第十七話 月光の花、社交界を沈黙させる
第十七話 月光の花、社交界を沈黙させる
それは王都郊外、ロザリア・フォン・グレイスの邸で開かれた、格式高い茶会だった。
招かれたのは、王都でも名の知れた貴婦人たち。
若い花のように華やかな令嬢から、年季の入った社交経験者まで、誰もが揃う場。
しかしその空気は、どこか奇妙だった。
「……来るのかしら」
「本当に来るの?」
「まさか、あのエレノア様が……?」
小声のさざめきが、ゆっくりと広がっていた。
かつて社交界の頂点に立った女。
“月光の花”と呼ばれた存在。
長く表舞台に姿を見せなかったその名が、招待名簿に記されていたのだ。
⸻
「到着されました」
侍従の声が響いた瞬間、場の空気がぴんと張り詰めた。
扉が開く。
一歩、静かに響く足音。
そこに現れたのは、ただ美しいだけの女性ではなかった。
ゆるやかに揺れる艶やかな黒髪。
その一房一房が、光を受けてやわらかく反射している。
肌はなめらかで、張りがあり、年齢を感じさせない透明感。
薔薇の余韻を含んだ香りが、空気に溶けて広がった。
だが何より人々の心を奪ったのは――
その佇まいだった。
姿勢。歩き方。視線の運び。微笑みの角度。
すべてが「完成された社交」の在り方だった。
⸻
「……エレノア・ヴァルロード様……」
誰かが呟く。
だがそれは、もはや紹介ではない。
驚きと畏敬の混じった吐息だった。
ロザリアは一瞬、言葉を失った。
(嘘でしょう……)
思わず、指先がカップを強く握る。
だがすぐに、完璧な微笑を作る。
「ようこそ、お越しくださいましたわ」
「お招きいただき、ありがとうございます」
エレノアの声は柔らかく、それでいて堂々としていた。
一切の卑屈さも、過剰な誇示もない。
ただ、“格が違う”という事実だけがそこにあった。
⸻
席に着いた瞬間、周囲の空気が変わる。
視線が集まる。
言葉が途切れる。
話題が自然と彼女を中心に流れ始める。
「最近は領地でお過ごしとか」
「ええ。ですが、懐かしい顔ぶれを見るのも悪くありませんね」
微笑みながらも、決して軽くならない。
余裕と品位を、そのまま形にしたような会話だった。
⸻
若い貴婦人の一人が、思わず漏らす。
「……本当に、信じられないわ」
「何が?」
「美しさもそうだけれど……あの空気。
まるで“社交界が彼女を待っていた”みたい」
「昔の噂、伊達じゃなかったのね……」
「月光の花……やっぱり本物よ」
⸻
ロザリアは、無意識にそちらを見つめていた。
(こんな姿で戻ってくるなんて……)
かつて並び立つとさえ言われた女。
だが今は――比べることすら許さない存在感。
笑顔の奥で、歯噛みしていた。
⸻
エレノアは、それを知ってか知らずか。
ただ、静かに紅茶を口にし、柔らかく微笑んでいた。
その仕草ひとつで、場全体の緊張がほどけていく。
誰もが思っていた。
――ああ、やはりこの人だ。
社交は“競争”ではない。
“支配”なのだと。
⸻
茶会が終盤にさしかかる頃、貴婦人たちは自然と口を揃え始めていた。
「やはり、エレノア様がいらっしゃると場が違いますわ」
「ええ……華やかさの質が、まるで別です」
「また、次の舞踏会にもいらしていただけるかしら」
その声には、確かな期待が滲んでいた。
⸻
帰り際。
ロザリアは静かに声をかける。
「……今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ。楽しいひとときでしたわ」
微笑みは変わらない。
だがそこに、勝敗はすでに刻まれていた。
⸻
邸を出たエレノアは、空を見上げる。
淡く揺れる夕暮れの光。
かつてと同じ空の色。
だが、今は違う。
隣にはいないが、背後には確かな支えがある。
⸻
ヴァルロード邸に戻った時。
ユウは、すべてを悟ったように頷いていた。
「お疲れさまでした」
「ええ。悪くない時間でしたよ」
その微笑には満足があった。
「ですが……これは始まりに過ぎません」
「そうですね」
静かに答えるユウ。
「次は、もっと大きな場になります」
エレノアは小さく息を吐いた。
「……ふふ。楽しみですわ」
⸻
この日。
王都の一部で、確かに囁かれ始めた。
『エレノア・ヴァルロードが、帰ってきた』
その言葉が、やがて一人の少女の耳にも届くことになる。
だが、それは――
まだ、少し先の話。




