第二章 秩序の学園と崩れゆく誓約 第一話 学園の門、選別の朝
第二章 秩序の学園と崩れゆく誓約 第一話 学園の門、選別の朝
王都の朝は、ひんやりした空気と、かすかに漂う焼きたてのパンの匂いから始まる。
けれど、今日だけは少し違っていた。
通りを行き交う人々の視線が、一定の方向へ向かっている。
その先にあるのは、灰色の石で築かれた高い塀と、王家の紋章を戴く巨大な門。
王立高等学園――王国の未来を担う者たちが集う場所。
その門の前に、一本の列が伸びていた。
貴族、平民、豪奢な服、すり切れた靴。
身なりも雰囲気もまるで違う子どもたちが、同じ道の上に並んでいる。
(なかなか、壮観だな)
列の途中からその様子を眺めながら、ユウ・ヴァルロードは小さく息を吐いた。
王都に来る途中、王城や貴族街を見てきたが――
ここに集まっている空気は、少し別物だった。
家柄の優劣も、財産の多さも、今日だけは「結果の条件」ではない。
この門をくぐるかどうかは、試験の点数で決まる。
王立高等学園の初等部は、平民にも開かれている。
名門の生まれは確かに有利だが、それでも絶対ではない。
《異世界ダイナリー》
【王立高等学園 入学試験・初等部】
【受験者数:推定三百名以上】
【合格枠:筆記・実技とも上位二〜三割】
(つまり、百人も通らないってことか)
ダイナリーの表示を目で追いながら、ユウは小さく肩を回した。
十歳の少年の姿をしていても、中身は一度社会を走りきって燃え尽きた元サラリーマンだ。
競争という言葉が、どれだけ胃を重くするかは嫌というほど知っている。
それでも。
(この世界では、最初から諦める気はない)
過労死で終わった前の人生とは違う。
今度は、最初から「この場所」に立つために努力してきた。
魔力の制御も、剣の基礎も、歴史や地理も、貴族としての礼儀も。
古い記憶と、この世界の常識を頭の中で組み合わせながら、毎日少しずつ積み重ねてきた。
「ユウ様、前へ進みます」
背後から控えめな声がした。
振り返ると、ヴァルロード家の執事見習いが一人、緊張した面持ちで立っている。
父と母はここまでで、あとは本人に任せるということで屋敷に残った。
今日は、ユウ一人でこの列に並んでいる。
「分かった。ありがとう」
短く返事をして、数歩前へ進む。
行列は、門のすぐ手前で一度折れ曲がり、そこからさらに中へと続いていた。
門近くでは、係官らしき大人たちが受験票を確認し、名前と家名を読み上げている。
「次の方、受験票を。……子爵家、確認しました。そのまま進んでください」
「平民登録、済。番号札を受け取って、こちらの列へ」
貴族と平民で受付口は分かれている。
ただ、門の前で列が割れるわけではない。
並ぶ順番は、あくまで「来た順」だった。
そのことに、ユウは少しだけ感心する。
(入口までは、誰もが一列。そこから先は、出した結果次第……か)
前世の日本で見た入試風景と、どこか似ていた。
ただ、こちらの方が視線はずっと鋭い。
自分も、他人も、互いに値踏みし合っている気配が濃い。
《異世界ダイナリー》
【周囲の感情:緊張・期待・恐れ】
【優勢感情:自身の将来に対する不安】
(そりゃあ、そうだよな)
十歳の子どもたちにとって、ここは単なる「学校の門」ではない。
受かれば未来の選択肢が広がり、落ちればその分、道は狭くなる。
平民にとっては、騎士団や官僚への最短ルート。
貴族にとっては、同格以上との人脈を築くための場所。
緊張しない方がおかしい。
「……あ」
列の少し先で、小さなざわめきが起きた。
誰かが息を呑み、視線が同じ方向に引き寄せられていく。
「王家の馬車だ」
「殿下がいらっしゃったのか?」
門の脇に、王家の紋章を掲げた馬車が止まる。
扉が開き、金髪の少年が一人、姿を現した。
整えられた髪。
濃紺の上着に施された金糸の刺繍。
歩き方ひとつで、その育ちの良さと「自分が特別であることを疑っていない」という意識が伝わってくる。
(アルベルト・ルクレイン。王国第一王子)
ユウは、列を離れることなく、横目でその姿を追った。
殿下は列には並ばず、そのまま係官の方へ向かっていく。
周囲の子どもたちは自然と道を空け、頭を下げている。
近くにいた少年が小声で囁いた。
「試験、受けるのかな。王太子殿下なのに」
「王立学園だからな。形だけでも受けるんだろ」
その会話に、ユウは内心で頷く。
(特例で免除、ってこともありそうだけど……少なくとも“受ける姿”は見せるわけか)
王太子は、ちらりと列を一瞥しただけで、すぐに視線を前へ戻した。
その目が一瞬こちらをかすめたが、特別な反応はない。
当然だ。今のところ、ただの同年代の一人に過ぎない。
やがて殿下は門の中へと消えていく。
その直後、別の方向でまた小さなざわめきが起きた。
「見て……あれ」
「銀髪……ひょっとして、グレイハルト公爵家……?」
列の後方から、少女が一人、付き添いのメイドと共に歩いてくる。
淡い銀色の髪が、朝の光を受けて柔らかく輝いていた。
目立つ飾りはないが、仕立てのいいドレスが彼女の体に自然に馴染んでいる。
その姿を見ただけで、周囲の子どもたちが息を呑んだ。
「リリス・フォン・グレイハルト公爵令嬢にあらせられます」
付き添いのメイドが、受付に名を告げる。
王太子の婚約者。
政略と血筋の象徴として育てられた少女。
ユウは、胸の奥がわずかに熱くなるのを感じた。
(……久しぶりに見たな)
王城の舞踏会で、ほんの短い時間だけ言葉を交わした少女。
あの夜から、数年しか経っていないはずなのに、印象は少し変わっていた。
顔立ちはまだ幼さを残しているが、その眼差しは以前よりもずっと静かで、強い。
周囲の視線を感じているはずなのに、必要以上に怯える様子もなく、かと言って気取ったふるまいもない。
ただ、まっすぐ前を見て、ゆっくりと歩いていた。
《異世界ダイナリー》
【対象:リリス・フォン・グレイハルト】
【精神状態:緊張・覚悟・自制】
【社会的評価:高い・安定】
(あの環境で、よくここまで崩れずにいるものだ)
ユウは内心で感嘆する。
婚約者は王太子。
視線は常に集まり、失敗は許されず、常に「理想の姿」を期待される。
十歳の少女には、あまりにも重い立場だ。
それでも、彼女は立っている。
息を詰めながら、ただ耐えているだけの人間には出せない気配が、あの小さな背中から伝わってきた。
「ユウ様、そろそろ受付が近づいております」
執事見習いの声で意識を戻す。
「うん。行こう」
列が前へ進み、ようやく門のすぐそばまで辿り着く。
石造りの門柱には、王家の紋章と共に、学園の紋章も刻まれている。
この二つの紋章の下をくぐるということは――
「王国の一部」として扱われることを意味していた。
受付の前で、係官が受験票を差し出すように促す。
「ヴァルロード伯爵家嫡男、ユウ・ヴァルロード」
執事見習いが代わりに名を告げると、係官が小さく目を見開いた。
「……失礼いたしました。確認いたしました。こちらが受験番号でございます。筆記試験は第一講義棟、三階の第三教室です」
「分かりました。ありがとうございます」
ユウは素直に頭を下げ、番号札を受け取った。
係官は貴族に対してそれなりの敬意を払ってはいるが、過剰ではない。
仕事として淡々と処理しているだけだ。
それがかえって、この学園の「空気」をよく表していた。
(家名で特別扱いはしない。ただし、礼儀は守る……か)
このバランスが保たれている限り、ここは「まともな場所」でいられるはずだ。
門の中へ足を踏み入れると、視界が一気に開けた。
石畳の広い中庭。
左右には整然と並ぶ校舎。
その奥には、図書館や講堂らしき大きな建物が見える。
中庭の中央には、大きな掲示板が立っていた。
受験番号と名前、試験教室の案内がびっしりと貼られている。
その前には、すでに多くの子どもたちが集まっていた。
「おい、あった! 俺、C棟だ!」
「筆記と実技で教室が違うのかよ、面倒だな……」
さまざまな声が飛び交う中、ユウも自分の番号を探す。
第三教室、と係官は言っていたが――念のため、掲示でも確認しておきたかった。
《異世界ダイナリー》
【受験番号三一二:第一講義棟・三階・第三教室】
【同室者:貴族五名・平民十名】
【位置:前から二列目・窓側】
(いつも思うけど、こういう情報は本当に助かる)
内心で小さく笑いながら、掲示板の該当箇所に指先を添える。
「……あった」
その隣に、別の名前が目に入った。
リリス・フォン・グレイハルト。
受験番号は別だが、同じ講義棟、別の教室になっている。
(少なくとも、筆記の段階では顔を合わせることはなさそうだな)
父と母からは「見かけたら挨拶をしておきなさい」と言われていたが――
試験の前にわざわざ声をかけに行くのは、さすがに余計だろう。
彼女には彼女の戦いがあり、ユウにはユウの戦いがある。
それを無視して笑顔で手を振れるほど、ユウは図太くない。
「受験生は、各自、掲示板で教室を確認し、速やかに移動すること!」
教師と思しき男が声を張った。
「筆記試験開始時刻に遅れた者は、いかなる理由があろうとも失格とする!」
その一言で、空気が一段階、ぴりりと引き締まる。
ユウは踵を返し、第一講義棟へ向かった。
高い天井の回廊を進み、階段を上がり、指定された教室へ入る。
すでに何人かの受験生が席に着いていた。
貴族らしい服の者、質素な服装の者。
それぞれが、緊張を誤魔化すかのように机の上でペンをいじったり、窓の外を眺めたりしている。
教壇にはまだ誰もいない。
(前の方か……)
異世界ダイナリーが示した席に目をやると、窓側の前から二列目が空いていた。
そこに腰を下ろし、机の上に筆記具を並べる。
少しだけ背筋を伸ばすと、深く息を吸い――ゆっくり吐き出した。
胸のあたりが熱っぽい。
だが、不快ではない。
《異世界ダイナリー》
【心拍数:通常よりやや高め】
【集中状態:良好】
【提案:問題全体を確認後、解答に着手】
(分かってる。最初に全体を見て、時間を配分する)
前世で何度も試験を受けた経験が、ここで生きる。
教室の後ろの扉が開き、試験監督が入ってきた。
黒いローブに身を包み、鋭い目をした中年の男だ。
「全員、着席しているな」
教室を一通り見回した後、男は簡潔に告げた。
「これより、王立高等学園・初等部入学試験、筆記を開始する。
途中退室は認めない。試験内容に関する質問も受け付けない。
自分の力だけで書き終えることだ」
机の上に、答案用紙と問題用紙が配られていく。
紙が卓上に置かれる音が、教室の中で連続する。
監督が最後列まで確認し、教壇に戻る。
「――始め!」
その合図と共に、一斉に紙をめくる音が響いた。
ユウも、目の前の紙に視線を落とす。
王国史。
地理。
魔術理論の基礎。
貴族法規。
そして、読み書きと計算。
想定の範囲内だった。
《異世界ダイナリー》
【全体難度:中】
【配点:魔術理論・法規に比重】
【推奨解答順:計算→歴史→法規→魔術理論】
(よし、行こうか)
ユウはペンを握り直し、最初の設問に視線を移した。
これから始まるのは、ただの試験ではない。
学園での三年間、
王都での立ち位置、
リリスとの距離、
王太子との関係。
そのすべてが、少しずつ動き出す「最初の一歩」だ。
紙の上に、文字が滑り出す。
第二章――秩序の学園と崩れゆく誓約。
その物語は、静かに幕を開けた。
ごきげんよう。
ユウの物語をここまでお読みくださり、心より感謝いたしますわ。
……と、しっとり締めたいところですが。
この場に舞い降りたのは作者でもユウでもなく――
華麗なる悪役令嬢、
エリザベート・フォン・ローゼンクロイツでございます
さて皆さま。
ここで静かに、けれど確かにお知らせを。
⸻
『異世界ダイナリー 第二章・学園編』
ついに、開幕いたします。
舞台は、選ばれし者のみが集う王立高等学園。
格式、誇り、視線、評価――
そのすべてが交錯する場所で、物語は新たな段階へ。
成長。関係。距離。
そして、それぞれの想い。
何が起こるかは、まだ誰にもわかりません。
ただ一つ言えるのは――
“静かに、しかし確実に物語は動き出す”ということ。
どうかその始まりを、
先入観も予測も持たずに、見届けてくださいませ。
⸻
そしてもし、
この世界に生きる「強く、美しく、少し不器用な魂」に
魅了されているのなら……
どこかに、
善行扱いされて困り果てている悪役令嬢の物語も
ひっそりと存在しておりますわ。
ほんの、さりげなく。
ですが確実に、華やかに。
⸻
それでは皆さま。
新たな学園の物語で、またお会いしましょう。
第二章の扉は、すでに開いております。
ごきげんよう




