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第6章:地球の残響 - 設計と旅立ち

6ヶ月前

アリス・ソーン博士のオフィスは、地球の自転が作り出す日の出とは無縁だった。壁一面を覆うディスプレイは、火星のモジュール構造シミュレーションを24時間体制で映し出し、その光が彼の疲れた顔を青白く照らしていた。ここはNASAの特別研究棟、人類が火星に築く初の「膨張式居住モジュール」、通称“レッド・ハブ”の心臓部だ。彼はこの計画の主任設計者であり、長年の夢と過去の失敗の影に囚われていた。

「ベクトラン繊維の張力は許容範囲内。微小隕石シールドの改良で、0.5mm径の衝突体に対する防御力は2.7%向上した。誤差範囲内だが、それでも積算すれば無視できない。」

アリスは独り言のように呟きながら、3Dホログラムで投影されたモジュールの断面図を拡大した。彼の指先が触れるたびに、内部のレイヤーが詳細に表示される。中心部には、堅牢ながら軽量なアルミニウム合金と炭素繊維強化プラスチック(CFRP)で構成された加圧フレームが、モジュールの骨格を成していた。この骨格が、折り畳まれた状態から、火星の過酷な環境下で安定した構造を保つための鍵となる。

そして、その外側には、幾重にも重なる外殻層が設計されていた。最内層は、火星の大気を完璧に遮断するポリウレタン系の気密内膜。これは、内部の空気を保持するための最も重要なバリアだ。そのすぐ外側には、高い耐圧性を持つベクトラン™の織物層とクロスラミネート構造が配されていた。これは、モジュールが完全に膨張し、内部圧力がかかった際に、その形状を維持し、火星の嵐にも耐えうる強度を提供する。

「レナ、このVectran™層の織り込みパターンについて、最終確認は取れたか?」アリスは通信ヘッドセットを装着し、隣の研究室にいる材料科学者のレナ・ペトロワ博士に問いかけた。

レナの声は、若々しくも確信に満ちていた。「ええ、アリス。何度シミュレーションしても、予測される内部圧力と外部からの風圧、そして万が一の微細な損傷にも対応できる冗長性を持たせています。特に二重気密層構造が、万が一の損傷でも即座の喪失を防ぐ最大の保証となるでしょう。」

レナは若干20代後半にして、このミッションの最も革新的な素材開発を牽引してきた。彼女の専門は、宇宙環境における高分子材料の劣化と、放射線遮蔽材だ。現在の彼女の関心は、次なる層、断熱・防護層(多層断熱材MLIと耐熱コーティング)、そして最も重要な放射線遮蔽層にあった。

「放射線遮蔽層については?」アリスは核心を突いた。火星での長期滞在を可能にするには、宇宙線や太陽フレアからの放射線からクルーを守ることが不可欠だ。

レナは少し息を飲んだ。「水バッグとポリエチレンインサートの併用で、現在の技術では最善の防御を提供できます。特にポリエチレンに含まれる水素(CH₂構造)は、銀河宇宙線(GCR)の遮蔽に非常に有効であることが、これまでの研究で示されています。高Z重金属よりも好ましいのは、セカンダリー放射線の発生が少ないからです。ただ、その水バッグの補給をいかに火星で持続可能にするか……そこは今後のISRU頼みですね。」

彼らの会話の背後には、このミッションにかかる計り知れないプレッシャーがあった。失敗は許されない。数兆ドルもの資金と、選ばれしクルーの命がこのコンパクトに折り畳まれたモジュールに託されているのだ。

ミッション司令官のエヴァ・ロストワは、この設計チームの議論を、彼らが気づかないところで常にモニターしていた。彼女は元戦闘機パイロットであり、数々の危険なミッションを経験してきた。その冷静な判断力と、困難に直面した時の揺るぎない精神力は、クルーの誰もが信頼を置くものだった。彼女の視点から見れば、アリスの技術的な完璧主義と、レナの革新的なアプローチは、火星という未踏の地で生き残るために不可欠な要素だった。

数週間後、モジュールは最終的なテストを経て、打ち上げ準備のため、フロリダのケネディ宇宙センターへと輸送された。巨大なSpaceXのスターシップのペイロード部に、その巨大な「コンパクトな巨人」は巻き込み格納された。その質量は5トンから8トン。展開すれば100立方メートル前後の居住空間となる。この数値が、アリスとレナの何年もの血と汗と涙の結晶だった。

打ち上げ前夜、アリスは妻のサラと最後のビデオ通話をしていた。サラは、不安を隠すように微笑んでいた。「アリス、あなたが信じているのなら、きっとうまくいくわ。」

アリスはディスプレイの向こうの妻の手を握るように、自分の手をモニターに押し当てた。「ああ。必ず成功させる。君の待つ地球へ、火星に人類の足跡を刻んで、必ず帰るよ。」

エヴァ司令官は、出発前のクルーブリーフィングで、静かにしかし力強く語った。「我々は、人類がこれまで到達したことのない場所へ向かう。そこは過酷で、予測不能な環境だ。しかし、我々には最高の技術と、何よりも互いがある。この『レッド・ハブ』は、単なるシェルターではない。それは、人類の希望、未来への扉だ。我々は、その扉を開く。」

そして、打ち上げの日が来た。


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