魔女
フリードはミーナの元を訪れなくなった。
授業の時間だと、彼女を呼び出す者もいなくなった。
大公世子の住む宮殿内に与えられたミーナの部屋の周辺には誰も近寄らず、しんとする日々が続いている。
ひそひそひそひそ。
毒婦ヴィルヘルミーナの噂話は、ひそめた声で広められていった。
フリード様がおかしくなってしまった理由を聞きまして?
あの女のせいでしょう。今更何よ。
そう! あの女、いえ、あの魔女のせいで。
魔女?
あまりにも異様な状況だと、教会が動くそうよ。
異端審問官が?
すぐにでも裁判にかけられると聞いたわ。
教会の声に、フリード様も目を醒まされたらしいのよ。近頃では、あの女の部屋には近寄らなくなったんですって。
それならもう安心ね。フリード様が魔女の手に堕ちる前に助け出されたのなら。
でも少し遅かったみたい。大公様も貴族の声を抑えられなくなったって。
フリード様は、大公世子の座から降ろされるそうよ。
嘘!
本当よ。でもどうかしら。あの魔女が捕まったら、大公様も考え直されるかもね。
そうね。きっとそうなるわ。魔女裁判に掛けられて助かった魔女はいないのだから。
ええ。これであの魔女はもうおしまいよ。
異端審問にかけられた魔女に待つのは、死のみなのだから。
噂は、部屋に閉じ籠るミーナの耳にまで届かなかった。
婚約者を名乗るフリードは彼女を訪う習慣をなくしてしまい、立派な淑女になれと授業を強制されることもなくなった。
宮殿は相変わらずミーナにとって恐ろしい場所でしかなかったから、理由がなくなれば部屋から出ようとも思えなかった。
ローラもいなくなってしまった。十二歳のときからずっとそばにいてくれた彼女は、ミーナの侍女ではなくなったようだ。
ただ定期的に、寡黙な使用人が食事を運んでくる。だから部屋の外を嫌うミーナは外に出る必要性を感じず、ずうっと部屋にこもったまま過ごしている。
自分で自分のことをするのは久しぶりだ。だがやり方はちゃんと覚えている。
置いていかれる食事は給仕無しで食べられるし、気合いの入ったドレスでなければ、着替えも自分ひとりでできる。
十六歳のミーナは、そうやって何日も何日も、独りで過ごした。
朝日が昇れば肌着のまま寝台から起き上がり、比較的楽な作りのドレスを着る。人目がないからコルセットは必要ない。下町で暮らしていた頃のように、楽に息ができる格好で一日をはじめる。
店や家事の手伝い、弟妹の世話をしなくなって四年になる。その四年間で強制された淑女教育もなくなってしまった。
朝起きても、ミーナにはすることがない。
最初のうちはダラダラと寝台に横になったり、部屋にあった本を眺めたりして過ごしていた。
そんな日々にはすぐ飽きた。
幾日もしない間に、ミーナは動き出した。
衣装の山から比較的地味なドレスを選び、装飾をひとつずつ外して更に目立たないものにしていく。ミーナにとってそれは、そう難しい作業ではなかった。
針仕事は幼い頃から母に仕込まれているし、刺繍は淑女らしい趣味といえるからとこちらに来てからもたまにやっていた。
完成した目立たない服を着て、久しぶりに部屋の外に出た。
化粧のやり方はもう覚えた。大公世子宮で働く女官に似せたから、すれ違う人に訝しがられることはなかった。
大公世子宮で働く人々の様子は、ミーナが引き篭もる前と変わらない様子だった。
(あたしなんかいなくても、誰も気にしてない)
ミーナは、自分が人々にどのように噂されているのか、なんとなくだが分かっていた。
品行方正な大公世子の唯一の汚点。
男を惑わす稀代の悪女。
国を乱す毒婦。
(そんなこと言われてもな)
十二歳のときに騙されるようにして連れて来られた。
今ならあれは、誘拐と言っていいものだと分かる。
十六歳になったミーナは、十三歳の誕生日以来一度も大公宮の敷地から出ていない。敷地はちょっとした村のような規模があったから、監禁とか軟禁とかいう言葉は似合わないかもしれない。
だが彼女の気持ちはそのようなものだ。
与えられた部屋から外に出ると、ミーナの逃亡を阻止したいフリードの命を受けた目があちこちから向けられる。
この四年間でまともに口を効いたことがあるのは、フリード、ローラとウェーナーの三人だけだ。
下町で暮らしていればあったはずの、年頃の娘らしい試練も楽しみもなく、幼いまま育ってしまった。
フリードの訪いがなくなってから、監視の目から緊張感がなくなった。
元より部屋の近くに配置された人員はない。ミーナに与えられた部屋を出るところさえ目撃されなければ、どうとでも誤魔化せた。
彼らが監視しているのは派手な衣装と化粧の妙齢の女性ヴィルヘルミーナだから、地味な格好をした少女が歩いていても気にも留めなかった。
男ってのは女の何を見てるのかね?髪型が変わっても気づきゃしないくせに、髪と服と化粧まで変えたら、今度はそれが自分の女房だってことに気づかないのよ。
お母さんの友達のおばさん。そんなことを言って笑ってたっけ。
妹の結婚式があるからと張り切ってオシャレをしたら、旦那さんに目の前を素通りされたんだって。
ひと目で上等な生地と分かるドレスを着たミーナだが、貴人の相手をするのが仕事の高級侍女や女官たちと話をするのは怖い。だからそういった人々に馴染めない新米侍女のような顔をして、下働きの女性と話をした。
うまくやれなくって、と泣きそうな顔をする若い娘に女性たちは同情して、世間話の仲間に入れてくれる。
大公世子様は、ようやく目を醒まされたそうよ。
近頃では女の元に通うことをぱったりやめてしまったって。
あなた偉い人の侍女なんでしょう。詳しい話を聞いてないの?
話を振られたら、ミーナは曖昧に首を振る。
「さあ。わたしは最近来たばかりだから、そのひとのことはよく知らなくて」
下働きの者までこんなふうに熱心に噂を気にするのは何故だろうと、思いながらミーナは聞き役に徹する。
聞いたこと、見たことくらいはあるでしょう。
背が高くて、子どものような細い腕、そのくせ胸と腰だけは立派な形の、男を惑わすためだけにいるような女。
大公世子様のご寵愛を見せびらかすように、お茶会でも夜会でもべったりなんですって。
へえ、しかミーナは言えない。
そういうふうに見えるように、わざと振る舞っていた。フリードの望みどおりに動けば、彼の機嫌がよくなるから。
だけど、知らないところで悪し様に言われているのを目の当たりにすると、自分のしていたことが恥ずかしくなってくる。
その女がね。
洗濯の手を休めることなく、女性たちは噂話を続ける。
魔女なんじゃないかって。




