第二章 秩序の学園と崩れゆく誓約 第四話 階級なき掲示板
第二章 秩序の学園と崩れゆく誓約 第四話 階級なき掲示板
王立高等学園の中庭は、朝から人であふれていた。
石畳の広場の中央に、木製の掲示板が一枚。
そこに、入学試験の結果とクラス分けが張り出される――ただそれだけの場面のはずなのに、集まった人々の視線と声が重なって、空気には妙な熱がこもっていた。
貴族の少年少女、質素な服装の平民、付き従う従者たち。
本来なら交わらない立場の者たちが、今だけは同じ一点を見つめている。
「人、多いですね……若様」
木陰から様子を眺めながら、マリア・ベルモンドが小さな声でつぶやいた。
薄い茶色の髪をきちんとまとめ、動きやすいメイド服に身を包んだ姿は、派手さこそないものの、よく手入れされた光沢のある髪と整った所作が、自然と目を引いている。
「まあ、人生が一度ひっくり返るかもしれない日だからね」
ユウ・ヴァルロードは、わずかに口元をゆるめて答えた。
ここでの結果が、その後の三年間――ひいては、成人後の立場にまで影響する。
緊張していない者を探すほうが難しい。
「行こうか。
のんびりしていると、逆に目立ちそうだ」
「承知しました、若様」
二人は木陰を離れ、人の輪の方へ歩き出した。
⸻
掲示板の周りは、すでに人垣でいっぱいだった。
誰かが背伸びをし、誰かが肩越しに覗き込み、誰かは結果を見て声を上げる。
少しずつ、噂の形をした言葉が、場のあちこちで生まれ始めていた。
ユウは、近くの少年に軽く一礼してから声をかける。
「すみません、少しだけ前を通らせてもらってもいいですか」
「あ、ど、どうぞ……」
押しの強い言い方ではない。
だが、きちんとした響きのある声と、ヴァルロード伯爵家の紋章が入った服装とが相まって、自然と道が開いていく。
マリアも若干の距離を保ちながら続き、二人は最前列まで出た。
板の最上段、“S”の欄。
そこに並んだのは、二つの名前だけだった。
ユウ・ヴァルロード
リリス・フォン・グレイハルト
「……ありましたね」
マリアが、少し誇らしそうに息を漏らす。
「若様と、リリス様だけ……」
「そうみたいだね」
声は淡々としていたが、ユウの胸の中には、じわりとした実感が広がっていた。
名前が並ぶ、という事実。
それは単なる順位以上に、周囲への“印象”を強く形作る。
すぐそばから、ささやき声が聞こえてきた。
「Sクラス、二人だけか……」
「公爵家のグレイハルト令嬢と、ヴァルロード伯爵家の子息」
「王太子殿下は……?」
視線が、掲示の少し下へと流れていく。
“B”の欄。
アルベルト・ルクレイン。
「……殿下がBなのか?」
「本当に? 見間違いじゃ……」
動揺を含んだ声が、あちこちで弾けるようにこぼれた。
それは驚きであり、戸惑いであり、そして少しの好奇心だった。
⸻
「若様、おめでとうございます」
マリアが、改めて小さく頭を下げる。
「これまでの毎日の鍛錬を、ずっと見てきました。
こうして結果になったのが、私も嬉しいです」
「ありがとう。
でも、ここまで来られたのは、支えてくれた人たちがいたからだよ。君も含めて、ね」
ユウの言葉は大げさではない。
ただ事実を、少しだけ照れを混ぜて口にしているだけだった。
マリアの頬が、わずかに赤くなる。
「……そう言っていただけると、報われます」
《異世界ダイナリー》
【評価帯:最上位確定】
【周囲視線:集中/好奇/警戒 混在】
(ここで変な態度を取ると、一気にやりづらくなるな)
そんな冷静な計算を頭の隅で回していたとき――
「おはようございます、ユウ様」
澄んだ声が、横からかかった。
振り向くと、そこにリリス・フォン・グレイハルトが立っていた。
今日は学園制服ではなく、公爵家の令嬢としてふさわしい外出着だ。
淡いミルクティー色のドレスに、肩口から胸元にかけて繊細なレースが重ねられている。
腰のあたりでリボンのように結ばれた紺色のサッシュが、全体をきゅっと引き締めていた。
銀糸のような髪は、後ろでまとめられ、耳の後ろから流れるように肩へ落ちている。
光を受けるたびに、一本一本が細い光の線になって揺れ、彼女の横顔を柔らかく縁取っていた。
アクセサリーは最小限。
それでも、瞳の色と合わせた淡い青のペンダントが、彼女がこの場の「主役側」の人間であることを、さりげなく語っている。
「おはようございます、リリス様」
ユウも一礼を返す。
「Sクラスでご一緒できるようで、光栄です」
「私のほうこそ。
試験のとき、ユウ様の剣を拝見しておりました。
あれを見たあとでは、自分がSに入れたことのほうが、少し不思議に思えるくらいです」
「そんなことはありません。
リリス様の魔法は、とても安定していました。
あれなら、誰が見ても納得すると思います」
互いを持ち上げすぎない、けれどちゃんと敬意のこもったやり取り。
それがごく自然に交わされるあたり、二人の「育ち」がよく似ていることを感じさせた。
そのとき、リリスの視線がふとマリアへと向く。
「……その方が、噂に聞くヴァルロード家の従者の方ですね?」
「マリア・ベルモンドと申します。
若様のおそばで、お世話をさせていただいております」
マリアは丁寧に裾をつまんで一礼した。
光を受けて揺れる髪は、滑らかな艶を帯び、結い上げたうなじまわりの肌も、すっきりとした印象を与えている。
それを見て、リリスの瞳がわずかに丸くなった。
「とても……きれいな髪ですね」
「えっ」
唐突な言葉に、マリアが戸惑いを隠せず瞬きをする。
「無礼でしたら申し訳ありません。
ですが、目に入った瞬間に、そう感じてしまいました。
光の当たり方で、表情まで柔らかく見えます」
「そ、その……あの……」
不意打ちのような褒め言葉に、マリアは完全に対応しきれていなかった。
耳まで赤くなり、言葉がうまく続かない。
「日頃から、きちんと手入れを重ねてくれている結果です。
特別なことをしているというより、“続けている”だけですよ」
ユウが、そっと助け舟を出す。
「髪も肌も、一度だけ何かをしたから変わるものではありませんから」
「……それでも、続けることが一番難しいと思います」
リリスは、マリアを見ながら穏やかに微笑んだ。
「きっと、ヴァルロード家では“美しくあること”を、義務ではなく、お互いを大切に思う習慣として扱っていらっしゃるのですね」
「まだそこまで立派なものではありませんが……
身の回りの人が元気そうにしているのは、やはり嬉しいです」
ユウがそう返すと、マリアは小さくうなずく。
「私も……若様にそう思っていただけるように、これからも頑張ります」
その表情は、誇らしさと照れくささが半分ずつ混ざったものだった。
リリスは、その様子を静かに見つめていた。
マリアが見せた、穏やかで柔らかな笑み。
それは誰にでも向けられるものではなく、確かにユウのそばだからこそ生まれた表情だった。
(あの方のそばでは……こんなふうに笑えるのですね)
そう思ったとき、自分でも理由のはっきりしない感覚が胸に触れた。
羨ましさとも、寂しさとも少し違う。ただ、心の奥に小さな波紋が広がったような感触。
ユウという人が、他者に与えているもの。
そして、それを自然に受け取っているマリアの存在。
視線を外すことなく見つめながら、リリスはほんのわずかに息を落とした。
(……不思議ですね。少しだけ、気になってしまいます)
そのときだった。
「……なんだ、これは」
掲示板の前の人垣が、ひときわ大きく揺れた。
中心に立っていたのは、アルベルト・ルクレイン。
金色の髪をわずかに乱し、Bクラスの欄に記された自分の名前を睨みつけている。
「B? 冗談ではない。
王太子がBとは、どういう基準だ」
近くに控えていた従者が、おそるおそる口を開こうとする。
「殿下、筆記と実技の総合評価で――」
「聞いていない」
短い一言で切り捨てる。
「紙切れの数字で、俺の立場が変わるわけではない」
周囲の空気が、少し冷たくなった。
誰も正面から否定はしない。
代わりに、視線だけがそれぞれの胸の内を語っている。
(“変わらない”のは立場だけだ。
評価と信用は、こういう場面で変わっていく)
ユウは言葉には出さず、心の中だけでそう呟いた。
⸻
そのとき、一人の令嬢が前へ出る。
「アルベルト殿下」
明るい栗色の髪に、小さな花飾り。
控えめだが計算された可愛らしさを持つ笑み。
「アークロイド男爵家の娘、セレスティアと申します。
殿下のお名前を拝見して、私はすぐに納得いたしました」
「……どういう意味だ」
アルベルトが、わずかに棘を含んだ声で問い返す。
「殿下は、元から頂点にいらっしゃるお方。
だからこそ、あえて“追う立場”に身を置かれたのだと感じました。
上から見下ろすだけでは、下の景色は見えませんから」
その言葉は柔らかく、耳に心地よく響いた。
「殿下ほどの方が、本気を出されれば――
Sクラスに戻られるのも、時間の問題でしょう」
一見すれば、ただの持ち上げに聞こえるかもしれない。
しかし「今の位置を否定しない」形で肯定しているのが、巧妙だった。
アルベルトの表情に、わずかな満足げな色が浮かぶ。
「……そうだな。
見ていろ、そのうちこの掲示の順番は変わる」
セレスティアは深く礼をして、ふわりとした足取りで列から下がった。
その背中を、何人もの視線が追いかける。
「今の子、誰だ?」
「アークロイド男爵家の令嬢だろう。
あの言い方……場慣れしているな」
《異世界ダイナリー》
【新規観測対象:セレスティア・アークロイド】
【傾向:対人操作適性 高】
【推奨:警戒度 中】
(ああ、やっぱりそういう分類になるのか)
ユウは淡々と、その文字列を受け止めた。
⸻
「ヴァルロード様」
リリスが、小声でユウに問いかける。
「学園での序列が、今こうして目に見える形で示されました。
この先、立場の距離は……もっとはっきりしていくのでしょうか」
「そうですね。
ただ、数字と記号は“きっかけ”であって、“全て”ではないと思っています」
ユウは、掲示板から目を離さずに答えた。
「これから三年間の行動で、評価は何度でも書き替えられます。
私も、ここで止まるつもりはありません」
「……その言葉は、とても心強いです」
リリスは、少しだけ息を吐く。
その横顔に、さきほどまでとは違う色が宿っていた。
不安だけでもなく、楽観だけでもない、複雑な感情のまじった光。
「若様、このあとはどうなさいますか?」
マリアが、タイミングを見計らって問いかける。
「Sクラスの教室を見ておこう。
今日からは、もう“外から眺める側”じゃなくて、ここに通う生徒だからね」
「はい、若様」
ユウの隣で、マリアは静かに歩き出す。
リリスは二人の後ろ姿をしばらく見送り、それから自分の従者たちのほうへ戻っていった。
(同じSクラス。
でも、あの人の隣には、もう“守りたいもの”があるんだ)
マリアの横顔を思い浮かべると、胸の奥で小さな火が灯るような感覚が生まれた。
掲示板に貼られた紙は、ただの紙切れだ。
けれどそこに記された文字は、確かに人の心と関係を動かし始めている。
学園生活の幕は、こうして静かに上がった。
序列と視線と、ささやかな羨望を抱えながら――。




