第二十二話 揺れる心、揺れない立場
第二十二話 揺れる心、揺れない立場
社交会の喧騒が遠ざかっても、リリスの耳の奥にはまだ、あの声の余韻が残っている気がした。
華やかな音楽ではない。歓声でもない。
ただ、静かで穏やかな、ユウの声。
馬車の中、揺れる灯りに照らされながら、リリスはそっと胸元に手を当てた。
(どうして……あんなにも、自然に息ができたのでしょう)
あの場では、いつも以上に意識していたはずだった。
王太子の婚約者として、間違いのない振る舞いを。
隙のない微笑を。
誰にも付け入らせない距離を。
けれど、ユウの前では――
張りつめていた心の糸が、静かにほどけていくのを確かに感じていた。
「……呼吸が、楽になるなんて」
思わず零れたその言葉に、リリスは小さく息を呑む。
誰に聞かれることもなく、夜の静寂に溶けていく。
王太子の隣では、常に緊張していた。
間違えないように。
期待に応えられているかを気にして。
けれど、ユウと話している間だけは、そうした意識が不思議なほど遠のいていた。
(あの方は……私を“王太子の婚約者”ではなく、ひとりの人として見てくださっていた)
それは、初めての感覚だった。
評価でも、役割でもなく。
ただ「リリス」として接してくれた視線。
だからこそ、胸の奥に静かな温もりが残っている。
⸻
「……リリス」
隣に乗る王太子の、やや気の抜けた声。
「さっきの伯爵の坊主さ、なんか気にくわないんだよな」
「……ユウ様のこと、ですか?」
「そうそう。妙に落ち着いててさ」
軽い調子の言葉。
理由もなく、ただ“気に入らない”というだけの評価。
その響きが、胸の中でひっそりと反発を生んだ。
(それは……違います)
心の中で、そうつぶやいてしまう。
比べるつもりなどなかったはずなのに。
気づけば、無意識のうちに並べてしまっている。
――王太子の軽さと、ユウの深さを。
その事実に、リリスはそっと視線を落とした。
(私は……何を考えているの)
婚約者としてあるべき姿は、こんな揺らぎを許すものではない。
そう理解しているのに、
心のどこかが静かに熱を帯びている。
⸻
屋敷へ戻り、自室に入ると、リリスはふうと息を吐いた。
鏡に映った自分の顔は、いつもと変わらないはずなのに。
その瞳の奥だけが、わずかに揺れている。
(ユウ様の声……)
優しくて、落ち着いていて。
押しつけるでもなく、遠ざけるでもなく。
けれど、どこか特別に響いていた。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
まるで、固く閉ざしていた場所に、そっと光が差し込んだように。
(どうして……あの方のことばかり、思い出してしまうのでしょう)
少し困ったような微笑。
柔らかな眼差し。
触れてはいけない距離だと理解していながらも、
心が勝手にそちらへ向かってしまう。
⸻
自分は王太子の婚約者。
それは、何よりも優先されるべき現実だ。
(私は……この役目を果たさなければならない)
そう、何度も繰り返してきた言葉。
貴族令嬢としての誇り。
けれど――
(それでも……どうして、こんなにも胸が苦しいのでしょう)
ただ「気になる」だけではない。
もっと深く、もっとやわらかく、胸の奥に残り続けている。
それはまだ「恋」と呼べるほど明確ではない。
けれど確かに、理性では説明できない衝動だった。
(忘れようとしているのに、忘れられない……)
窓の外に浮かぶ月を見上げながら、リリスはそっと目を伏せる。
心の奥で、温かな余熱が消えない。
⸻
近づいてはいけないと、わかっている。
許されない距離だと、理解している。
それでも。
(もし……またお話しできるのなら)
その願いが胸に浮かんだ瞬間、リリスは小さく首を振った。
(いけない……)
そう思うほどに、想いは強くなる。
否定しようとしても、消えてはくれない。
ただ静かに、確実に、
胸の奥に居座り続けている。
⸻
夜の帳が深まる中、
リリスはゆっくりとベッドに身を横たえた。
(私は、王太子の婚約者です)
自分に言い聞かせるように、心の中でつぶやく。
けれど同時に――
(それでも……あの方の存在が、私を揺らしてしまう)
その感情に、名前はまだない。
恋ではない。
けれど、もう無視はできない。
ただ静かに、
しかし確かに灯った、小さな熱。
それはきっと――
これから避けられない波になる。
そう予感しながら、リリスは静かに目を閉じた。
夢の奥で、
再びあの穏やかな声に触れることを、どこかで願いながら。




