第十一話 初めての発動と、言葉にならない確信
第十一話 初めての発動と、言葉にならない確信
離れの庭に、朝の澄んだ空気が満ちていた。
草の先にはまだ露が残り、ひんやりとした気配が肌をなでる。
ユウ・ヴァルロードは、小さく息を整えて立っていた。
今日は、魔術の正式な発動を試す日だ。昨日覚えた詠唱を、実際に使う。
「緊張していますか?」
少し離れた場所から、マリアが控えめに声をかけてくる。
「いいえ。言われた通りにやるだけです」
そう答えたユウの表情は落ち着いていた。
感覚で動くのではない。ただ、言葉を正確に口にすればいい。
それがこの世界の魔法の在り方だった。
⸻
「準備はよろしいですか?」
セリオスが静かに問いかける。
「領域はこちらで確保しています。無理に意識を集中させる必要はありません。ただ詠唱を行ってください」
「はい」
ユウは一歩、前へ。
庭の風も、足元の感触も、今は意識の外へ追いやる。
頭の中には詠唱だけを残す。
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『アクア・ルーメ・フェリオ・サラン』
一音ずつ、確かめるように。
『アクア・ルーメ・フェリオ・サラン』
言葉が空気に溶けた瞬間、周囲の気配がほんのわずかに変わった。
音もなく、だが確かに空間が歪む。
次の瞬間――
ユウの前に、澄んだ水の球が生まれた。
拳ほどの大きさの水球が、静かに宙に浮かんでいる。
光を受けてきらめき、わずかに揺れていた。
「……発動、確認」
セリオスが短く告げる。
「成功です。詠唱は完全に正確でした」
「分かりました」
ユウは水球を見つめたまま、静かに答えた。
(これが……この世界の魔法)
自分の意志で形を作ったわけではない。
ただ言葉を口にしただけで、結果が現れている。
異世界ダイナリーの魔法とは、まるで別の感触だった。
⸻
セリオスは短い解除詠唱を唱え、水球は霧のように消えていった。
「本日は十分です。次は維持時間を延ばす訓練に入りましょう」
「はい」
マリアは、その一連の光景を息を詰めるように見ていた。
宙に浮かぶ水。消える瞬間。
けれど何より印象に残ったのは、それを見つめるユウの横顔だった。
静かで、落ち着いていて、六歳とは思えないほど理知的だった。
⸻
授業が終わり、庭には再び穏やかな空気が戻る。
ユウはひとり、水球の残した感覚を思い返していた。
言葉だけで発動する魔法。
意味のない言葉が力を生む、不思議な理。
(でも……)
胸の奥に、もうひとつの感覚がある。
⸻
夜。
離れの部屋には、ランプの柔らかな光が揺れていた。
外では虫の声が微かに響き、静けさが支配している。
ユウは机の前に座り、今日の詠唱を書いた紙を見つめていた。
『アクア・ルーメ・フェリオ・サラン』
意味は分からない。
けれど、確かに水は生まれた。
だが今、ユウが試そうとしているのは、それではなかった。
(……もし、こちらのやり方なら)
異世界ダイナリーで培った感覚を、静かに呼び起こす。
言葉は使わない。
詠唱も不要。
ただ、頭の中でイメージを描く。
澄んだ水。
指先を滑る感触。
冷たく、透明で、静かな流れ。
それと同時に、体内の魔力を意識する。
集め、形へと導く。
慎重に。
ゆっくりと。
⸻
やがて、ユウの掌の上に、小さな水の雫が生まれた。
詠唱なし。
ただ意思だけで形を成した水。
それは昼に見た水球とは、どこか感触が違っていた。
言葉による命令ではなく、導かれた結果。
(……できる)
確かな手応えがあった。
だが、これは誰にも見せられない。
この世界にとって、あまりにも異質な力だ。
ユウはそっと指を動かし、水を散らす。
雫は音もなく消え、夜の空気へと溶けていった。
⸻
詠唱の魔法。
イメージの魔法。
その両方を知るのは、今この世界でユウだけだ。
だが今はまだ、語る時ではない。
(ここでは、詠唱が正解だ)
そう心に刻み、ユウは静かに寝台へと身を横たえた。
窓の外では風がやさしく木々を揺らし、夜は静かに更けていく。
その眠りは、次なる成長への静かな助走だった。




