第一話 神童はお風呂をねだる
第一話 ユウはお風呂をねだる
真っ白な空間で、俺は一度、人生を終えた。
過労死――その二文字で片づけられる五十年だった。家もなく、家族もいない。会社と自宅を往復し、気づけば机に突っ伏したまま心臓が止まっていた。
次に目を開けたとき、そこには光の人影がいた。
『君に、もう一度だけ人生をやり直す権利をあげよう』
創造神を名乗る存在は、そう言って微笑んだ。
『スキル《異世界ダイナリー》。君がこれまで読んできた異世界ものの知識、その記録をこの世界の理に接続する力だ。ただし――』
『努力しないなら、何も起こらない。そういうやつですよね』
俺の言葉に、光は愉快そうに揺れた。
『察しがいい。今度こそ、自分と、誰かを守るために使いなさい』
そう告げられた瞬間、世界が反転する。
落ちていく視界の先で、俺はようやく心の底から願った。
――次の人生こそ、無駄にしない。
◇
「おめでとうございます、男の子ですよ!」
甲高い声とともに、どろりとした感触と眩しい光が押し寄せた。
肺が勝手に空気を吸い込み、甲高い泣き声が漏れる。
(……生まれた、のか)
言葉にはならないが、意識だけははっきりしていた。
腕に抱き上げられる。優しい匂いがした。
「可愛い……私たちの子よ、オグレイン」
「そうだな。――ようこそ、ヴァルロードの家へ。我が息子、ユウ」
父の声は低く、よく通る。威厳があるのに、どこかあたたかい。
(ユウ・ヴァルロード。……貴族の家に、生まれたってわけか)
頭の奥で、淡い光の文字が浮かびあがる。
《異世界ダイナリー 起動》
《記録開始:人生二周目》
視界はぼやけているのに、情報だけは鮮明に刻まれていく。
◇
生まれて数か月。俺は、赤ん坊のくせに退屈していた。
揺り籠の上には、木製のおもちゃ。左右に揺れるそれを眺めながら、俺は心のなかでため息をつく。
(健康状態良好。魔力の流れ、微弱ながら安定。環境は……やや埃っぽいな)
異世界ダイナリーは常に回っている。視界と聴覚から得た情報を、勝手に整理してくれる便利なスキルだ。
部屋の隅で、使用人たちがひそひそと話している。
「坊ちゃま、あまり泣きませんね」
「ええ。本当に手のかからないお子様で……」
それはそうだ。五十年分の精神力が、赤ん坊の肉体に押し込められているのだ。むやみに泣き叫ぶほど、俺は子どもではない。
(泣くより観察だ。まずは、この世界と、この家を知らないと)
そうやって周囲を眺めていると、俺の視線に気づいたのか、若いメイドが近寄ってきた。
「ユウ様、起きていらしたのですね」
優しく微笑みかけられ、俺は条件反射で手を伸ばす。掴んだ指は、思っていたよりも温かかった。
◇
一歳になるころには、俺はすでにこの世界の言葉をほとんど理解していた。
父が執務室で書類を読み上げる声。母が侍女と交わす日常会話。廊下で交わされる使用人たちの噂話。
全部、意味が分かる。
口の筋肉が未発達なせいで、うまく話せないのがもどかしいくらいだ。
「……と、いうわけで、この税率では領民が苦しむばかりだ」
「さすがは伯爵様でございます」
半開きの扉から漏れる父の声を聞きながら、俺は心の中で唸る。
(名君ってやつか。前の世界の上司に聞かせてやりたいな)
そんなことを考えていると、胸の奥でふとざわめきが生じた。
(……何だ、この感覚)
熱でもない。痛みでもない。体の奥で、何かがゆっくりと巡っている。
目を閉じ、意識を内側に向ける。
――見えた。
暗闇の中を、淡い光の粒が流れている。血液のように、全身を回っている。
(魔力……か)
異世界作品で散々見てきた概念が、今、自分の中で現実として息づいている。
思わず、笑いそうになった。
(いいね。ちゃんとファンタジーしてるじゃないか)
試しに、その流れをほんの少しだけ押してみる。
指先がじんわりと熱を帯び、かすかな光が灯った。
ぱち、と小さな火花が散る。
「……おお」
思わず声が漏れ、傍らで見守っていた母が顔を輝かせた。
「今、光りましたよね!? オグレイン、ユウが、ユウが!」
「落ち着きなさい、エレノア。――だが、たしかに今のは」
父が俺の手を取る。険しい顔をしていたが、その目はどこか楽しげでもあった。
「生後一年で魔力の発露とは。ますます将来が楽しみだな、ユウ」
(よし。この世界、ちゃんと俺の努力に応えてくれそうだ)
前世では、一晩中働いても「お前ならできて当然だ」で終わった。
今度は、少しの成果にも、誰かがちゃんと喜んでくれる。
それだけで、この世界が少しだけ好きになれた。
◇
二歳になるころには、ようやく自分の足でしっかり歩けるようになっていた。
廊下の窓から差し込む光。庭の木々の色。運ばれていく洗濯物。床に残る泥の足跡。
なんでもない光景のはずなのに、俺の目にはどうしても引っかかるものがあった。
(……汚いな)
床にうっすら溜まった埃。窓枠についた黒ずみ。使用人の手にこびりついた洗剤の残り。
前世で、汚れたオフィスと不衛生な環境を嫌というほど見てきたせいか、そういうものに過敏になっている自覚はある。
だが、この世界ではそれが「普通」らしい。
「ユウ様、お外で泥遊びをいたしましょうか」
年上のメイドがにこやかに提案してくる。俺は、きっぱりと首を横に振った。
「……や」
「まあ、はっきり嫌って。可愛らしいですわ」
可愛らしさでごまかされているが、俺は本気だ。
(泥遊びより、まずはこの屋敷の清潔度を何とかしたい)
もちろん、二歳児の言葉でそんなことを訴えても、誰も真剣には聞いてくれないだろう。
だからこそ、俺は観察を続ける。
誰が、どこで、どういう汚れを生んでいるのか。どこに水場があり、洗浄の仕組みがどうなっているのか。
《記録:屋敷内清潔度 総合評価C》
《改善案:水場の増設、洗浄用石鹸の開発、入浴頻度の向上》
脳内に浮かぶ文字は、いつでも冷静だ。
◇
二歳半。ついに俺は、我慢できなくなった。
「……あふ、ろ」
食後の団欒。父と母がソファに座る前で、俺はちょこんと立ち上がり、精いっぱいはっきりと発音する。
「お風呂、入りたい」
部屋の空気が、一瞬止まった。
最初に反応したのは母だった。
「まあ……今、はっきりと……!」
「ユウ。お前、お風呂に入りたいのか?」
父が目を細める。試されている気配を感じながら、俺はこくりと頷いた。
「まいにち。はいりたい」
できる限り真剣な顔で告げる。
父はしばらく黙って俺を見つめ、それからふっと笑った。
「いいだろう。毎日は少々大変だが……やってみる価値はありそうだ」
「オグレイン?」
「もともと、この屋敷は少し湿気がこもりすぎていると思っていたところだ。湯殿の改修も兼ねて、入浴の頻度を増やしてみよう。――ユウ、お前の提案として記録しておくぞ」
胸の奥が、じんわりと熱くなった。
前世では、どれだけ提案しても「それはあとでいい」「予算がない」で潰された。
今度は違う。俺の一言が、この家を少しだけ変えたのだ。
(よし。まずは、自分の周りからだ)
毎日お風呂に入り、体をきれいにする。
そのために必要なもの――石鹸、洗浄剤、肌を守るもの。
異世界ダイナリーのページが、静かにめくられていく。
《新規目標:清潔な生活環境の構築》
《優先度:最優先》
三歳になるころには、俺の中でひとつの決意が固まっていた。
この世界で、二度とあのオフィスのような空気は味わいたくない。
疲労と汚れと諦めにまみれた空間で、誰かが静かに壊れていくのを見たくない。
(だったら、変えればいい)
小さな手を握る。
赤子でも、幼児でも、できることはある。
この家から、この部屋から、この体から。
俺の第二の人生は――三歳の少年が、お風呂をねだった日から、本格的に動き出したのだった。
エリザベート・フォン・ローゼンクロイツによる
悪役令嬢、堂々の自己推薦ですわ
ごきげんよう、読者の皆さま。
まず最初に申し上げておきますわね。
わたくしの物語は――
よくある“悪役令嬢もの”ではございません。
なぜなら。
わたくしは
「悪役になりたいのに、なぜか尊敬され続けてしまう」
という、極めて理不尽な宿命を背負わされておりますの。
嫌味を言えば感謝され、
冷たくすれば気品と誤解され、
断罪されようと動けば英雄扱い。
……どう考えても、世界の方が間違っておりますわね?
それでもわたくしは諦めません。
高慢に。
冷酷に。
孤高に。
美しく嫌われる――
それこそが、真の悪役令嬢の生き様ですわ。
ですが、どういうわけか
周囲の令嬢たちは自分を取り戻し、
王都は意識改革を起こし、
黒薔薇の会は“女性の希望”などと呼ばれております。
……誤解も甚だしいですわ。
けれど、だからこそ見ていただきたいのです。
✔ 勘違いが連鎖する異世界コメディ
✔ 美しく暴走する悪役令嬢
✔ 嫌われたいのに好かれる地獄
✔ それでも誇りだけは失わない主人公
笑えて、可笑しくて、少しだけ胸が熱くなる。
そんな「悪役令嬢の理想像」を
わたくしはこの物語で体現しておりますの。
ですから皆さま。
もし
「スカッとしたい」
「振り切ったヒロインが見たい」
「勘違いコメディが好き」
そう思われるなら――
迷う理由はございませんわ。
わたくしの生き様を、
最初から最後まで、しっかりと見届けなさい。
悪役の美学、ここにあり。
尊敬され続ける災難令嬢、
エリザベート・フォン・ローゼンクロイツの物語を。
……読まずに通り過ぎるなど、
それこそ無礼ですわよ?
ふふん。
それでは皆さま。
物語の中で――お会いしましょう。
誇り高く、気高く、
それでもどこか報われない
最高の悪役令嬢より




