第九話 離れに流れ始めた新しい日常
第九話 離れに流れ始めた新しい日常
「――離れでの生活を正式に許可する」
静かな執務室で告げられたひと言は、思っていた以上に重みを持ってユウの胸に落ちた。
「今後の生活は、あの離れを中心に行え。学習も、休息も、日常もすべてだ。マリア・ベルモンドも引き続き付き従う」
「……ありがとうございます」
深く頭を下げながら、ユウは小さく息を吐いた。
ようやく、自分の居場所が“仮の場”ではなく“認められた場所”になったのだと、はっきり理解できた。
隣でマリアも静かに礼をする。
「引き続き、務めさせていただきます」
その声音は落ち着いていたが、わずかに緊張が混じっている。
同じ建物で暮らすというのは、使用人にとっても特別な意味を持つのだろう。
◇
離れに生活を移してから数日。
朝の光が差し込む部屋は、以前よりもどこか柔らかく感じられた。
空気が澄み、木の香りがほのかに漂う。
「……ここで生活するのですね」
マリアは部屋を見回しながら、小さく呟いた。
「落ち着かないですか?」
「いいえ。不思議と、居心地は悪くありません」
形式的な言葉ではない。だが過剰でもない。
ただ率直に、そう感じたのだろう。
◇
夜。
ランプの灯りの下で、ユウは改めて話を切り出した。
「これからの生活について、きちんと決めておきたいことがあります」
「はい」
「曖昧なまま続けると、後で混乱します。ですので、基本のルールを作りましょう」
「……承知しました」
そうして二人で話し合いながら、離れでの生活方針が定まっていった。
・ここでの生活と物は外に話さないこと
・食事は基本的に二人で取る
・入浴は毎日行う
・清潔を保つことを最優先とする
そして、ユウは少し言葉を選んでから続けた。
「マリアも、毎日お風呂に入ってください」
「……私も、ですか?」
「はい。ここでは、同じ空間で過ごす以上、同じ基準であってほしいと思っています」
マリアは一瞬だけ言葉を失い、それから静かに頷いた。
「……分かりました。そういたします」
◇
初めての共同の夕食。
湯気の立つ皿を前に、向かい合って座る。
「こうして並んで食事を取るのは、少し不思議ですね」
「ええ……ですが、不都合はありません」
「むしろ、静かで食べやすいです」
言葉は少なくとも、空気は穏やかだった。
ぎこちなさはあるが、嫌な緊張はない。
◇
生活の中で、はっきりとした変化が現れ始めたのは数日後だった。
異世界ダイナリーの知識をもとに作られた石鹸と洗髪液を使い続けるうちに、ユウは自分の肌の感触が変わっていることに気づく。
以前はわずかにざらついていた頬が、指を滑らせるとするりと通る。
乾燥して白くなることもなく、滑らかさが続いていた。
マリアも同様だった。
「……櫛が、引っかかりません」
髪を梳きながら、彼女ははっきりと口にする。
「前はこの辺りで絡んでいたのですが……今日は指が止まりません」
光を受けた髪には、薄い艶が浮かび、束にならず自然に揺れている。
「見た目も変わりましたね」
「はい。触れなくても分かるほどです」
◇
入浴も自然に生活へ溶け込んでいった。
「では、先にお入りください」
「お願いします」
ユウが湯から上がる頃には、湯気が心地よく部屋を満たしている。
「お湯、熱くありませんでしたか?」
「ちょうど良かったです。ありがとうございます」
その後、マリアも同じ湯に浸かる。
戻ってきた彼女の髪は、以前よりも柔らかく、素直に落ちていた。
「……身体が冷えにくくなりました」
「それも効果の一つです」
不必要な飾りのない会話だったが、確かな変化を共有している感覚があった。
◇
夜、ユウは窓の外を見つめた。
「……もうすぐ、六歳になります」
「そうですね。時間が経つのは早いものです」
「この生活も、すっかり馴染みました」
「はい。私も……この場所での動きには慣れてきました」
言葉に感情を込めすぎることはない。
だがそこには、以前よりも柔らかな空気があった。
決して距離が縮まりすぎたわけではない。
けれど、互いに“この生活を受け入れている”ということは、はっきりと伝わっていた。
◇
離れという空間は、ただの建物ではなくなっていた。
ユウにとっては、自分の考えと時間を落ち着いて積み重ねられる場所。
マリアにとっては、安心して務めを果たせる環境。
そしてその日常は、静かに続いていく。
もうすぐ迎える六歳という節目の、その一歩手前まで。




