メイの子育て
ある日、オランウータンの保護施設に、新しい子がやってきました。
まだまだ小さなオランウータンです。
移動用のカゴの中で、不安そうに震えていました。
男の飼育員さんが、
「さあ、おいで」
と言って、カゴから静かにオランウータンの子を抱き上げました。
「ようこそ、ジュライ。
怖がらなくても大丈夫だよ。
しばらくは、僕たちがミルクをあげるからね。
落ち着いたら、新しいお母さんの所へ行こう」
ジュライと名付けられたこのオスのオランウータンは、辺りを見回すこともできないほど緊張していました。
密猟者に捕まったところを保護されてから、まだ数日しか経っていないのです。
ジュライの心の中には、怖いという気持ちしかありませんでした。
その日から、男の飼育員さんと女の飼育員さんが交代でジュライの世話をしてくれました。
ブルブルと震えているジュライを、飼育員さんたちは優しく抱きかかえてくれました。
ジュライが落ち着くように、毛布でそっとくるみながら、ミルクを飲ませてくれました。
1週間が経つ頃には、ジュライは落ち着いてミルクを飲めるようになりました。
ケージの中を歩き回るようにもなりました。
2週間が経つと、自分から飼育員さんに近づくようにもなりました。
「そろそろ大丈夫そうだな」
男の飼育員さんが、女の飼育員さんに言いました。
「今日は試しに顔を合わせてみよう。
ジュライ、おいで」
男の飼育員さんはジュライを抱きながら、女の飼育員さんと一緒に歩きだしました。
ジュライがいつも過ごしている建物とは別の建物の中に入ると、そこには広い中庭があって、大きな遊び場もありました。
遊び場には、太い木の枝やロープが四方八方に張り巡らされています。
大きさも色もバラバラなボールがたくさんありました。
タイヤがぶら下がっているのも見えました。
ジュライは気づきませんでしたが、ハンモックもありました。
そして、上には青い空。
ジュライは久々に空を見ました。
人間に保護されてから、ジュライはずっと室内で過ごしていたので、空を見る機会が無かったのです。
「楽しそうな所だろう?
毎日ここで遊べるようになるからな」
男の飼育員さんは自分まで楽しくなったように嬉しそうな顔をしながら言いました。
遊び場の横には大きな部屋がありました。
手前の壁一面が柵になっています。
飼育員さんたちはその前で止まりました。
「メ〜イ!こっちにおいで。
ジュライを連れてきたぞ」
すると、部屋の奥に座っていた大きなオランウータンがゆっくりと歩いてきました。
男の飼育員さんは、ジュライを抱いたまましゃがんで、メイと呼ばれたオランウータンにジュライの顔を見せました。
「やあ、メイ。
この子が昨日話したジュライだよ。
とってもおとなしい男の子だよ。
すごくいい子なんだ」
メイはチラリと男の飼育員さんの顔を見たあと、ジュライの顔を覗き込みました。
ジュライはびっくりした顔でメイを
見返しました。
ずっと人間と過ごしていたので、オランウータンを見たのは久しぶりでした。
なんだか怖くなって、ジュライは飼育員さんの首に抱きつきました。
「全然怖くないよ。
メイはとっても優しいオランウータンなんだ。
これからはメイが君のお母さんになるんだよ」
ジュライには飼育員さんの話している言葉は理解できません。
なぜ自分の目の前にオランウータンがいるのかも分かりません。
混乱しているジュライの背中に、何かが当たりました。
メイが柵の間から手を出して、ジュライの背中を触ったのです。そっと、優しく。
飼育員さんは立ち上がりました。
「じゃ、明日からよろしくな、メイ」
そう言って、ジュライを抱いたまま歩きだしました。
女の飼育員さんが不思議そうに聞きました。
「顔合わせはもう終わりですか?
ジュライは怯えていたようですが、大丈夫なんでしょうか」
「大丈夫大丈夫。
子どもの方がどんな反応を示しても、メイさえ受け入れる気になってくれれば問題ない」
「でも、子どもが拒否してうまくいかないこともありますよね?」
女の飼育員さんはまだ新人ですが、すでにそういう例をいくつか見ていました。
すると、男の飼育員さんは、勝ち誇ったように答えました。
「たしかに、他のオランウータンだとそういうこともある。
だが、メイは別だ。
どんなに難しい子でも、メイは必ず自分に懐かせる。
そして、ものすごく適応能力の高いオランウータンに育てあげるんだ。
ある意味、メイは子育てのプロだ。
君もこれからそれを目の当たりにするよ。
こちらが連れて行った子を、メイが気に入った。
その時点で、このプロジェクトは成功だ」
次の日から、ジュライはメイと一緒に暮らすことになりました。
ミルクの時間になると、男の飼育員さんか女の飼育員さんがやってきて、ミルクを飲ませてくれますが、それ以外の時間はメイの部屋の中で、メイとジュライだけで過ごします。
最初は怯えていたジュライでしたが、メイが焦らずゆっくりと近づいたことで、数日後には自分から近づくようになりました。
やがて、メイのことを「お母さん」と呼ぶようになりました。
そんなジュライに、メイは木登りと綱渡りを教えました。
野生ではほとんどの時間を樹上で過ごすオランウータンにとって、腕の筋力をつけることは生きることそのものです。
だから腕の筋力がないと、他のオランウータンとのコミュニケーションがうまくとれないのです。
しかしまだ筋肉が発達していないジュライは、木登りも綱渡りもなかなかできません。
メイは優しく言いました。
「すぐにできるようになる必要はないわ。
とりあえず、ここまで登れるようになりましょう」
メイが指し示したのは、ハシゴ5段分程度の高さでした。
そのくらいなら、ジュライにもすぐできるようになりそうです。
しばらく練習して疲れると、ジュライはメイに抱かれながら眠りました。
翌朝、メイはジュライに言いました。
「飼育員さんがミルクを持ってきたら、飼育員さんの前であそこに登ってごらん」
それはジュライがようやく登れるようになった場所でした。
「はい、お母さん!」
ジュライは言われたとおりにしてみました。
「すごいわ、ジュライ!
もうこんなに登れるようになったのね!」
女の飼育員さんは拍手をせんばかりに喜んで、ミルクのあとにリンゴのすりおろしをくれました。
それからというもの、ジュライは毎朝、メイに言われた通りに木登りや綱渡りの上達ぶりを飼育員さんに披露しては、おやつをもらっていました。
ところがある日の朝、メイはいつもと違うことを言いました。
「今日は綱渡りに失敗してみましょう」
ジュライはびっくりしました。
「えっ、どうしてですか、お母さん」
「上達するのが当たり前だとニンゲンに思わせてはいけないの。
あまりにも優秀すぎると、ニンゲンはあなたを野生に返そうと言い出すから」
「やせいって何ですか?
それはいけないことなんですか?」
「野生に返すというのは、外の世界で暮らすことよ。
一度ニンゲンに飼われた私たちにとって、外の世界で暮らすのは大変なことなのよ。
ごはんを食べられない日もあれば、トラに襲われることもある。
密猟者にも狙われる」
「トラって何ですか?
密猟者って?」
「トラは私たちを襲って食べる怖ろしい動物よ。
密猟者は私たちを襲う悪いニンゲンよ」
「僕が優秀だと、どうしてそんな怖ろしいところに連れて行かれてしまうのですか?」
「それがオランウータンにとって良い事だと、ニンゲンは本気で信じているからよ」
「僕はどうすればよいのでしょう」
ジュライはすっかり怯えた様子でメイの顔を見つめました。
「動物園では暮らせるけど、野生に返すのは難しい、そう思わせるのよ。
そのために、今日は綱渡りに失敗するの」
「分かりました、お母さん」
珍しく綱渡りに失敗を続けるジュライを見て、男の飼育員さんは不思議そうな顔をしましたが、何も言わずにジュライにミルクを飲ませて去っていきました。
それからは、木登りや綱渡りに成功する日もあれば、たまに失敗もする、という日々が続きました。
ジュライはかなり運動神経の発達した子で、しかも最近は筋肉がついてきたこともあって、木登りも綱渡りも大人のように楽々とこなしていました。
それでも、飼育員さんの前ではわざと失敗してみせるのでした。
失敗すればおやつはもらえませんが、なぜ失敗しなければいけないのかを分かっているジュライには、不満はありませんでした。
さらに数日が経った頃、メイはジュライに言いました。
「今度はニンゲンを喜ばせる練習をしましょう」
「はい、お母さん」
「私たちオランウータンと違って、ニンゲンは嬉しいことがあると歯を見せるの。
だから、私たちが何かをしてニンゲンが歯を見せたら、次からはそれを繰り返せばいいのよ。
それからね、男のニンゲンは、首に手を回して抱きつかれると喜ぶわ。
女のニンゲンのときは、ジッと目を見てから胸に抱きつくのよ。そのあともジッと目を見るの。
そうするとすごく喜ぶわ。
ニンゲンは単純な生き物だから、簡単よ」
「はい、お母さん」
利発なジュライは、いとも簡単に飼育員さん2人を喜ばせることができました。
「本当だ。
ニンゲンって単純なんだな」
ジュライは面白そうに言いました。
飼育員さん2人はもう、ジュライにメロメロです。
しばらくすると、メイがジュライに聞きました。
「次は何をすればいいと思う?」
ほんのちょっと考えただけで、ジュライはすぐに答えました。
「ニンゲンを喜ばせない日を作ります」
「そうね、正解!」
こうしてジュライはツンデレなオランウータンになっていきました。
飼育員さんたちは戸惑っていましたが、それでもジュライのことを可愛がってくれました。
その頃にはジュライはミルクを卒業して、メイと同じ食生活になっていました。
ある日メイとジュライの部屋にやってきた男の飼育員さんは、ジュライを抱きかかえながら言いました。
「そろそろ、他のオランウータンたちとも交流しよう」
ジュライには何が起きているのか分かりません。
不安そうにメイを見ると、メイがそっと教えてくれました。
「あなたと同じように、母親からはぐれた子どもたちのところへ行くのよ。
オランウータン同士で仲良くする練習をするの。
怖くないわ。
相手の嫌がることをしなければ大丈夫。
それに、ほんの数時間だけで、すぐにまたこの部屋に帰ってこられるわ」
ジュライがいなくなった部屋で、メイはため息をつきました。
オランウータン同士で交流する練習が始まったということは、もうすぐジュライは動物園か野生のどちらかに移動させられるのです。
これまでメイは、飼育員さんから預けられた子たちを全て、動物園に行けるように育てました。
メイにとっては、どの子も自分の子同然に可愛く愛しい子どもたちなのです。その子たちを野生に返すなんてとんでもない!
野生の生活では味わえないような美味しいごはんに、トラや密猟者に襲われることが絶対にない安全な部屋。
この生活を知ってしまったオランウータンにとって野生に帰ることがどんなに辛いことなのか、ニンゲンには想像もつかないようです。
「密猟者もここの飼育員も同じだわ。
ニンゲンは残酷な生き物なのよ」
せめてもの救いは、動物園です。
メイは動物園にいたことがあります。
「あそこなら、野生よりはずっとマシ」
そう思って今までの子たちを、野生ではやっていけない子に育てました。
しかし今回は違います。
メイはジュライを動物園に行かせたくなかったのです。
かといって、野生に返したいわけでもありません。
メイはジュライに、ずっと自分の側にいてほしいと思っていたのです。
こんなふうに考えたのは初めてでした。
初めてジュライを見たときから、何故か「この子を離したくない」と思っていたのでした。
しかしそれが叶わない望みであることは、メイが一番よく分かっていたのです。
数時間経って、ジュライが女の飼育員さんに抱かれながら帰ってきました。
「お疲れ様、ジュライ。
また明日も行こうね」
そう言って飼育員さんは去っていきました。
「どうだった?」
メイが静かにたずねました。
「僕のほかに、5匹のオランウータンがいました。
みんな僕と同じくらいの年みたいです。
でも、誰とも仲良くなれませんでした」
ジュライはしょんぼりして言いました。
「それでいいのよ。
最初からいきなりみんなと仲良くなれたら、野生に帰っても大丈夫だと思われてしまうわ。
それに、今日あなたが会った子たちはみんな、母親から引き離されてここに来た子たちだから、そのうちお互いに分かり合えるようになるわよ」
「はい、お母さん」
それから毎日、ジュライは他のオランウータンたちと数時間ほど過ごすようになりました。
そして少しずつみんなと打ち解けて、みんなで遊べるようになりました。
そんなある日、男の飼育員さんが、メイに話しかけました。
「メイ、ジュライの動物園行きが決まったよ。
今までお疲れ様」
とうとうこの日が来たのです。
メイは嬉しいような、悲しいような、そして寂しい気持ちになりました。
ジュライはもう、この部屋には帰ってきません。
出発の日までジュライは他の子たちと同じ部屋で生活するからです。
お別れの言葉も言えないまま、メイとジュライの生活は終わったのでした。
「ニンゲンは、私たちオランウータンにお別れの気持ちや言葉があるとは夢にも思っていないのね」
メイは部屋の壁に寄りかかりながら、宙を見ていました。
数日後、飼育員さんたちがジュライを移動用のキャリーに入れて、トラックに乗せました。
「じゃあな、ジュライ。
元気でやれよ」
キャリーの隙間から男の飼育員さんが手を入れて、ジュライを撫でながら言いました。
「みんなと仲良くね。
ジュライならきっと、動物園の人気者になるわよ」
女の飼育員さんは涙を浮かべながら言いました。
そして2人はトラックが走り去るのをジッと見送りました。
スタッフ用の休憩室で、何人かの飼育員さんたちがお茶を飲んでいました。
「何度経験しても、寂しいもんだな」
ひとりがボソッと言いました。
「そうだな」
男の飼育員さんは静かに答えました。
別の飼育員さんが思い出したように言いました。
「それにしてもメイはすごいな。
今までどんな子が現れても、全て懐かせていい子に育ててる」
すると、さらに別の飼育員さんが言いました。
「でも、メイが育てた子で野生に帰った子はいないよな」
「そこなんだよ」
人差し指を立てながら、男の飼育員さんが言いました。
「なんだか、メイはそうなるように意識して育てている気がするんだ。
こっちの考えを全て見透かして、自分の思うように俺たちを操っているというか」
「まさか、そんなことあるかよ」
みんなが一斉に笑いだしました。
「メイが子どもの育て方を調整してるって言うのか?」
「それも、野生ではなく動物園に行かせるために?
何のために動物園に行かせるんだよ。
普通に考えたら、野生に戻すだろ」
「たしかにそうなんだが、理由は分からないけど、メイは意識して動物園に行かせようとしている気がするんだ。
それに、俺たちの思考を読んでいるフシもある」
男の飼育員さんは真面目に言いました。
でもみんなはそれを聞いて大笑い。
「おいおい、本気で言ってるのかよ。
メイは超能力者か?」
「猿の惑星もびっくりだな」
「いくらなんでも、メイに入れ込みすぎだよ」
口々に言いながら、みんなは立ち上がりはじめました。
休憩時間が終わったのです。
「ま、話としては面白かったよ」
ひとりが男の飼育員さんの肩をポンと叩きながら休憩室を出ていきました。
男の飼育員さんも、ゆっくりと立ち上がりました。
そして空になったジュースのペットボトルをゴミ箱に放り込んで、歩きだしました。
いつもの遊び場に、メイはいました。
ハンモックに横になっていますが、ハンモックは揺れていません。
メイはただ、ジッとしていたのでした。
右手には、ジュライのお気に入りだった青いボールを握って。
灰色の雲から雨粒がこぼれ落ちてきて、ポツリ、ポツリと青いボールに当たっては、ボールの上を滑り落ちて行きました。




