第十六話 月光の花、再び咲く
第十六話 月光の花、再び咲く
それは昼下がりの、静かな時間だった。
伯爵邸の応接室に、一通の封書が届けられる。
蠟で封をされたそれには、見覚えのある家紋が記されていた。
「……これは」
封を切った瞬間、エレノアの指がわずかに止まる。
そこに記されていた名は――
かつて社交界で並び立った、いや、並び立つことを許されなかった女。
◆ ロザリア・フォン・グレイス ◆
かつて幾度も視線を交えた、あの微笑。
柔らかく、しかし競うような空気を纏った“宿命の相手”。
『近々、我が邸にて茶会を開きます。
久方ぶりに、その優雅なお姿を拝見できれば幸いですわ』
文字の一つひとつに、静かな挑戦が込められている。
エレノアは、ふっと微笑んだ。
「……面白いではありませんか」
それは驚きでも戸惑いでもない。
長く眠っていた闘志の、静かな目覚めだった。
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「ユウ」
「はい」
「三日間、予定通りに施術をお願いするわ」
その声に迷いはない。
「今回は……
ただの『美容』ではありません」
「分かっています」
「私はこの茶会に――
最高の姿で臨みます」
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こうして、三日間の集中施術が始まった。
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◆ 一日目 ◆
肌を目覚めさせる日。
マリアが中心となり、ユウの指示に従って施術を進める。
美顔パックは通常より丁寧に、時間も調整されていた。
鏡に映る頬は、すでに違いを見せ始めている。
くすみが薄れ、透明感が増していく。
「……悪くないわ」
そう呟くエレノアの瞳には、厳しい光が宿っていた。
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◆ 二日目 ◆
輪郭を引き締める日。
この日は、首元から顎、頬にかけて、特に時間をかけた。
薔薇の香りのシャンプーで洗われた髪は、指を通すだけで滑らかに落ちていく。
乾かすたび、やわらかな光を反射し、きらめいた。
「マリア、その手で覚えなさい」
「はい……」
「いずれあなたが、私の美容専属を任される日が来るかもしれません」
その言葉に、マリアの目が輝いた。
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◆ 三日目 ◆
仕上げの日。
この日は、最初から空気が違っていた。
化粧水が肌に馴染むたび、表情が変わっていく。
乳液で仕上げられた頬は、若い頃の張りを取り戻していた。
そして、最後の仕上げ――
柑橘の香水をほんのわずか、鎖骨の位置へ。
鈴蘭の石鹸で整えられた肌に、薔薇の香りの髪。
重なり合う香りは、決して強くなく、ただ高貴に漂っていた。
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鏡の前に立つエレノアに、マリアが思わず声を漏らす。
「……まるで……」
言葉が続かない。
「……五歳は、若返っていますわね」
エレノア自身が、冷静にそう判断した。
だがそれ以上に変わったのは――
その眼差しだった。
かつて社交界に君臨していた、あの“月光の花”の目。
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「ユウ」
「はい」
「準備は整いました」
その声には、確かな誇りがあった。
「この茶会に、私は“伯爵夫人”として参加いたします。」
静かに、しかしはっきりと告げる。
「これは、私の逆襲です」
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その翌朝。
応接室の扉を開けて入ってきたオルグレインが、思わず足を止めた。
「……エレノア?」
「どうしました?」
「いや……その……」
言葉に詰まり、視線を逸らす。
「驚かせてしまいましたかしら?」
「……いや。見違えた」
それだけで、十分だった。
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伯爵夫人エレノア・ヴァルロード。
艶やかで、柔らかく流れる黒髪。
上品に香る薔薇の余韻。
引き締まった輪郭と、透明感のある肌。
そこに立っていたのは、
かつて社交界を魅了した“月光の花”にして、
今まさに咲き誇ろうとする女だった。
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マリアは心の中で思う。
(私も、エレノア様のようになれるだろうか)
だが同時に確信していた。
(ユウ様のもとで学べば――きっと)
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そしてユウは、静かにその姿を見つめていた。
(大丈夫だ。必ず、注目になる)
母の誇りも。
かつての栄光も。
そして――これからの未来も。
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茶会は、すぐそこまで来ていた。
月光の花は、再び光のもとへ。




