逃亡の後始末
ミーナの逃亡はなかったことにされた。
長時間無断で姿を消したことに関しては、ウェーナーがひと言で片付けてしまったのだ。
ヴィルヘルミーナ様が、かくれんぼしたいとおっしゃったので。
真面目腐った顔でそんな報告をした彼を、フリードは笑顔で眺めていた。
その美しい顔が怖いと思ってしまったミーナは、おずおずと頭を下げた。
「ごめんなさい。退屈しちゃって」
大公世子宮に帰ると騎士や使用人たちがミーナを探しまわって大騒ぎになっていた。
やべえな、と呟いたウェーナーは小さく畳んで持っていた麻袋を広げた。ミーナにお入りください、と言い、うわあと言いながらも従った彼女ごと麻袋を担ぎ上げて使用人の通用門から入宮した。
適当なところで彼女を袋から出すと、今度はお姫さま抱っこで騒ぎの中心部に堂々と歩いていく。
見つかった、と騒ぐ周囲の人々に何事ですか、とすっとぼけていたところにフリードが駆け付けてきたのだ。
「童心にかえって遊んでみたと?」
フリードは笑顔のまま詰問口調になった。
「……はい。心配かけてごめんなさい」
ふうん、と呟いた婚約者は、小首をかしげてなんでもないことのようにこう言った。
「ウェーナーは君の護衛から外すべきかな」
「だめ!」
ミーナは反射的に叫んだ。
それはきっと、罰を与えるという意味だ。ミーナのせいで、優しく頭を撫でてくれたウェーナーが罰せられる。
「彼の仕事は君と遊ぶことじゃない。職務を逸脱した者をそのままにするわけにはいかないんだよ」
「彼はあたしの話し相手って言った! それって遊んでくれるってことでしょう。だからウェーナーは言うこと聞いてくれたのに」
「この騒ぎにも気づかず? ミーナ、僕は心配していたんだよ」
笑顔を崩さないフリードを見上げて、ミーナは唇を噛んだ。
何故ウェーナーは黙って罰を受けようとしているのだ。あいつに逆らうな、と言った。自分もそうするつもりなのか。
「…………あたし、隠れるのが上手いの」
「うん?」
「みんな見つけられなかったでしょう。ウェーナーだけがあたしを見つけた」
「……そうみたいだね」
「ウェーナーがいなくてもいいの? これからかくれんぼしたくなったあたしを、誰が見つけるの?」
ぶはっと吹き出したのは、誰だっただろうか。
ミーナの後ろ側に立つウェーナー? それとも破顔したフリード?
「……確かに。わたくしたちでは無理かもしれません」
ローラだったかもしれない。
幼いフリードの世話係をしていたという、下級貴族の婦人。最初は無表情で怖かったけれど、今のミーナに優しくしてくれる数少ない女性。
「……ローラ」
「お若い方の奔放さには、わたくしのような老体ではついて行くことが難しゅうございます。殿下におかれましては、寛大なる御采配をお願いいたします」
新しい噂が流れた。
その噂は紳士淑女が集まる場で、面白おかしく語られた。
大公世子の新しい婚約者の奔放さには、世話係も手を焼いているそうだ。
大公世子が付けてくださった護衛と黙って行方をくらませたって。
まああ、それって。
そういうことなんだろうよ。まだ見習いの騎士に手を出すとはな。
そんなことがあっても、大公世子の愛は変わらないそうだよ。
純粋な方だから。
恋は盲目とはよく言ったものだ。
大公世子様はどうなってしまわれたのかしら。
あんな素晴らしい世嗣ぎの公子を夢中にさせる女とはどれほどの美女なのかしら。
フリードはローラに頭が上がらないという話だ。
お優しい方ですからね、そういうことにしてくださっているのですよ。とローラは言った。
「黙って出て行ってごめんなさい」
長時間外に出ていて汚れた、とは思っていないミーナが着ていた服は没収され、ごしごしと体を拭かれた。
若い女の人たちにドレスを着せられ、彼女たちが出て行ってから、恐る恐る謝罪の言葉を口にしてみる。
「ええ。もうこのようなことはおやめくださいね」
「はい」
しゅんとしてしまったミーナを、ローラは無表情のまま、だけどよく見たら優しい目で見た。
「今日は楽しゅうございましたか?」
あんまり楽しくなかった。
家族に会いに行ったのに、もう二度と会えなくなったことを知った。
だけどそうだな。麻袋に入れられ、ウェーナーに担がれて移動したのはちょっとだけ楽しかったかもしれない。イタズラをしているみたいでワクワクした。
それ何が入ってるんだ、と訊かれた彼は、ジャガイモ、とぶっきらぼうに答えていた。誰がジャガイモだと小声で文句を言うと、重い動くな、との文句が返ってきた。
「うん。ちょっとだけ」
「ようございましたね。次の遊びにはわたくしもお誘いくださいな」
声が優しい。
どうしてだろう。
ローラには、初めて会ったときから嫌われていると思っていた。なのに彼女は最初からミーナに対して親切で、最近ではこうして優しい顔を見せてくれる。
「ローラさん、お母さんみたい」
「まあ。光栄ですわ。わたくしはミーナ様のお母さまになれるほど若くはありませんけどね」
「そうなの?」
十八歳でミーナを生んだ母よりも、少しだけ歳上かなくらいにしか見えないが。
「そうですよ。もうすぐお祖母ちゃまと呼ばれるようになります」
「赤ちゃんが?」
「ええ。遠方に嫁いだ娘がおります。大事な娘です。ですから」
いつも堅苦しい態度を崩さないローラが、母のような顔をしてミーナの頬を撫でた。
その哀しい顔を見たら、我慢できなくなってぎゅうっと彼女に抱き着いてしまった。
「うん。分かった。分かってるよ。ありがとう、ローラさん。あたしなら大丈夫」
抱き返してくれる腕は、うっとりするほど優しかった。
彼女はきっと、優しいお母さんだった。今でもお母さんだから、偉い人に逆らって、娘まで責められるような事態になったら困るのだ。
彼女はフリードの口車に乗せられ、自ら望んで来たミーナの愚かさに嫌悪を覚えた。けれどその世話をするうちに、幼い彼女に情が湧いてしまったのだ。
それでも、子どもを産もうとする実の娘に害が及ぶ可能性を恐れて、ここから逃げ出したいミーナの手助けをすることはできない。
ミーナの母も、きっとそうする。ミーナのためなら、他人を犠牲にする選択をすることも厭わないはずだ。
だから両親はいなくなってしまったのだ。ミーナと同じくらいに大切な、もうふたりの子を守るために姿を消した。
手の届かないところへ行ってしまった愚かな娘のことは泣く泣く諦め、残された子にまで害が及ばないうちに。
「あなたは賢い子ね。その調子で学びなさい。自分の目で見て自分で判断するの。そうできるだけの力をつけるのよ」




