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『異世界ダイナリー〜創造神に選ばれた僕は、婚約破棄された公爵令嬢リリスを全力で幸せにします〜』  作者: ゆう
第一章 異世界ダイナリー ― 黄金が静かに根を張る

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第二話 灰と水と、清潔への第一歩

第二話 灰と水と、清潔への第一歩


 ヴァルロード伯爵家の朝は、いつも静かで整っている。


 けれど俺の目には、どうしても「整っていない部分」が映ってしまう。


 揃えられた調度品。磨かれた床。整然と並ぶ銀食器。

 それでも、空気のどこかに漂う微かな埃の匂いと、肌に残るぬめり。


(これが「普通」だと言われても……やっぱり、気になる)


 湯殿から上がり、ふわりとした布で髪を拭かれながら、俺はその感覚を噛みしめていた。


「ユウ様、お湯の加減はいかがでしたか?」


 世話係の侍女が、屈んで優しく問う。


「気持ちよかったです。でも……」


「でも?」


「……身体、まだ少し、ざらざらしています」


 正直にそう言うと、侍女は少し困ったような顔をした。


「香草湯は、汚れを落とすというよりは、香りと癒しのためのものですので……」


 つまり、現状のやり方では、根本的な洗浄にはなっていないということだ。


(やはりか)


 前世で浴びてきたシャワーと洗剤の感覚が、どうしてもこの世界の入浴では満たされない。

 この「中途半端な清潔」は、俺にとって耐えがたいものだった。


     ◇


 翌日。


 俺はひとり、屋敷の裏手にある釜場を覗いていた。


 そこでは、料理人たちが湯を沸かし、薪をくべ、灰を掻き出している。


「下がってくださいませ、ユウ様。お洋服が汚れてしまいます」


「少しだけ……見たいです」


 そう言って、俺はしゃがみ込み、地面に積まれた灰をじっと観察した。


 黒と白が入り混じる乾いた粉。

 細かく、さらさらとしている。


(……これだ)


 前世で読んだ知識が、異世界ダイナリーの中で静かに浮かび上がる。


《洗浄手段案:木灰による摩擦洗浄》

《原理:細粒子による物理的汚れ除去》


 石鹸がないなら、まずはこれだ。

 灰を細かくし、少量の水と合わせ、布に含ませて身体を擦る。


 過剰な薬品も不要。危険性も低い。

 三歳の俺でも、大人の監督下でなら十分に実行可能だ。


「……これを、洗うのに使えますか?」


 俺が灰を指差すと、料理人の男が驚いた顔をした。


「灰でございますか? 洗浄には使いませんが……昔、厩舎の汚れ落としなどには……」


「身体にも、使ってみたいです」


 はっきりそう告げる。


「……坊ちゃまのお身体に、でございますか?」


「はい。布に少しつけて、こすってみたいです」


 困惑の視線が集まる中、俺は静かに頭を下げた。


「危ないことはしません。ちゃんと、大人の人と一緒にやります」


     ◇


 結果、侍女を通して父に相談がなされた。


 執務室に呼ばれた俺は、椅子の前に立ち、真っ直ぐに父を見る。


「灰で、身体を洗いたい……だと?」


「はい。香草湯だけだと、汚れが落ちきっていません。灰なら、きれいになります」


 三歳児の口からは不釣り合いな理屈だとわかっている。それでも、俺は言葉を選びながら説明した。


「布に少しつけて、やさしくこすります。痛くないようにします」


 父は腕を組み、しばらく黙っていた。


 やがて、ため息のように息を吐く。


「お前は本当に……変わった子だな、ユウ」


 だが、口調は柔らかい。


「だが、理由もなく言っているわけではないのだろう?」


「はい」


「よかろう。ただし必ず侍女と一緒に行い、皮膚に異常が出た場合は即座に中止する。それが条件だ」


「ありがとうございます」


 俺は深く頭を下げた。


     ◇


 その日の夕刻。


 湯殿の隅で、俺は小さな布を手にしていた。


 その布には、細かくふるいにかけられた白い灰がほんの少し染み込ませてある。


「優しく、くるくると円を描くように……ですね、ユウ様」


「はい」


 俺は自分の腕に布を当て、そっと擦った。


 ざらり、という感覚。だが痛みはない。

 むしろ、皮膚の表面から何かが削ぎ落とされていく感覚がはっきりと伝わる。


(……落ちている)


 湯の中に、うっすらと濁りが広がる。

 それは、今まで落としきれなかった汚れだった。


「まあ……!」


 侍女が小さく声を上げた。


「ユウ様、本当に……汚れが……」


「もう少し、続けます」


 肩、背中、足。すべてを丁寧に、慎重に。


 擦り終えたあと、ぬるま湯で流す。


 触れてみると、明らかに違った。


 肌が、なめらかだった。


(これだ)


 前世の記憶にあった「洗い終えたあとの感覚」に、ようやく近づいた。


     ◇


 湯殿から上がり、鏡を覗き込む。


 頬の色がわずかに明るくなり、余分なぬめりが消えている。


「……きれい」


 小さくそう呟くと、背後の侍女が優しく微笑んだ。


「本当ですね。まるで磨かれた陶器のようでございます」


 その言葉に、胸の奥が少しだけ温かくなる。


     ◇


 その夜、寝台に横たわりながら、俺は天井を見つめていた。


 今日、自分の望みで何かを変えた。


 ほんの小さなことだが、それは確かな第一歩だった。


(石鹸じゃなくてもいい。まずは、できることからだ)


 灰を使った洗浄。

 摩擦による清潔。


 これを毎日の習慣にすれば、身体は確実に変わる。

 そうなれば、屋敷も、いずれ領地も、同じように変えられるはずだ。


《記録:洗浄実験 成功》

《清潔度:向上》

《次段階:使用頻度と肌状態の検証》


 異世界ダイナリーの文字が、静かに刻まれていく。


 そして俺は、確かな確信を抱きながら目を閉じた。


 この世界では、努力は意味を持つ。

 清潔は、贅沢ではない。

 生きるための基本だ。


 三歳の小さな手で始めた、この習慣が、

 やがてどれほど大きな波紋を広げるのか――


 その答えを知るのは、もう少し先の未来になるだろう。


 だが今だけは、ただ素直に思う。


(気持ちいい……)


 清潔な肌と、温かな寝具に包まれながら、

 ユウ・ヴァルロードは静かに眠りへと落ちていった。


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