第10章:火星の日常 - 居住と適応
レッド・ハブの白いドームは、火星の赤い大地にしっかりと根を下ろし、その内部には人類が生きるための環境が整えられていた。しかし、本当の挑戦はここから始まる。この閉鎖された空間で、クルーたちは火星での「日常」を築き上げなければならなかった。
「おはよう、アリス。今日の植物栽培モジュールのデータは?」
レナ・ペトロワの声が、朝食を摂るアリス・ソーンに届いた。レナは既に、モジュール内の植物栽培ユニットの前でタブレットを操作していた。このユニットは、彼らの食料と酸素の一部を供給する、生命維持システムの重要な柱だ。
「順調だよ、レナ。レタスとほうれん草の成長は予測通り。トマトも結実し始めている。」アリスは、合成栄養剤の入ったチューブから朝食を摂りながら答えた。味気ないが、栄養は満点だ。
レッド・ハブ内部は、地球の環境を模倣するように設計されていた。内部圧力は地球の海面気圧に近い8〜10psiに保たれ、酸素濃度は21%。温度は常に**20〜24℃**に維持されている。壁には、地球の風景を映し出すディスプレイが埋め込まれ、心理的なストレスを軽減する工夫が凝らされていた。
クルーの日常は、厳格なスケジュールに沿って進められた。午前中は、科学実験とシステムメンテナンス。午後は、ISRU(現地資源利用)による水や酸素の生成、そして将来の拡張に向けた準備作業だ。
エヴァ司令官は、モジュール内のあらゆる場所を監視し、クルーの健康状態と精神状態に細心の注意を払っていた。彼女の元戦闘機パイロットとしての経験が、この閉鎖空間でのリーダーシップに活かされていた。
「アリス、今日の午後は、外部の太陽光発電アレイの清掃と、RTG(放射性同位体熱電気発生器)の点検を頼む。火星の塵は厄介だ。」エヴァが通信機越しに指示を出した。
「了解、司令官。レナ、君は水精製モジュールのフィルター交換を頼む。」アリスはレナに声をかけた。
火星の塵は、彼らにとって最大の敵の一つだった。微細な粒子が、あらゆる機械の隙間に入り込み、故障の原因となる。太陽光発電パネルの表面を覆い、発電効率を著しく低下させる。そのため、定期的な清掃は欠かせない作業だった。
アリスは、与圧服に身を包み、エアロックへと向かった。外に出ると、赤い砂嵐が微かに吹き荒れていた。視界は悪く、ヘルメットのライトがなければ足元もおぼつかない。彼は慎重に、太陽光発電アレイへと近づき、ロボットアームを使ってパネルの表面を清掃した。塵が舞い上がるたびに、ヘルメットのバイザーに付着し、視界を遮る。地味で、しかし極めて重要な作業だった。
モジュール内部では、レナが水精製モジュールのメンテナンスを行っていた。火星の地下から汲み上げられた氷は、ここで不純物を取り除かれ、飲料水や生命維持システムに供給される。
「フィルターの目詰まりがひどいな。やはり、レゴリスの混入は避けられない。」レナは呟きながら、汚れたフィルターを取り出した。ISRUは彼らの生命線だが、その維持には絶え間ない努力が必要だった。
夜、クルーたちは共有スペースに集まった。地球との通信は、光速の限界により、片道数分から20分以上かかる。リアルタイムの会話は不可能だ。彼らは、録画された家族からのメッセージを見たり、地球のニュースを読んだりして、遠い故郷との繋がりを保っていた。
「今日の地球のニュース、見たか? 新しいスポーツリーグが始まったらしい。」
「へえ、火星にいる間に、地球はどんどん変わっていくな。」
そんな会話が交わされる。彼らは、地球から切り離された存在ではない。人類の代表として、この惑星に新たな足跡を刻むためにここにいるのだ。
アリスは、壁のディスプレイに映し出された火星の風景を眺めた。赤い大地、遠くに見えるクレーター。そして、その中に輝く白いドーム。それは、彼らが築き上げた、小さな生命の要塞だ。
火星での生活は、決して楽ではない。常に危険と隣り合わせであり、単調な作業の繰り返しだ。しかし、彼らは適応し、それぞれの役割を全うしていた。レッド・ハブは、単なる居住施設ではなく、彼ら自身の精神と肉体の強靭さを試す場所でもあった。
そして、彼らは知っていた。この小さな要塞が、やがて火星全体に広がる人類の文明の、最初の種となることを。