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疑惑

 ミーナの受ける講義は、多岐にわたった。

 十二歳のときには、主に礼儀作法。付け焼き刃でもいいから、最低限大公宮を歩けるように、というのが講義の目的だったのだと、今ならなんとなく分かる。

 上半身を締め付けるドレスや踵の高い靴で歩くことに慣れ始めると、淑女の基礎教養だとして、ダンス、外国語、地理の基礎、刺繍、音楽、詩の暗誦、チェスなどの練習も加わった。その他色々。

 これ必要? と言っても、必要です、と返されて、不思議な講義も受けさせられた。

 計算なら結構得意だよ。と言ったけれど、それは必要ない、と切って捨てられた。役に立つ特技なのに。


 ミーナの特技や好きなことはすべて無視され、それらはむしろ隠すことを求められた。

 そうやって少しずつ少しずつ、ミーナはいなくなっていく。

 ミーナの代わりにヴィルヘルミーナがドレスをまとい、優雅な挙措で微笑むのだ。

 十五歳になる頃には、生まれながらの淑女のような顔をするようになる。

 茶会にも夜会にも、フリードは淑女の振りをするミーナを伴って出席した。

 陰で彼女を毒婦と噂する人々も、実際にその姿を見ると、感嘆のため息を漏らした。

 大公世子は三年かけて、下町の子どもを誰もが振り返って見る貴婦人に育て上げた。

 ただ、彼の目的を達成する、そのためだけに。



 お可哀想な婚約者様!

 由緒正しい貴族の家のお姫さま。

 貴婦人にとって最も重視される美しさだけでなく、教養も兼ね備えた完璧な大公妃になるだろうとされていたお姫さま。

 彼女は八歳のときに、大公世子の婚約者に内定した。

 三歳差の幼いふたりは仲睦まじく、周囲の大人は喜んだ。

 長じるにつれて評判が悪くなっていく大公世子を、婚約者は幼いなりに優しく健気に支えた。大公世子もそんな彼女の言うことには耳を傾け、正しく導かれていればかくあったであろう姿に近づこうとしていた。

 その矢先の事故であった。

 両脚を傷めた十三歳の大公世子は、この先一生立ち上がることはできないだろうと診断された。

 老人でもないのに、己の足で立つことのできない大公などあり得ない。諸外国からも舐められよう。

 ならばどうするか。

 大公世子を替えればいい。

 愚鈍な兄公子よりも立派に育つ弟公子。

 憐れな姫君は幸いまだ幼く、新しく立った世嗣ぎの君と同じ年齢である。

 見目良い公子と並ぶ姿は一対の人形のようで、いかにも似合いのふたりであった。

 こうなってしまって、かえって良かったのかもしれぬ。

 そう思った婚約者の両親は、娘の将来の伴侶が兄から弟に替わることにあっさり同意した。

 醜聞らしい醜聞にもならぬ、当事者たちが幼いみぎりの話であった。



「フリード様は、わたくしに何を求めているのですか?」

 いつも同じ間隔で、同じ時間だけ。義務的に茶を飲む席に現れるフリードに、ミーナは何度目か知らない問い掛けをする。

 彼の答えはいつも同じだ。

「君はそのまま、僕の隣にいておくれ。可愛いヴィルヘルミーナ」

 でもフリード。

 ミーナは心の中でつぶやくしかない。

 三年も経っちゃったよ。

 十二歳だったミーナは、十五歳になった。

 靴の踵は低くなり、胸の詰め物もだいぶ小さなものになった。

 子どもは大人になっていく。

 同じだけの時間が経つと、年頃の姫君は面白おかしく噂される年齢になっていくのだ。


 正式に大公が認めたわけでもない婚約破棄は、宙ぶらりんのまま放って置かれている。

 ふたりが二十歳になる年に計画されていた結婚式は、延期されたまま。

 フリードとその婚約者は、二十一歳になった。

 市井の女は、未婚のまま二十歳を過ぎたら焦り始める。正確には、周りが焦らせ始めるのだ。

 まだ結婚しないのか。相手がまだ決まっていない? あの娘、何か問題でもあるんじゃないだろうな。

 貴族のお姫さまのほうが、その傾向が顕著なはずだ。

 幼いミーナが優しいと思い憧れていたフリードは、婚約者をそんな状況に置いたまま、平然と笑っている。



 フリードが何故ミーナを連れて来たのか。好きでもない、身分の低い幼い娘を貴婦人として育てたのは何故なのか。

 何も分からないまま、ミーナは彼の望み通りの振る舞いをする。

 彼が贈ってくれた分不相応に豪華な衣装を身にまとい、宝石で飾り立て、人前で我儘を言ってみせる。

 フリードがミーナに期待しているのは、愚かで勘違いした下品な女の役どころだ。

 何故かは分からないが、そう気づいてからは、ミーナはそのように意識して振る舞っている。

 するとフリードは喜んで、また必要のない宝飾品を贈りつけてくる。

 少しずつ少しずつ、贈り物の量と予算が増えていく。



 人々はヴィルヘルミーナを毒婦と呼んだ。

 品行方正な大公世子を誑かした悪女ヴィルヘルミーナ。

 あの大公世子を誑かすとは、彼女は何者だ。

 完璧に見えた貴公子も、所詮はただの男だったか。という声は不思議なくらい聞こえてこなかった。

 女が悪い。汚い手を使って、歳若い彼を惑わしたに違いない。

 まるで、妖しい力を振るう魔女のように。


 森の奥深く、人目を避けて暮らす得体の知れない老婆。

 彼女に傾倒し、悪魔と契約しようと奇行に走る街外れの寡婦。

 男たちを惑わしその人生を狂わせた、父無し子であった妖婦。

 隣国では、王妃に成り代わった魔女がいたと聞く。


 ヴィルヘルミーナ。

 素性の知れない妖婦。

 品行方正だった男を、人が変わったように愚かしくした。

 ひとりの男、ひいてはその周囲の人間、国までもを破滅に近づけていく。

 

 誰が最初に言い出したのかは分からない。

 気づけばそれは、周知の事実として語られるようになっていく。


 毒婦ヴィルヘルミーナ。

 彼女も魔女なのではないか?

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