第十五話・薔薇の香りと、師弟の始まり
第十五話・薔薇の香りと、師弟の始まり
離れの扉を開いた瞬間、エレノアはわずかに足を止めた。
空気に溶けた薔薇の香りが、静かに鼻先をくすぐる。
甘さは控えめでありながら、女性の美しさを引き立てる気配がある。
「……この香り」
低く、確かめるような声。
視線は自然と室内へ向かい、整えられた空間と、机の上に並べられた品々を見つめる。
薔薇の香りのシャンプー。
鈴蘭の石鹸。
透明な化粧水と乳液。
なめらかな洗顔。
柑橘の香水と、美顔パック。
そしてその横には、緊張した面持ちで立つマリアの姿があった。
「……マリアもいるのですね」
「はい。今日は一緒に入ってもらっています」
エレノアは一瞬だけ、意味を測るような視線を向けたが、すぐに理解したように微笑んだ。
「なるほど。これは“私だけの時間”というだけでなく、“未来の準備”でもあるのですね」
「その通りです」
マリアは思わず背筋を伸ばす。
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「始めてちょうだい」
そう言って鏡の前に腰を下ろすエレノアの声には、迷いがなかった。
ユウはマリアへ視線を向け、静かに告げる。
「まずは温かい布を使います。顔全体を包むように」
「はい……」
丁寧な動きで布を当てるマリア。その手つきはまだ硬いが、真剣そのものだった。
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鈴蘭の石鹸をきめ細かく泡立て、マリアがそっと頬にのせる。
「力を入れすぎないでください」
「……このくらいでよろしいでしょうか」
「ええ、その調子です」
エレノアは鏡越しに、その様子を観察していた。
「悪くありませんわ、マリア。
少しずつ覚えていきなさい」
「はい……」
その声にはそっとした緊張と、誇らしさが混じっていた。
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美顔パックの工程では、ユウが直接手を添えて示す。
「均等にのせましょう。額から下へ」
マリアは一つひとつの動きを、目で、指で、感覚で覚えていく。
エレノアは目を閉じながら、わずかに口元を緩めた。
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やがてパックを外し、化粧水をなじませる。
「……肌が変わってきていますね」
静かな声ながら、そこには確かな満足があった。
乳液で仕上げ、最後に首元へ柑橘の香水をほんの少し。
「過剰ではない、その程度で十分です」
「はい、覚えました」
マリアははっきりと頷いた。
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鏡を見つめながら、エレノアはゆっくりと息を吐く。
「……悪くないですわ」
それは控えめだが、確かな評価だった。
「ですが、これはまだ“途中”ですね」
「はい。三日前から継続して行います」
エレノアはうなずいた。
「お茶会の三日前から、毎日お願い、」
そしてマリアを見る。
「あなたも同席しなさい。今日のことを忘れないように」
「はい、喜んで……!」
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「いずれは、あなたが私を整える日が来るかもしれませんね」
その言葉に、マリアの頬がわずかに染まる。
「わ、私に……?」
「そうよ。ユウのもとで学ぶのなら、悪くないでしょう」
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薔薇の香りが、静かに空間を満たしていく。
そしてその中心にいるのは、二人の女性と、それを導く少年。
美しさを整える時間は、いつしか“窓辺の戦略”へと変わっていた。
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離れを出るとき、マリアは小さく息を吐いた。
「若様……とても勉強になりました」
「これからも一緒にやります」
「はい……精一杯、覚えます」
その瞳には、すでに“誇り”が芽生え始めていた。
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そしてエレノアは、廊下を歩きながら静かに言った。
「ユウ。あなたは本当に、私の人生まで変える気なのですね」
「はい」
それだけで十分だった。




