逃亡
「意外とチョロかったな」
フリードにもらった髪飾りを持って、部屋の掃除をしてくれる女の人に交渉してみた。
みんなには内緒で、これと着古したお洋服を交換してもらえませんか?
喜んで交換に応じてもらえた。
城勤めの女性の服は、ドレスのような煌びやかさはないが、ミーナが実家で着ていたものよりよっぽど上等だった。なんというか、ちょうどいい。
嫁ぎ先で幸せに暮らしているよ、と両親を安心させられそうだ。次期大公のお妃様になるなんて、馬鹿馬鹿しい話はできない。
目立たない服が手に入れば、あとは簡単だ。
部屋を出るときにはしっかり化粧をするのが淑女の嗜みだと言われ、念入りな化粧と胸に詰め物をするのが日課だった。
素顔に着古したスカートを着たミーナは、誰にも見咎められることなく城を出ることができた。
ローラがいなくなった隙に部屋の外を窺って、ひと気がないことを確認してからさっと出る。そこからは事前に確認しておいた掃除婦の通る道をうつむき加減に歩くだけでよかった。
その先は知らない道だが、厨房で積み荷を下ろす農夫を見つけて後をついて行った。
使用人が使う通用門を抜けて少し歩くと、そこからはもうミーナがよく知る街だ。
がやがやとやかましい街。人々が働き、喋り、生きている街。
見知った光景に、自然と足取りも軽くなっていく。
目抜き通りを真っ直ぐ歩いて、靴屋を右に曲がって次は左。
そこに、ミーナが生まれ育った自宅兼食堂が、あるはずだった。
まだ昼食を食べている客が残っている時刻だ。
なのに店の扉は閉じていた。
中からはなんの音もしないし、美味しい匂いも届かない。
ミーナは動かない把手を掴んだまま、茫然とその場に立ち尽くした。
(なんで?)
何故、店が閉じているのだ。
ミーナの知る限り、両親が昼食時に店を閉じたことは一度もない。
夕方は腹が減ってもあとは寝るだけだ。昼食を喰いっぱぐれたら午後から働けなくなるだろう。
そう言って毎日毎日、ミーナたち自分の子どもが産まれるってときにも店を開け続けたんだと、自慢していた。
なのに。
「……なんでえ?」
ミーナの嗚咽混じりの呟きには、いつからか後ろに立っていたウェーナーが答えた。
「おまえの家族はもうそこにはいない」
彼はいつものように無愛想に淡々としていた。
「なんで……」
「分からないのか」
「分かんないよ。なんであたしに黙って」
「おまえが。……あなたが、次期大公殿下の婚約者となったからです」
ウェーナーは容赦無くミーナに現実を突き付けた。
おまえのせいで、おまえの家族の生活は壊れた。
彼はそう言っているのだ。
「じゃあもうやめる! 婚約者なんかやめて、お父さんとお母さんのところに帰る!」
十三歳よりももっと幼い子どもが癇癪を起こすように、ミーナはそう宣言した。
彼女の言葉には、なんの効力も生じないというのに。
「……城に帰りましょう」
「いや!」
「ヴィルヘルミーナ様」
「あたしはそんな名前じゃない! ただのミーナだよ。ウェーナーだって知ってるでしょう」
「帰りましょう」
「うるさい馬鹿! ウェーナーのばか!」
「……担がれるのと引き摺られるのと、どっちがいい。選ばせてやる」
うんざり顔のウェーナーが低い声で脅しをかける。
ミーナが涙目で見上げると、彼は顔をしかめ溜息をついて短い焦茶の髪をぐしゃぐしゃとかき回した。
いつも無表情で感情を表に出さない彼のそんな仕草は久しぶりに見る。
そんなのどこで見たんだっけ、と少し考えて、この店の中だったと思い出す。思い出したらまた泣きそうになってしまった。
「家に帰りたい」
「……帰ろう」
「お城はいや。あそこはあたしの家じゃない」
父と母、うるさい弟と妹。家族のいる家に帰りたい。
動くたび喋るたびに注意が飛んでくる城にはもううんざりだ。
いつどうやって笑うか、食事のときにはどのくらい口を開けるか、どんな話題を選ぶか、そんなことまで決められた通りにしなければならない場所にはもううんざりだ。
会いたいときに家族に会えない。それを禁じる婚約者も、滅多に顔を見せてくれない。
「そんなこと言ってももう遅い」
「なんでよ。あたしはまだ十三歳だから、正式な婚約はできないってフリードが言ってた」
「我儘を言うな」
歳上の少年ににべもない対応をされたミーナは、我慢することを放棄して泣き出した。
小さな子みたいに泣き声をあげて、その合間に積もり積もった不満をぶちまけてやった。
「ワガママはそっちじゃない! あれやれこれやれ、それはやるな! 毎日毎日毎日毎日! あたしが何やろうとあたしの勝手でしょ!」
「帰るぞ」
ウェーナーの言葉に、ミーナは意地になってその場にしゃがみ込んだ。絶対に動かないと決意をこめて、ぎゅうっと身体を縮こませる。
「ひとりで帰れ! あたしの家はここだもん!」
「……ミーナ」
泣き喚く少女を顔を歪ませて見ていたウェーナーが、小さな声でミーナの名を呼んだ。
「……そうだよ。あたしはミーナだよ」
泣き声が小さくなる。
「ミーナ」
その代わりに、ミーナを呼ぶ声が先ほどよりも大きく、はっきりとして聞こえた。
「うん」
「ミーナ。帰るぞ」
「…………やだ」
いやいやと首を振るミーナの前で、ウェーナーが膝をついた。
ちらっと視線を上げると、頭の上に大きな手が降ってきた。そのまま髪をぐしゃぐしゃにされる。
なんだこれは。無愛想、鉄面皮なウェーナーに頭を撫でられているのか。
「ガキか。いい加減泣きやめ」
慰められた?
「ガキでいい。あたしまだ子どもだもん」
「そうだったな。ガキなら仕方ない。おぶってやるから。ほら、乗れ」
ウェーナーは自分の弟か妹にでもするかのように、しゃがんだまま背を向けた。
立ち上がったミーナは、その背中を蹴っ飛ばした。