第十話 失われた言葉と、ユウの選ぶ歩調
第十話 失われた言葉と、ユウの選ぶ歩調
離れの窓から、やわらかな朝の光が差し込んでいた。
風は穏やかで、木の葉がわずかに揺れる音だけが外から届く。
ユウ・ヴァルロードは、机の前に静かに腰掛けていた。
今日から、魔術の授業が始まる。魔力の発現が確認されたことで、父の判断により魔術教師が招かれたのだ。
この世界では、魔法は誰にでも与えられるものではない。
どれほど貴族であろうと、魔力が発現しなければ一生無縁のまま終わる。
そしてユウは、その門の前に立つ資格を得た。
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「魔術教師の方がお見えです」
マリアの声に、ユウは小さく頷く。
「通してください」
扉が開き、ひとりの男が入ってきた。
年の頃は五十前後。落ち着いた雰囲気と、どこか理知的な眼差しを持つ人物だ。
「セリオス・アルヴェインと申します。本日より、ユウ様の魔術教育を担当いたします」
「ユウ・ヴァルロードです。よろしくお願いします」
短いが、きちんとした挨拶。
それだけで、この男が真面目に職務を果たす人物であることは十分に伝わってきた。
セリオスは机に一冊の古びた魔術書を置き、静かに口を開く。
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「まず最初に、この世界の魔法について説明いたします」
その声に、無駄な飾りはなかった。
「この世界の魔法は、失われた言語による詠唱で発動します」
「その言葉の意味は、すでに誰にも分かっていません。ただ決められた言葉を、決められた順で、正確に唱えることだけが魔法を起こす方法です」
ユウは、言葉を挟まずに聞いていた。
「なぜそれで魔法が発動するのか、その仕組みがどうなっているのか。それも解明されておりません」
「魔法とは、理解して組み立てるものではなく、ただ受け継がれた形を正確に再現する技術です」
その説明からは、この世界の魔法に対する距離感がはっきりと伝わってくる。
神秘でありながら、どこか“扱いづらいもの”として受け入れられている存在。
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「魔法研究も同様です」
セリオスは言葉を続ける。
「既存の詠唱の文字を並び替え、組み合わせを変え、偶然発動に成功したものが、新しい魔法として記録されます」
「意味を理解して作っているわけではありません。ただ成功した結果を残しているだけです」
つまりこの世界の魔法とは、理論ではなく“結果”によって成立している。
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その説明を聞いてから、ユウの胸の奥にひとつの感覚が浮かび上がった。
(……魔法か)
異世界ダイナリーで得た感覚が、静かに思い出される。
あちらでは、魔法はイメージだった。
思い描き、魔力を流し、形を整え、結果を導く――すべてが感覚の積み重ねだった。
だが、ここでは違う。
意味も分からぬ言葉が、すべてを支配している。
(まるで、まったく別の理で動いている世界だな)
だが、否定する気持ちはなかった。
ここはこの世界で、自分はここで生きていく。
合わせるべきなのは、この世界の方だ。
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「では、最初の詠唱を覚えていただきます」
セリオスは書を開いた。
「意味を考えようとする必要はありません。ただ音として正確に覚えてください」
『アクア・ルーメ・フェリオ・サラン』
「復唱を」
「……アクア・ルーメ・フェリオ・サラン」
言葉を口にした瞬間、胸の奥がわずかに反応した。
それは異世界ダイナリーによって鍛えられた、魔力に対する感覚だ。
冷たい水の気配。
澄んだ流れ。
だがユウは、それを外に出さない。
ここではそれは必要のない感覚だと理解している。
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「発音は正確です。十分に自然な詠唱です」
セリオスは淡々と評価した。
「詠唱は技術です。繰り返し、身体に染み込ませることで成立します」
「焦らなくて構いません。ただし、一音でも誤れば発動しません。それだけは覚えておきなさい」
「分かりました」
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部屋の隅で控えていたマリアは、その様子を静かに見つめていた。
聞き慣れない言葉を繰り返すユウの表情には、不安も戸惑いもない。
ただ静かに、言葉を受け入れている。
その姿を見て、マリアは小さく安堵を覚えた。
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授業が終わり、外の光がやや傾く。
「本日はここまでです。次回は、この詠唱による最初の発動を行います」
「分かりました」
ユウは静かに頭を下げた。
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夜。
離れの机に向かい、ユウは詠唱を書き写していた。
『アクア・ルーメ・フェリオ・サラン』
意味は分からない。
だが、確かに力を呼び起こしていると感じられる。
異世界ダイナリーによる感覚と、この世界の理。
両者は静かに重なりながらも、互いを否定しなかった。
(ここでは、これでいい)
そう心の中で整理し、ユウはもう一度、詠唱を静かに口にした。
意味なき言葉が、夜の空気に溶けていく。
それは、新しい世界での確かな第一歩だった。




