飲んだくれの天使
モーリスの店で飲んだくれの天使に会った。カウンター席に座って、しょぼくれながら、ちびちびやっていた。時々、奇怪な声で何事かを叫んでいた。なんでそんな奴が天使だとわかったかというと、それは奴が背中に大きな翼を生やしていたからだった。
「その背中のやつ、邪魔だから外してくれないかな?」
初めコスプレか何かだと思った私は、うやうやしく慇懃にそう言った。
「こんなもの要らないんだけどね」
振り返った奴は言った。とても悲しそうな目をしていた。本当に奴にはそんなものは必要なかったのかもしれない。そんなものを生やしているから奴は飲んでいるのかもしれなかった。
「天使なのに一度も人を助けたことがないんだよ」
奴はいつもそう言って飲んでいた。
それからしばらくしてベッキーが店に来るようになった。いつもカウンター席に陣取り、マスターに文句を言いながら、しこたま飲んでいた。カウンター席が妙な二人に占領されてしまって、マスターは愚痴をこぼしていた。
「あんた立派な翼しょってるのね? ちょっと触ってもいい? 本物みたい」
ベッキーは隣に座っている飲んだくれの天使に絡んでいた。
「本物だよ」
飲んだくれの天使は言った。それからずっと飲んだくれの天使はベッキーの話を聞いていた。
「それで肝心な時にいつも連絡が取れないと思ったら、既婚者だったの。彼が浮気をしていると思っていたら、私が浮気の相手という訳だったのよ。笑えるよね」
そう言いながらベッキーは少し涙ぐんでいた。
「店を持つのが夢だっていうから、その言葉を信じて二百万渡した。でも嘘だった。いったい何に使ったのだろう? 賭博かな? ほら通訳が野球選手の預金口座から送金したというのがあったじゃない? そういうのってきっと底なしなんだよ。こいつカモだと思ったら底なしに搾り取られるんだよ。そして私は賭博組織にカモにされた男にカモにされた女という訳なのよ。なんだか笑えるよね」
そう言ってベッキーはジムビームのロックを一息に飲み干した。
「あんまり飲みすぎると身体によくないよ」
自分のことを棚上げして飲んだくれの天使がベッキーに言っていた。
「二百万って私にとってはけっこうな大金なんだよ。あちこちからお金を借りて、彼のためになんとか用意した。今はそのお金を返すのが大変なんだ。それでホステスをしている。男の人たちに気分良く飲んでもらえるよう、楽しくもないのにいつもニコニコしている。カンパーイとか言って、お客さんが入れてくれたボトルをごちそうになる。なるべく早く減らさないと売り上げが伸びないので飲みたくもないのに飲む。酔いが回ってクラクラする。吐いてから、また飲む。本当は飲みたくない。今日は久しぶりに休みなのに。飲まなくていい日なのに。なんでここで飲んでいるのだろう? 私、バカなのかな? あんた! 聞いてるの?」
「聞いてるとも」
飲んだくれの天使が返事をする。何か気の利いたことが言えたらいいのにと奴は考えているらしい。ベッキーが少しでも元気になるような言葉をかけられたら。そんなことを考えているのだろう。
「アパートはずっと散らかったままなんだよ。脱ぎ散らかした服が散乱している。カップ麺の容器がそこら中に転がっている。掃除しなきゃって思う。でもそのまんま。ウイスキーの空き瓶も転がっている。あたしってば、だらしのない女なんだ。台所もすごいよ。流しには洗っていない皿がうず高く積まれている。いつからそうなっているのか、よく覚えていない。だからちょっと私のアパートは見せられない。あんたも見に来る気ないよね。汚いから。でも私がかわいそうだと思ったら来てくれてもいいんだよ? どう? やっぱり嫌なの? あんたも私のこと嫌いなの?」
ベッキーはずっと飲んだくれの天使に絡んでいる。誰もベッキーに近付かない。
「嫌いじゃないさ。君はとっても魅力的な女性だよ」
飲んだくれの天使は取ってつけたようなことを言っている。奴はそれなりに気の利いたことを言っているつもりでいるらしい。
「そう言ってもらえると、アタシはうれしいよ。それにあんたと話しているとちょっと楽しくなって来るよ」
ベッキーはニコニコしながら言った。
「天使なのに一度も人を助けたことがないんだよ」
ベッキーがいない時、奴はそう言って飲んでいた。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれなかった。