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大公世子の事情


 フリードは生まれたときから次期大公とされていたわけではない。

 彼が生まれたときにはすでに世嗣ぎの兄があった。

 大公、つまりフリードの父の最初の妃は、男児を産んだ数日後に息を引き取った。

 世継ぎの公子が健康に育ったのは不幸中の幸い、とみなが言った。

 二人目の大公妃の父もそう言って、義理の関係とはいえ孫であるとして、幼い大公世子を支持する姿勢を見せた。娘が男児を生んでからも、それは変わらなかった。

 そう、誰の目にも映っていた。


 現大公妃の父は侯爵位を持つ人物である。

 そのくらいのことは、下町の食堂の娘だった頃からミーナも知っていた。

 フリードの外祖父に当たる侯爵は、柔和な笑みに野心を巧妙に隠し持つ貴族であった。

 己が娘の生んだ公子を大公とするためには、前大公妃の忘れ形見は邪魔である。

 誰もが思いつく利害関係を意識せず、本当の祖父であるかのように幼い大公世子に接した。

 娘である大公妃には、己が分をわきまえ世嗣ぎの君を大切にするよう事あるごとに言い聞かせ、孫であるフリードには、異母兄を立てるよう諭した。

 大公家と縁続きになれただけで望外の幸せであるとして、そう振る舞う人物であったのだ。



 前大公妃の実父はすでに亡く、その跡を継いだ大公世子の伯父に当たる人物はぱっとしない若造であった。

 であるから、侯爵は母も頼りになる後ろ盾もない大公世子の生活にも、実の孫へ以上に濃やかに気を配った。

 気の利く世話係に高名な教育者。大公も安心して、侯爵に息子の生活を委ねた。

 その結果、数年後には我儘で愚鈍な大公世子と、優秀な弟公子の構図が出来上がったのだ。

 数多くの生徒を育ててきた教育係は、どのようにすれば幼子が世間の求める貴公子に成長するか熟知していた。

 その通りの方法で、弟公子を教え導いた。

 そしてそれとは真逆のやり方で、大公世子を導いた。

 気の長い侯爵は、生まれた子が十年育つ時間を待つくらい、なんとも思わなかった。

 たった十年。

 四十代の侯爵が、五十代になるだけのこと。

 たったそれだけの時間で、三歳の大公世子は愚鈍なのに尊大、残虐な性格を持つ醜悪な少年に成長する。

 同じだけの時間をかけた弟公子は、幼いながらも文武に長けた慈悲深い少年になるのだ。

 すべて、侯爵の計画通りに進んでいた。


 悪評ばかりの兄公子は、その日珍しく乗馬の練習をしようと言い出した。

 実力以上の自尊心を持つ少年は周囲の言葉に耳を傾けることなく、好きなように馬を選び自分勝手に乗りこなそうとした。

 すべて、侯爵の息のかかった世話係に巧妙に誘導されていると気づくことなく。

 そうして気の長い侯爵の計画は、彼の評判を少しも疵つけることなく成ったのだ。


 落馬により人前に出られぬ身体になった兄公子に代わり、フリードが大公世子の座に就いた。

 愚鈍といわれた兄公子は、弟には優しかった。

 フリードは兄の身に起こったことを嘆き、兄の代わりを務めることが彼のためであると周囲に諭されて、健気にもうなずいた。

 可哀想な兄のためであるのだと、祖父に言い聞かされた。

 だからフリードはそれ以来、幼い子の心を捨て去り、政務に邁進することにした。

 実の母の葬儀のときですら、彼は涙ひとつこぼすことなく立派な大公世子の姿を周囲に見せ続けた。


 フリード様は心の優しい方でした。

 ローラはそう繰り返した。




「ミーナはまた背が伸びたみたいだね」

 十四歳になったミーナに、フリードは微笑を見せて手を伸ばした。

 彼女の頭に載せられそうになったその手は、亜麻色の髪に触れることなく止まった。

 ローラがふたりの間に割って入り、ミーナは自然に斜め後ろに退がったのだ。

「?」

 若者ふたりの視線を受けて、初老の女性は口を開いた。

「未婚の女性にみだりに触れてはなりません」

 守るべき世間の規範である。

 が。

「ミーナは僕の婚約者なんだが」

 頭を撫でるくらいいいだろう、と言外に抗議する主に、ローラは重々しく宣言する。

「未婚の女性です」

「そうだけど」

「ウェーナー卿。あなたもミーナ様の護衛騎士として、自覚ある行動をお願いします。ミーナ様に触れようとする男性がいたら、すぐに引き離してください」

「…………はい」

 暫しの逡巡ののち、ウェーナーはローラの言い付けに頷いた。

「ローラ、それはもしかして僕からも、という意味かい?」

「当然です。ウェーナー卿はフリード様がミーナ様にお付けになったのでしょう。問題はないですね?」

「……そうだね」

 十四歳のミーナは、ローラに逆らいはしないものの、ただ疑問に思って訊ねた。

「えすこーととか、ダンスとかは?」

「人前で、節度を保った接触、を心掛けてくださいませ」

「……はーい」

 その日のお茶の時間、ローラはずっとミーナの傍らに立ってフリードを厳しい目で見ていた。

 公国で二番目に偉いはずのフリードは、その視線に気圧されっぱなしだった。


 フリードがいつも通りの時間に席を立つと、ローラは再度ウェーナーに釘を刺した。

「今日わたくしが申し上げたこと、お忘れなきよう願いますね」

「……はい」

「ミーナ様もですよ。婚約者だろうとなんだろうと、殿方にあまり近づかないようお気をつけくださいませ」

「? はい」

 ミーナは首を傾げたいのをこらえて、素直にうなずいた。

 歳上の女性の言うことは間違いないから従っときなさい。というのが母の言い付けだ。

 男の言うことは基本無視しな。ろくなことにならないからね。

 そのときのミーナはふーん? と言うだけだっが、母の言い付けに従うべき場面な気がしたから、そうしておいた。

「ミーナ様はまだ分からなくてもいいのですよ。ただ、ミーナ様はご自分を大切になさること、ウェーナー卿はそれをお助けすること。それだけを守ってくだされば」

「よく分からないけど、でも、はい」

 ローラはかすかに微笑んで、次の講義へとミーナを追い立てた。

「さあさ。しっかりお勉強してきてくださいませ」

「はあい」

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