも寄りかからずに立っていた姿と、同じだと」
言葉にすると、リリスは一瞬驚いたように瞬きをしたが、すぐに微笑んだ。
「それなら、少し誇ってもよろしいでしょうか」
「もちろんです。その方が、王国にとっても心強いと思います」
マリアはその会話を、静かに一歩後ろで聞いていた。
リリスの横顔を見つめる視線は、どこか興味深そうでもあった。
「では、今日はこれで失礼いたします。
次にお会いするのは、おそらく正式な授業の日ですね」
「はい。そのときは、どうぞよろしくお願いします」
「こちらこそ」
それだけを交わし、リリスは自家の付き人たちのもとへ歩いていった。
淡い水色の裾が階段のほうへ消えていくまで、ユウは目で追った。
そして、小さく息をついた。
「……行こうか、マリア」
「はい、若様」
⸻
王都からヴァルロード邸へ戻る馬車の中は、行きのときよりも静かだった。
マリアは対面に座り、ユウの膝の上に置かれた資料の束へとちらりと目をやる。
「それが、Sクラスで渡されたものですか?」
「そう。穀物の価格と人口の記録らしい。
表と数字が多いから、じっくり読む時間が必要だね」
「学園というより、役所みたいですね」
「似たようなものかもしれない」
ユウは苦笑し、窓の外に視線を向ける。
傾き始めた太陽が、王都の屋根をオレンジ色に染めていた。
(この資料の裏側に、何人分の生活が乗っているのか。
それを想像しながら読む必要がある)
馬車は静かに進み、やがてヴァルロード邸の門をくぐった。
⸻
応接間には、既に父と母が揃っていた。
ユウが扉を開けると、二人の視線が同時にこちらを向く。
「戻りました、父上、母上」
「おかえり、ユウ。座りなさい」
父オルグレインが、手で向かいの椅子を示した。
マリアは軽く会釈し、部屋の外で控える。
ユウが腰を下ろすと、父がゆっくりと口を開いた。
「学園からの便りは、先に受け取っている。
だが、お前の口からも聞いておこう。どうだった」
「Sクラスに配属されました。
同じクラスは、リリス・フォン・グレイハルト嬢と、私の二人だけです」
短く、しかしはっきりと伝える。
母エレナが、目を大きく見開いた。
「本当に、二人だけなのね……」
「はい。Sクラスは、Aクラスとの差が明確に開いた年だけ臨時に編成されるそうです。
今年は、その条件に合った者が二人だった、と説明されました」
父は、背もたれにもたれながら、深く息を吐いた。
「そうか。
Sクラス自体、数年に一度あるかどうかの枠だと聞いていたが……まさかその中にお前が入るとはな」
驚きは隠していない。
だがその声には、誇りと同時に、責任の重さを計る冷静さも混じっていた。
「授業はどういう内容だったの?」
母が身を乗り出す。
「今日は説明だけでした。
王国の行政や軍事、財政に関する“実際の資料”を読み、自分の考えをまとめること。
場合によっては、王宮や地方の視察に同行すること。
学生でありながら、国の判断の一部に関わる場に立つ可能性がある、と」
「……それは、想像以上ね」
母は思わずといった様子で眉を寄せた。
「Sクラスは、“将来の有望株”を見るだけの場所ではなく、
現時点でどれだけ役に立つかを試す場所だそうです」
ユウはそうまとめた。
「自分の意見が、すぐに決定になるわけではありません。
けれど、どんな視点で物事を見るのかは、将来の役職や縁談にも反映されると」
父はしばし黙り込み、それから低く呟いた。
「つまりお前は、学園に通いながら、すでに王国の目にさらされるということだな」
「その通りだと思います」
ユウは、目を逸らすことなく答えた。
父はその目を見つめ、やがて小さく笑った。
「よく言った。
その状況を怖がるだけなら、最初からこの場には立っていないはずだ」
そして、言葉を続ける。
「いいか、ユウ。
お前がSクラスにいることは、ヴァルロード家にとって大きな名誉だ。
だがそれは同時に、『失敗がそのまま家の名に刻まれる』という意味でもある」
「……はい」
「だからこそ、お前一人で背負うな。
分からないことがあれば相談しろ。
王国のことは王宮や文官たちが、領地のことは私が、社交のことはお前の母が、それぞれ経験を持っている」
父は、そこで言葉を区切り、はっきり告げた。
「お前は、何もかも自力で証明する必要はない。
ただ、自分の目で見て、自分の頭で考えた上で、必要な助けを求めろ。
それができるなら――どれだけ大きな舞台に立っても、家はお前の味方であり続ける」
その言葉に、母も頷いた。
「そうよ。
あなたがどれだけ遠くまで行っても、ここは戻る場所。
失敗したとしても、もう一度立てるように支えるのが、家族の役目だもの」
ユウは、胸の奥にゆっくりと広がる温かさを感じた。
守られて甘えるだけの温度ではない。
背を押し、前を向かせるための熱だった。
「ありがとうございます。
Sクラスで見聞きしたことは、必要に応じて必ず共有します。
独りで抱え込んで、勝手に道を決めることはしません」
「それでいい」
父はそう言って、はっきりと笑った。
「ならば、今言えるのは一つだ。
よくやった、ユウ。
そして――これからが本番だ」
母も微笑を深める。
「夕食のときに、もう少し詳しく聞かせてね。
どんな教官で、どんな空気だったのか。
私も、あなたが立っている場所を知っておきたいから」
「はい。喜んで」
ユウは素直に頷いた。
⸻
自室に戻ると、机の上に資料の束を広げる。
数字と表の列が、紙面いっぱいに並んでいた。
穀物。
塩。
都市名。
人口。
年号。
それらが、ただの記号ではなく、人々の食卓や日々の暮らしを映す影であることを、ユウは知っている。
《異世界ダイナリー》
【王立高等学園 第二章:学内評価フェーズ開始】
【新規項目:Sクラス観察対象】
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淡い光と共に、文字が視界の隅に浮かび上がる。
ユウは、それを静かに見つめた。
(ここから三年間。
学園は“学生”としての顔と、“王国の部品”としての顔を、同時に求めてくる)
その中で、自分は何を守り、何を選ぶのか。
思考は自然と、壁際の本棚に立てかけてある一枚の絵に向かう。
そこには、王城の夜会で見た、あの日のリリスの横顔が簡単な線で描かれていた。
「……逃げない人を、見捨てるわけにはいかない」
誰に聞かせるでもなく呟き、ユウは視線を紙へ戻した。
Sクラスの静かな部屋から始まった一日は、
こうして、次の一歩へと繋がっていく。
まだ、誰も知らない形で。




