最終話(26話) まだ名を持たぬ誓い
第一章・最終話(26話) まだ名を持たぬ誓い
夜は、静かだった。
ヴァルロード領の外れ――
養蜂地から少し離れた丘の上に、ユウはひとり立っていた。
風はやわらかく、草を撫で、花の香りを運んでくる。
遠くでは、かすかに蜂の羽音が重なり、まるでこの土地そのものが呼吸しているようだった。
「……思ったより、静かだな」
小さく呟き、夜空を見上げる。
月は丸く、白く、どこか冷たい。
王城での出来事が、ふと脳裏をよぎった。
王の驚愕の顔。
あの沈黙。
そして、蜂蜜に伸びた“もう一度”の手。
価値を認められた。
王に。
貴族に。
そして、この国に。
けれど――
「だからって、何かが終わったわけじゃない」
むしろ、ここからだ。
まだ9歳。
ようやく「立つ場所」を得ただけにすぎない。
守れるようになったわけでも、
望む未来に届いたわけでもない。
それでも。
胸の奥には、確かな熱が灯っていた。
(……リリス)
名前を思い浮かべただけで、わずかに息が詰まる。
あの静かな瞳。
遠くを見るようで、どこか怯えるような微かな揺れ。
それでも品を失わない佇まい。
近づいてはいけないと、理解している。
王太子の婚約者であるという現実も、決して軽くは見ていない。
だが。
(それでも、目を逸らせない)
それだけは、どうしても誤魔化せなかった。
王城では距離を保った。
言葉も、態度も、完璧だったはずだ。
それでも――
あの一瞬の視線。
呼吸が重なった静寂。
あの時間が、まだ胸の奥でゆっくりと息をしている。
「……弱いな」
自嘲気味に息を吐きながらも、ユウの表情はどこか穏やかだった。
弱いからこそ、強くなる。
迷うからこそ、進む意味を見失わない。
守りたいものがある。
越えたい壁がある。
そして――あの少女がいる。
だから、進む。
「学園か……」
1年後
そこには、きっと今とは違う世界が広がっている。
知識、権力、感情、思惑。
すべてが渦巻く場所。
だが、もう決めていた。
「……もう、流されない」
誰かの思惑にも。
運命という言葉にも。
他人の評価にも。
自分の選択で、生きる。
そのための準備を、ここで終える。
ユウはゆっくりと踵を返し、領地の灯りへと視線を落とした。
そこには、彼の守るべき場所がある。
母の笑顔。
父の信頼。
蜂たちの営み。
そして、まだ言葉にならない想い。
夜風が、そっと頬を撫でる。
「行こう」
誰にでもなく、静かに告げる。
未来へ。
まだ名を持たぬ誓いを、胸の奥に抱いたまま。
第一章・完




