たどりついた応え
誰もいない真っ白な空間に甘えて
一粒だけ涙流してみた
四角く切り取られた空は
雲たちの通り道
ねぇ、
空は大きなものなのでしょう
ビルは高いものなのでしょう
一枚のガラスを隔てて 雲と私
・・・・・・同じ白なのに
あんなにも自由で
あんなにも世界を知っている
・・・・・・同じ白なのに
こんなにも縛られ
こんなにも無知だ
でもね、
ひとつだけ雲に無いもの
ひとつだけ私に有るもの
見つけた
* * *
場所さえ違ったなら。そう、全てはこの売店が入っている場所の悪さにある。バイトを探していた誠にこの仕事を勧めてきたのは、陸であっただろうか。誠は頭の中に現れた親友に向かって悪態をついてみる。まあ、時給が良いと聞いてろくに内容も聞かず、ひょいとこの仕事に決めてしまった誠自身が一番いけないのだが。
「これで仕事内容の説明は終わりだ。普通のコンビニとかと大差ないし、大丈夫だよね。違うのは、常にお客さまの様子をよく見て、体を気遣うことぐらいなもんさ。じゃ、もう交代の時間だから僕はお先に失礼するよ」
気がつくと、時計の針はすでに午後の三時を指していた。今日からバイトの先輩となった人は、勤務時間が終了したらしい。誠の仕事はここからだ。先月二十歳の誕生日を迎え大人の仲間入りを果たした誠は、すでにいくつかのバイトを経験していた。しかし、仕事の注意で客の体調を気にしろと言われたことは今回が初めてだ。客の体を労わらねばならない理由。それは、この売店が大学付属病院の中にあるからである。
誠は病院が嫌いだ。なんとなく、暗い気分になる。これから毎日こんなところに来るのだと思うと、憂鬱だ。
そんなことを考えていると、一人目の客が入ってきた。先輩に言われたとおり、客を観察してみる。高校生くらいの女。顔色は・・・・・・色白だが、別に具合が悪いわけではなさそうだ。あえて言うならば、肉と呼べるものがほとんどないせいで、全体的にやけに骨ばって見えることくらいだろうか。少女は買い物かごを持つと、まっすぐにお菓子売り場へと向かった。商品棚に隠れ、手元は見えない。頭だけがひょこひょことせわしなく動く。しばらくすると、ようやく少女が棚の影から出てレジに来た。少女は華奢な体をふらつかせながらドンッといかにも重そうな音を立て、買い物かごを置く。誠はその中身を見て唖然とした。
菓子、菓子、菓子・・・・・・。かご一杯に詰め込まれた、大量の菓子。
「あれ、新しい店員さんですよね。私、恵藤幸です。よろしくお願いします」
少女、幸が短い髪を揺らせて、にっこりと笑った。初対面の店員に自己紹介?違和感を覚えたが、無碍にするのも気分が悪い。
「こちらこそ。俺は白石誠。しばらくはここで働く予定なのでよろしくお願いします」
一応名前くらい教えておく。改めて幸を近くで見るとさらに細身に感じる。この体のどこに、これだけの菓子が。
「よくこんなに食えますね」
思わず口に出してしまった。幸は一瞬何を言われたかわからなかったようで、一拍おいて顔を赤くした。
「違いますよ!私はお菓子なんて食べないです」
「じゃあ、これは誰の分なんですか」
「この病院に入院している、子供たちに配るんです。親が来られなくて泣いちゃう子も多いですから。少しでも力になれたらいいな、なんて」
幸は代金を払うと、重たいレジ袋を抱えた。
「ボランティアってことか」
去りかけた幸の背中に声をかけると
「ただの自己満足です」
幸はそう言って、きれいに笑い、誠が口を開くより前に店から出ると、一度も振り向かずに病棟のほうへ消えていった。
* * *
「そりゃ、変わった子だねぇ。他人のためにお菓子を配っている、なんて」
陸の女のようにきれいな手が、運んできたカップをテーブルに並べていく。
「しかも、一度きりじゃないんだ。あれからもう二、三回は大量の菓子を買っていってる」
「でもそれって、言っちゃ悪いけどただの偽善者じゃない」
「俺も正直、最初はそう思った。でもあいつ、自分で自分の行為を、自己満足だって言いきったんだ」
これにはいつも冷静な陸も驚いたようである。
「そんな良い子もいるんだねぇ。大方誠は、その幸って子に一目置いてるんだ。だから僕に話したんだろう」
「別に」
本音を言えば、確かに一目置いている。しかし、なんとなくそれを認めたくなかった。陸は誠の無愛想な返事に、くすりと小さく笑った。そしてカプチーノを一気に飲み干すと、口についた泡を親指ですっと拭いた。誠も陸に習い、ミントティーを飲み干そうとし……
「うはっ、何なんだよ、この紅茶。こんなものを客にだすな」
苦い……というより、渋い。
「仕方ないでしょう。紅茶担当の天才が一人、店長と紅茶に対する理念の食い違いで口論になって辞めちゃったんだから」
「だってあいつ、客への対応を早めるために、紅茶を蒸らす時間を削れなんて言ってきたんだぞ。こんな店、こっちから願い下げだね」
誠は以前、このカフェで陸と共に働いていた。
「コーヒーの陸、紅茶の誠。片翼が折れた飛行機は、今にも墜落しそうだ」
陸は苦笑しながらカップ片付け始めた。そろそろ仕事に戻らなくてはいけないのだろう。
「せめて、不時着できるように頑張れよ」
誠はひらひらと手を振って、かつての職場をあとにした。
* * *
今日は仕事の日でもないのに、誠は病院にいた。一昨日、幸にお菓子配りを手伝うようにと頼まれたからだ。最近入院患者が増えたらしく、幸一人の手には負えきれなくなっているということだった。せっかくの休日をよりによって病院なんぞで過ごさなくてはならないことは苦痛であったが、それよりも幸のことを知りたいという気持ちが勝った。そんな訳で、誠は今幸とともに病棟をまわっているのである。既に大部屋五つを訪問したが、どの患者も幸が入ってくるなり破顔した。みんな幸のことを待っていたようであった。病気で苦しみ、不安で一杯であるはずの人々にこんなにも元気を与えることができる。それが、今誠の目の前に立つ小さな少女が持つ特別な力なのだ、と誠は思う。
「失礼します」
三〇九号室の扉をノックし、中に入る。誠と幸を出迎えたのは、白髪の老婦人だった。ここは今までにまわった部屋とは違い、窓の大きな一人部屋だった。老婦人は読んでいた本から目を離すと、誠たちに椅子を勧めた。
「お久しぶりです、小田さん」
幸は老婦人の手を握り、瞳を覗き込むようにして話しかけた。
「まあ、幸ちゃんじゃないの。ずいぶんと大きくなって。四年ぶりかしら」
「はい。ずっと小田さんが元気でいてくださればと願っておりました」
「残念ながら、また入院生活だわ。幸ちゃんにこうして会えるのは嬉しいけれど、私もあなたが退院していることを願っていたのよ」
誠は、老婦人の言葉が理解できなかった。幸が退院することを祈っていた?まるで幸が病人で、入院しているかのような言い方。仮にそうだとして、幸はいつからこの病院にいる?四年前?そんな……。
困惑している誠をよそに、幸は老婦人と話を弾ませている。全ての音が誠から遠ざかっていくように感じた。頭の中を疑問符が渦巻く。心ここに在らず、だ。そんな状態のまま老婦人に別れを告げ、残りの病室をまわった。
「どうしたんですか。なんだかぼうっとしていますけど」
別れ際、とうとう幸にそんなことを言われ、誠は慌てて思考を現実に引き戻した。
「少し考え事をしていただけだ。それより、今日は俺を誘ってくれてありがとう」
誠は自分で自分にびっくりした。『ありがとう』なんて言葉を口にするなんて、いつぶりだろう。
「私のほうこそ、手伝ってくださってありがとうございました。一緒に来てくださって、嬉しかったです」
幸はぺこりと頭を下げると、誠に背を向けて歩き出した。 そこで誠は気づいてしまったのである。幸が向かっている先にあるのは、エントランスではなく、病室であるということに。小さな背中が曲がり角の影に消えたとき、ちょうど一人の看護師が誠のそばを通りかかった。
「あの、すみません」
看護師が振り返る。
「幸……恵藤幸さんの事なのですが」
「あなた、白石誠さんね。売店で働いている。幸ちゃんからよく話しに聞いているわ。私は、ずっと幸ちゃんのいる棟を担当している三原のどかよ」
運よく、幸と深いかかわりのある人と出会えたようだ。
「幸は、ずっとこの病院に入院しているんですか。あんなに元気そうなのに」
のどかは聡明さのうかがえる顔を一瞬、曇らせた。
「幸ちゃんが病室訪問を誰かに手伝ってもらったのは、白石君が初めてなの。それだけあなたに心を許しているということだと、私は思う。……あなたには、きちんと話しておいたほうが良いのかもしれない」
真剣な眼差しが誠を突き刺す。その表情が無言のうちに幸について知ることへの覚悟を問うている。無論、誠に迷いは無かった。
「教えてください」
「もちろん、個人情報に関わることだから、病気についての詳しいことは言えないけれど。……彼女は生まれてから一度も、この病院から出たことが無いの」
「・・・・・・一度も?」
手足が冷たい。ぴりぴりとしびれ、末端の感覚が無くなっていく。それでいて、心臓は大きな音を立てている。
「彼女は生まれながらにして、重い病気を抱えている。彼女が知っている世界は、この病院と窓から見えるミニチュアのような町並みだけ。彼女にとってビルとは、見上げるものでは無くて、見下ろすもの。それでも、彼女は自分の生まれてきた意味を探し続けている」
のどかに即されるがまま、誠は待合室のソファーに腰掛けようとした。そこで人生で初めて、膝を曲げるという行為の仕方がわからなくなった。結局方法を思い出せぬまま、崩れるようなかたちで、座った。
「幸ちゃんは、とても強い子よ。いつでも挫けたり諦めたりはしない」
誠の脳裏に、つい先刻までそばに居た、たくさんの患者が求める少女の姿が浮かんだ。
「だからこそ、入院している人たちを元気づけられるんですね」
のどかは無言でうなずくと、窓にそっと触れた。
「雲」
「え?」
のどかのつぶやきに、思わず聞き返してしまう。
「幸ちゃんの相談相手……なのかな。時々こうやって窓に手を当てて、雲を眺めているの。彼女が唯一弱音を吐いてもいいと思える相手なのかもしれない」
よいしょっと、いすから立ち上がったのどかは最後に言った。
「幸ちゃんはあなたや私が思っているほど強くないの。肉体的にも、精神的にも。それだけは、覚えておいて」
その日病院から見た夕焼けは、いつもより紅いように感じた。
* * *
のどかに幸の話を聞いて以来、誠は幸のお菓子配りに付き合うようになっていた。それは幸の体を心配したわけでもなければ、ましてや幸に同情したからでもなかった。自分の生きている意味探し。こんな難題に真正面から向き合おうとしている幸のそばにいたい。ただそれだけの思いが全て。
――― 本当にそれだけか?
「おいしい。この紅茶、誠がいれたの?」
いつの間にかため口で話すほどになった幸が、目を輝かせながら問う。
「本日の紅茶は、ダージリンでございます」
うやうやしく礼をしてみる。喜んでもらえたなら、休憩の合間に腕を揮ったかいがあるというものだ。
「すごいなぁ。私もこんな風に紅茶がいれられるようになりたい」
「それなら、俺が特訓してやるよ。もし俺と同じくらいおいしいやつがいれられるようになったら、一緒に病院内に店だそう」
するりと口から言葉が滑り落ちた、そんな感覚だった。
幸が目を見開く。誠も、自分が大嫌いであったはずの病院にいつまでも居続けることを選ぼうとしていることに少しだけ驚いた。同時に、幸といるためには病院に居続けなくてはいけないという現実も思い出した。
今、やっと気づいた。本当の自分の気持ち。……でも、それを口にする勇気は無くて。
「店、幸も一緒に働かないか」
もう一度、聞いた。
「うん!よろしくお願いします。……実は私、この病院から出られないの。だからお仕事するなんて諦めかけていて。今まで黙っていて、ごめんなさい」
「謝るのは俺のほうだよ。実は、幸がここから出られないこと、知っていたんだ」
誠は、のどかに聞いたことを話した。
「ありがとう。全部知っているのに、こんな私を誘ってくれて」
二人は、声をあげずに笑った。
それから、幸の特訓が始まったのだ。
* * *
のどかは、数日前から病状が悪化した幸の点滴を換えるため、五〇二号室訪れた。コンコンと軽くノックをするも、返事は無い。
「幸ちゃん、入るわよ」
そっとドアを開くと、窓辺に立ち空を見上げる幸の姿があった。幸はここではない、別の世界のものを見ているかのような、どこか虚ろな目をしている。わすか六メートルほどしか離れていないのに、なぜか幸の周りだけ異空間のように感じた。と、突然幸がドアのほうを振り返った。その顔には満面の笑みが湛えられている。
「どうしたの。そんなに嬉しそうにして」
手早く点滴を取替え、モニターの数値を確認しながら問う。
「やっと、勝てるものが見つかったから」
「勝てるって、誰に」
顔を上げたのどかに、幸は天を指差して答える。
「雲だよ」
「雲にどうやって勝つの」
幸はくすくすと笑い、のどかの質問には答えず、モニターをチェックした。幸は闘病生活が長いため、ある程度の医療知識は備わっている。
「私、だいぶ悪化しているんだね」
のどかは言葉につまり、閉口した。
「いいの。私がまだ生きていること自体、奇跡なのだから」
* * *
幸との紅茶特訓もすっかり日常となった。まだ誠と同等とは決して言えないが、友達に出すくらいなら恥ずかしくない程度まで腕は上がった。今日は久しぶりに、幸の体調が優れないためにしばらく中止にしていたお菓子配りをすることになった。
「大丈夫なのか。今日もまだ顔色が悪いけど」
「平気だよ。みんな私たちが来るのを待っていてくれてるらしいし、心配かけられないよ」
いつも通り病室をまわっていく。今回は久々の訪問とあって、いつも以上に喜ばれた。
「きっちゃん、咳は止まった?」
幸が小学二年生くらいの小柄な男の子の背中をさする。幸のすごいところのひとつは、入院患者ひとりひとりの顔と名前、病気の様子を記憶していることだ。きっちゃんと呼ばれたその子も、幸が自分を覚えていてくれたことに感激しているようだ。
「僕ね、来週退院して良いってね、先生にね、言われたんだよ」
小さい子特有のたどたどしいしゃべり方をするきっちゃん。
「おめでとう。じゃあ、退院祝いに大きいお菓子あげるね」
周りの子供たちから一斉に「いいなぁ」という声が上がる。それに優しく答えながら、幸はお菓子の入った袋をごそごそとあさる。その手が僅かに震えているのが見えた。
「幸・・・・・・?」
心配になった誠が幸の肩をつかもうとした矢先。幸の細い体が前に傾いだ。
「幸!」
「幸ちゃん!」
誠と子供たちが同時に叫ぶ。誠がとっさに伸ばした腕に、想像以上に軽い体が倒れこむ。幸は真っ青な顔で瞳を閉ざしていた。
「きっちゃん、ブザー押してくれ」
誠は空いていたベッドに幸を横たえ、たった一つの指示を出すことしかできなかった。
幸が倒れた。
それはあまりに突然なことだった。すぐに駆けつけた医師の診断により、緊急オペが行われることになった。緊急というくせに医師も看護師も冷静で、まるでずっと前からこうなることがわかっていたかのようだった。・・・いや。こうなることを現実のものとして予想できていなかったのは、誠だけだったのかもしれない。幸の命を今にも奪い去らんとする魔の手に対して、誠のなんと無力なことか。今の誠にできるのは、オペの成功をただただ祈るのみである。〝手術中〟の赤いランプが灯ってから既に五時間以上が経過している。それでもなお、誠は手術室の前から離れようとは思わなかった。時間ばかりがいたずらに過ぎていく。そのとき、音も無く手術室の扉が二つに割れた。中から一人の医師が出てくる。
「幸は、幸はどうなったんですか」
思わず詰め寄るようになってしまう。
「打てる手は全て打ちましたが、きわめて危険な状態です。後は、幸さんの気力次第です。どうか中に入って、呼びかけてあげてください」
誠は返事もせず、足をもつれさせながら中に転がり込んだ。中に入るとすぐに幸の姿が目に入った。逆に言えば、幸以外何も見えていなかった。手術台に乗せられた幸は、たくさんのパイプや酸素マスクなどに囲まれ、やまるで別人のように病人面をしていた。
「おい幸、聞こえてるか」
誠の問いに、もはや答えは返ってこない。そこにあるのは、幸の命をつなぎとめている機械たちの音だけ。
「目覚ませよ。菓子、まだ配り終えてねぇぞ。なぁ、何とか言えよ」
無機質な音が、幸の僅かな鼓動を伝える。まだ生きてる。ここにいる。体はあるんだ。あとは精神を取り返す。こいつはまだ、やってないことがたくさんあるんだ。
「幸、俺と店出すって言ったよな。約束、破るのかよ。まだアップルティーすら飲んだこと無いくせに、紅茶のことわかったつもりになってるんじゃねぇよ」
ピピピ・・・・・・今までより一段高い音が手術室に響く。周りに立っていた医師たちが、動き始めた。こんなに早く、この世とさよならしていいのか。未練はないのかよ。
「俺は幸がいなくなったら、未練だらけだ」
誠のつぶやきは、医師の指示を出す声にかき消された。まだ口にできていない言葉がある。まだ伝えていない想いがある。
幸の小さな手を両手で包み込むようにして握る。届け。
「紅茶のことも、この病院の外の世界も、まだ幸の知らないことが山積みなんだ。ずっとずっと、俺のそばにいろ。幸の知らないこと、教えてやるから。俺、幸が・・・・・・好きだから!」
そのとき、握っていた幸の手がぴくりと動いた。
「幸!」
ゆっくりと幸の目が開いていき、瞳が誠をとらえた。
「……誠」
そばに居た医師が、幸を診る。医療に関する知識の無い誠には、何をしているのかさっぱりわからなかった。ただひとつ誠にも理解できたことは、幸の精神が戻ってきたということだった。幸の手が弱弱しくも、誠の手を握り返した。
「誠。私もだいすき、だよ」
酸素マスクに覆われた口から、幸の声が、想いが、誠に届いた。
* * *
あらから五年の月日が流れた。
あの手術の後に幸に聞いた話によると、幸が十一歳のとき、余命宣告をうけていたらしい。余命五年、十六で死ぬと告げられたそうだ。それから幸の生まれてきた意味探しが始まり、当時の幸が出した答えが、“たくさんの人に幸せになってもらうため”だった。だからお菓子配りをしていたということだ。今、幸は二十二歳。とっくに余命は尽きているはずであるのに、むしろ元気になってきている。本当にこれは奇跡だ、と医者は言う。幸はそれを聞くと、誠に言った。「誠が呼び戻してくれたからだよ」と。誠としては、素直に喜べない話である。冷静になって思い出してみれば、たくさんの医師や看護師の前で告白してしまったのである。冗談じゃない。おかげで、誠と幸は病院中が公認の仲になってしまったのだ。……でも、最近ではそれでもいいかと感じている誠もいる。
‘CLOUD’
これが、誠と幸が三年前から始めた院内カフェの名だ。命名者はもちろん幸である。店内はいつも、患者とその家族、ときには仕事明けの医療従事者でにぎわっている。
「あ、のどかさん」
店内に幸の明るい声が響く。のどかはこの店の開店当時からの常連でもある。昨年退職してしまったが、今でも幸のことを気にかけてくれているのだ。今日もいつもどおりにカウンター席に座るなり、お気に入りのブルーベリーティーを注文した。
「どう、幸ちゃん。二年も経つと、夫婦喧嘩もするようになったんじゃない?」
「そんなことはないです。誠はいつも優しいですし」
それだけ言い残し、ちょうど店内に入ってきた新な客をもてなすため、幸はカウンターを抜けた。
「優しいって。良かったわね」
誠はのどかには答えず、淹れ終わった紅茶をだした。それを一口すすったのどかはおいしそうに目を細め、カップをソーサーに戻した。
「院長にこのカフェの出店許可を取りに来たときも驚いたけど、それからぴったり一年後、開店一周年の日に結婚したときはもっとびっくりしたわよ」
誠を窺うように上目使いになるのどか。
「今更そんな昔のことを掘り返すな」
誠をからかっていることはまるわかりだ。しかし、のどかの表情は一瞬にして真剣なものへと変わった。
「今は安定しているけれど、これから先、また幸の病状は悪化するかもしれない。それでもあなたは、」
「当たり前だ。その覚悟無しに、結婚しようなんて言えるわけがないだろう」
のどかが皆まで言い終える前に誠が答える。のどかは誠の力強い返事を聞き、いつもの穏やかな表情に戻った。
「こんな良い旦那さんを見つけて、幸ちゃんは幸せ者だわ」
のどかは幸に視線を向ける。誠もつられて、接客をしている幸のほうを見やった。
「あの、このお店初めてなんですけど、お勧めはなんですか」
幸はにっこりと笑い、凛とした声で答えた。
「アップルティーでございます」
* * *
誰もいない真っ白な空間で
幸せに涙あふれてきた
四角く切り取られた空は
雲たちの通り道
一枚のガラスを隔てて 雲と私
ずっと
自由である雲が羨ましかった
縛られた自分が憎かった
でもね、
やっと
ひとつだけ雲に無いもの
ひとつだけ私に有るもの
見つけた
それはこの
暖かい〝キモチ〟
誰かのために生きる
誰かのことを想う
手を伸ばしても触れられないけれど
確かにここにある
それはちょうどこの雲のように
・・・・・・雲と違うのは
決して消えないということだ
私のカラダは
すぐに消えてしまう
誰だって
何だって
実態のあるものなんて全部
いつかは消えてしまう
でも
触れられない
実態がないからこそ
この〝キモチ″は消えない
どこまでも続く空の下
私は〝キモチ〟という
永遠を手に入れた
Fin.
ここまでお読みいただきありがとうございます。
感想をいただけると嬉しいです。
このお話には続編がございますので、続きもお付き合いいただけますと幸いです。