彼しか知らない一夜のロマンス
楽しくかけたので投下。
「あら、いらっしゃいませ」
オテル・レーヴの大広間――
人垣を、人目を、そしてエルバートの耳の中で鳴りやまない囁き声を――避けるために、滑り込んだ先で。
「ごきげんよう、だんなさま。どうぞおかけになって」
「いえ、結構――」
「そんなそんな。お客さまは歓迎でしてよ。父も母もあと少しでもどりますから、どうかお待ちになって」
(父と母!? 仮面舞踏会に親子で!?)
――……これが“酔っ払った成人女性のおままごと”だということを、エルバートは程なく知ることになる。
「君は、子どもなのか?」
「いいえ、ちゃあんと大人ですよ。婚約者もいましたし」
「“いました”?」
「お別れしたんです。とーってもきれえなひとと結婚するんですって」
「……詐欺か?」
「ううん、浮気」
「うわき」
「それを家族に話したら、みんなとーっても怒っちゃって、」
「それは……怒るだろうな」
「はい。とーっても怒って、裁判にまでしちゃったんですよ」
「さいばん」
「なんだったかしらあ……ああ、そうだわ。『同じような可哀想な人の助けになるように、前例を作っておく』って、お姉さんが」
「お姉さん」
「うん、お姉さん。わたし、お姉さんだーいすき」
エリザベス・スーザン・コールソン――それがこの娘の名前だった。
エリザベスは赤い顔でころころとよく笑い、よく食べた。アイスクリームにチョコレート、薄くて小さなサンドイッチに、冷菜をのせたクラッカー。
そして――よく飲んでいた。主に、酒を。
フルートグラスのシャンパンを特に気に入っているようで、一杯、二杯、三杯と――……
それにつられるようにエルバートも杯を進めれば、『よろしければこちらごと』。給仕がそう言って寄越してきたボトルは、既に二本目が二人の胃へと消えている。
食べながら、飲みながら――エリザベスはとめどない話を、ずっと話し続けている。エルバートを長椅子の隣に座らせて、その肩に、ぴったりと寄り添って。
「……私にも姉がいるが、苦手だな。好感を持てるようなコツはあるのか?」
そして――エルバートも。
「嫌悪しているわけではないのだが……その、どうにも一緒にいると疲れてしまって……」
酔っていた。自分にもたれかかっているこの見知らぬ娘を、諦めて受け入れてそのままにしているほどには。
『仮面舞踏会の会場で、ままごとをしているこの娘ほどじゃない』――そんな自負こそあれど、エルバートが普段より、ずっと大いに喋っていたのはやはり、酔っていたからだ。
普段なら――その場をこっそりと離れるのだが。
「うーん……そうねえ――」
迷子の子どもを泣かせまいとして――そんな言い訳がぴったりなきっかけだった。
別に無視して出て行ってもよかったのだが、どういうわけか――エルバートはその長椅子に腰かけてしまった。
そして、着席した途端に腕を組まれて、退路を断たれ――
「お姉さんは、お声が大きいの?」
「大きな声も、小さな声も出す。でも全部聞こえる。耳がいいから」
「こわーい言葉を使ったり?」
「口は……悪くない、と思う」
「うーん……」
ぼんやりと眺めていた娘のつむじが、首を傾げるのと連動してこてんと動くのを間近で見た。――……普段なら、この距離感は到底受け入れられない。
いわゆる“積極的なお嬢さん”には、極力関わらないようにと気をつけてはいるが――そ
れを乗り越えてくるのが猛者……もとい“積極的なお嬢さん”なのである。
乗り越えられれば、エルバートは逃げるしかない。いくら剣技を磨いても、身体を鍛えても、女性相手にそれは全くの無意味なのだ。
「……ごめんなさい、よく分からないわ」
「そうか……」
そして逃げ出せば――『意気地のない』と、母に呆れられ、姉になじられ……と散々で、エルバートの女性不信ぶりは年々深刻なものになりつつある。
「わたしはお姉さんと一緒の時が、一番楽しくて気が楽だから……でも、あなたは逆なのねえ」
そしてそれは、エリザベス相手でも例外ではなく―
「勢いのある人で……こう、猪とか、暴れ馬とか、闘牛とか……」
「まあ……それは、ちょっと怖いわ」
最初は――一方的に感じる気まずさをごまかすように、テーブルの上の軽食や飲み物……主に酒を、絶えず口にしていた。
そしてそれはままごと――“両親が留守の間に客をもてなす女主人役”を演じていたエリザベスの役者魂に、火を注ぐ形となった。『これもおいしいですよ』、『こちらもいかが?』。
その勢いに乗せられて――
「昔ほどでは……昔は、大分意地悪に見えたが」
「まあ。意地悪はダメねえ」
――……乗せられた結果が、これだ。
「ボートを漕げと冬の湖に連れ出されて風邪をこじらせ、剣術の稽古をすると言っているのに馬を出せと小突かれ転び……」
「まあ」
理性の壁が半分溶けて気が大きくなり、女性不信気味のエルバートでも、不思議と臆することなく目の前の女性と話すことが出来ていた。――人生相談から、愚痴まで。
男は寡黙が美徳……だなんて言葉は、口下手な自分が口にすれば言い訳がましいので言わないが、少なからずそう思って生きている。
なのに今――話すことがやめられない。
子どものいたずらのように、ほつれた糸の端を見つけたら、それがぷつりと切れるまで――引っ張り出すのをやめられない。
「おけがはなさいませんでした?」
「怪我は日常茶飯事だからそこまでは……ああ。昔から、馬術と剣術を」
「まあ」
「剣術……そうだ。姉の替え玉にさせられたことも」
「かえだま?」
「ドレスを着せられ髪を結われ……」
「え……」
「……小さい頃の話だ」
「あっ……ああ! びっくりした!」
「そうやって自分の音楽の授業に出させて……私には剣の稽古を休ませたくせに、本人は屋敷を抜け出して……。『サーカスが見たい!』と、街へ」
「まあ……それは、困ったお姉さまですわねえ」
「本当に――……嫁いで少しは落ち着くかと思ったが、姉の御夫君は年が離れた姉に甘く、勢いは増すばかりで……!」
「あなたのお姉さま……なんだか妹みたいねえ」
「妹?」
姉を妹のようだとは思ったことはない。エルバートの中でのアナベラは、いついかなる場面でも暴君――……いや、女王だった。
「ちょっとわがままで、おねだり上手で……世渡り上手」
「それです」
実際はちょっとどころではないのだが――……そう付け加えようとしたが、エリザベスの方が早かった。
「うちの妹もそうでしてよ! でも、そこがとっても可愛いの!」
「それはどうかと」
「あら! うちの妹は可愛いのよ!」
「いえ、妹御殿のことではなく……」
「もう! ほら、こっち」
エリザベスに腕を引かれて立ち上がる。
「ほら、見て」
エリザベスは指先で、フロアとこの空間を仕切るカーテンを少しだけ持ち上げた。
腰をかがめてフロアを覗き込むエリザベスに倣い、自分もその上から目を凝らせば――『見て』とエリザベスは、フロアで踊る仮面の集団を指さした。
「あそこに……ブロンドにブルーのドレスの女の子、いるでしょ?」
言われてみれば――なかなか見事に踊っている娘がいる。
結い上げたブロンドに銀の輪をティアラのように乗せ、透けるような淡いブルーの生地を幾重にも重ねたドレスが、ターンするたびにふわりと翻る。
「――ね、可愛いでしょう?」
「……仮面で顔が分からない」
「あっ」
エルバートは視線を、エリザベスへと戻す。
自分を見上げているエリザベスの、ぽかんと開いた唇、小さなあごの先端、鎖骨――そして最後に、その身にまとうドレスに目が行った。
夜着のようにシンプルな、若草色のドレス――装飾がなければ、とてもじゃないが夜会用のドレスには見えなかっただろう。
今の流行――……といっても、エルバートには流行の機微は分からない。
しかし女性の夜会服と言えば、”上半身にぴったりと沿うようなボディスに、クリノリンで膨らませた大きなスカート”というのがエルバートの知っている女性用夜会服のすべてで――そしてそれは、確かに現在の流行だった。
「そうだったわ……みんな、仮面をつけてたんだった」
「…………」
「あなたもつけてたのにね。ずっとおしゃべりしてたのに、どうして気付かなかったのかしら……」
――……エルバートの母と姉は、衣服を揃えるのに費用を惜しまない。
いくら疎いといっても、エルバートの審美眼は刷り込みのように磨かれている。そんな彼から見たエリザベスのドレスは、お世辞にも高級とは言い難い。生地に然り、装飾に然り、縫製に然り。
流行外れなのか、常識外れなのか――それはエルバートには分からない。
しかしこの薄い生地越しに伝わる体温とか、身体の柔らかさとか――……そういうものはなんとなく、いいなと思えた。
「……君の仮面は、珍しいな」
そして――エリザベスの着けている仮面も。
美しい装飾品を見る機会が多いエルバートでも、ちょっと見たことがないような装飾と加工――ここまでつややかな黒も、それに映える金の繊細な絵付けの模様も、見たことがない。
「妹のなの。大陸で買ったんですって」
形状こそはありふれた、後頭部で紐やリボンを結んで留めるタイプのハーフマスクなのに――むくむくと、エルバートの好奇心が膨らんでいく。
普段ならエルバートは、装飾品になど興味の欠片も示さない男である。
しかし――今は酔っていた。そして好奇心の糸の端を見つけたら、それを引っ張り出さずにはいられない。完璧に酔っていた。
「見せてもらっても?」
「ええ」
そう乞えばエリザベスは、ためらう素振りもなくそう言って腕を上げ、後頭部で結んであるリボンを解いた。
その時晒された二の腕の内側――……筋肉とは全く無縁の、柔らかそうでほっそりとしたそこが、焼けていない肌が、やけにエルバートの目を引いた。
「妹はね、大伯母様の養女になって大陸に行ったの」
独り言とも取れるようなエリザベスの声で――エルバートは我に返る。
夢から覚めたような心地で手を差し出せば、エリザベスはその手の上に仮面を置いた。
(軽い……)
エルバートはその軽さに、少しだけ眉を上げる。
「お姉様は婚約してからも、お給料をぜーんぶ家に入れてくれて、お姉さんはあれだけいやがってたのに、結婚したの」
(シンプルな装飾だということを差し引いても軽い。どんな素材を? 金属でも、ましてや木でもない……)
エルバートの視線は仮面に釘付けだった。さっき釘付けになった二の腕のことなど、既に忘れている。
「……何もしなかった役立たずは、わたしだけだわ」
しかし――意識は仮面に集中しているが、無駄にいい耳はちゃんとエリザベスの声を拾っている。
「そんなことはないだろう」
「……あなた、優しいのね」
基本的な人付き合いの教本があったら載っていそうな――相手がエルバートの母か姉なら、肉体言語で叱られていたことだろう。
しかしそんな口だけの反射的な受け答えでも、酔っ払った子供のような娘には十分だったようだ。
「男の子なのに、不思議ねえ。男の子はみーんないじわるなのに」
「そんなこともないと思うが……」
お叱りの言葉も気配もないので、エルバートは存分に仮面を検分する。
声の方など見ようともせずに、エルバートは手袋を片方、歯で咥えて引き抜いた。
そしてひっくり返した仮面の、裏側の感触を指でなぞって確かめる。
「そう。……そうね。甥は、やさしい男の子になってくれるといいのだけど」
「俺は姉にやりこまれてきたから、女性の方が恐ろしい」
もう片方の手袋も脱いで、まとめてポケットに突っ込む。手袋の扱いはぞんざいなくせに、仮面には指紋をつけないよう縁を持って――
「わたしは、男の子にいっぱいいじわるされたから、女の子の方がすき」
「そうか」
――……持って、正面から。そして下から、斜めからも覗き込む。
「ああ……でも女の子も、大人になったら意地悪だったわ」
惰性で耳が拾っていた声が、ふと紡いだ言葉――
「あんなにきれいなのに、おそろしいことばかり言うのよ。『可哀想ね』って」
――……それが妙に、エルバートの注意を引いた。
意識が仮面から、声の方へと向く。意識が向けば、自然と視線はその声の主を――
声を――……いや、追いかけたのは数秒前までの記憶だ。視線を上げればもうそこに、エリザベスはいなかった。
「……わたしは耳がそこまでいいわけじゃないけれど、よく聞こえたわ。内緒話は、聞いた方が悪者なんですって」
今度はちゃんと声を負えば――エリザベスは長椅子に戻っていた。
今度はエルバートではなく、ひじ置きに身体を預けてもたれかかかっていた。――……仮面を取り去って晒されたその顔を、隠そうともせずに。
エルバートはこの時初めて、エリザベスの顔を見た。
その顔立ちは、特別美人というわけではなかった。むしろどのパーツも小作りで、強烈な個性や主張といったものがまるでない。
かといって、特別不器量というわけでもなかった。年の頃なら十六、七――……それくらいの年頃の娘が、一般的には不品行とされている仮面舞踏会にいるという危うさも、ものの見事に吹っ飛んでいたが、まあとにかく。
エルバートはエリザベスの年齢なんか知らなかったが、年相応に可愛らしい雰囲気の娘だと思った。
しかし――その明るい色の眼差しには、少女には似つかわしくない悲哀と、老婦人のような達観が入り混じる。
「女性にも、意地悪を?」
一瞬――
エルバートは、この娘が泣いているのかと思った。
長椅子へと戻り、元通りに隣に腰かける。――……今度は席を勧められたわけでもなかったが、『そうするべき』だとエルバートの身体が言ったのだ。それに反論する思考は、とっくに酒精に溶けている。
「……カエルや虫を衝きつけられたり、突き飛ばされたわけじゃないの」
間近で見るエリザベスの顔立ちは、人を威圧しない優しい顔立ちで――……エルバートは臆することなく、その目と顔を観察することが出来た。
丸い額に下がり眉。小さな鼻に小さな口。
下がった目尻は優しげで――……まぶたが時折、とろんと微睡むように閉じられては、ゆっくりと開き――……その下には、あの明るい色の瞳があった。
(銀灰……いや、青だ。海じゃなくて、空の――)
一度、二度……とまばたきをしてから、その瞳がゆっくりとエルバートの方を向いた。
「当り前だと思っていたことが、全然違ったって知らされて――……ごめんなさい、きっとうまく言えないわ」
小さな唇から、やはり小さな歯がこぼれる。困ったように笑う娘だと、エルバートは思った。
「本当は……意地悪なんかじゃなかったのかもしれない。でも、どうしようもなくこわくなってしまったの」
そしてまた、まばたきを一度、二度――……そうしているうちに、視線は逸らされてしまった。
エリザベスの左手は、肘置きと彼女の耳に挟まれていた。
そして右手は、左肘に添えられていた――だからエルバートは、彼女の太ももの辺りに仮面を置いた。
「あら、どうもありがとう」
「大丈夫か?」
「ええ、ありがとう」
「……気分が悪いのか?」
「いいえ、大丈夫。ありがとう……」
「……聞こえているか、エリザベス・コールソン」
「ええ、ちゃんと――――……」
そんな受け答えの間に――エリザベスのまぶたは、とろとろと下がっていく。
そしてとうとう――……青空色の瞳はまぶたに覆われ、小さな歯がのぞく唇からは、微かな寝息が漏れ出した。
「……エリザベス・スーザン・コールソン、風邪を引くぞ」
エルバートは一番手近にあった部位――それは奇しくも、先ほどいやに目を引かれた二の腕だった。
しかしその瞬間は、そんなことなど微塵も思い出すことなく――ただ近くにあるというだけで、エルバートはそこに手をやり、軽く揺すった。
(わ、)
見た目よりもずっと、柔らかい肌と肉。
きめ細やかで、しっとりとしていて、ひんやりと冷たくて――……離せなくなってしまった。
下心からではない。もっと、本能的な何か――毛並みのいい猫、滑らかな絹、熱を出した時に食べる果物ののど越し。ぼんやりと触れたものの手触りがびっくりするほど心地よくて、もう一度、もう一度と繰り返すのがやめられないのによく似ていた。
しかし――……本能の後から、すぐに下心はやってきた。
この手を離さなくていい、体のいい言い訳を――――……探し始めて、エルバートの頭の中で、聞きかじっただけの知識と言葉が回り始める。『据え膳』、『男と女が二人きりで飲酒』、『酔った勢い』。
これを振り切る理性を――酒で半分溶かしてしまった理性を、総動員して否定する。『責任』、『騎士道』、『誠実な男であれ』、『第一こんな、素性も分からない娘に』。
「エリザベス・コールソン……」
そう――
名乗られた名前に、本名だという確証はない。エルバートがここに滑り込んだ時、既にこの娘は酔っていた。――初対面の男を、ままごとに誘うくらいには。
(コールソン……どこかで、聞いたことがあるような……)
着ている衣装は、お世辞にも高級品とは言い難い……が、育ちが悪いわけではなさそうだと、エルバートは踏む。身体も細く小柄だが、肌つやと血色はいい。
酔って多少呂律は回っていなかったが、話す言葉に下町訛りはない。正しい発音と美しい言葉選び――話し方もおっとりと穏やかだ。酒のせいかもしれなかったが。
時折小さな唇からこぼれる歯は小さく白く、欠けているものは見当たらなかった。
肩へ、背中へ、胸元へと――まっすぐに落ちる髪は、細く長く、滑らかだ。
(――……だめだ)
綺麗な歯と、綺麗な髪。これらを維持するための手入れをする、時間と金が確保出来るということは――……
(だめだ、これ以上は)
下唇を噛みしめて、エルバートはエリザベスから手を離した。
(これ以上一緒にいると、俺はダメになる……!)
歯をよく見るために、この小さな唇をこじ開けたいと思った。
あわよくば、その時に触れる唇の柔らかさも。そして髪も。確かめるために、触れてみたい――
(そんなの言い訳だ、ただ触りたいだけ)
(落ち着け。間違えば犯罪だ。そんなことは出来ない)
既に理性は総動員で――とめどなく湧き出てくる下心やら本能やらを、必死に抑えにかかっている。
(夜会服で二の腕が出るなんて、大して珍しくもなんとも、それに、)
(この娘が、飛び抜けて美人だとか、妖艶だとか、そういう、)
(そういう、感じじゃ……ないのに、なんで、どうして)
口に出していれば、そして相手が起きていれば、平手打ちは免れないような失言が、エルバートの脳内を駆け巡る。
そして、それを否定する言葉も。『でもけして悪くはない』、『ちゃんと可愛い』、『武勇伝になるかも』、『ダメになってしまえ』――……
「……――――お客様?」
――――救世主が、現れた。
カーテンをくぐって現れた、銀の盆を携えた救世主――
「あ――」
彼の姿を見て――エルバートはここが、オテル・レーヴだということを思い出す。
エルバートはすぐに、自身の仮面を外した。
「――……私のことは、分かるか?」
鼻まで覆うタイプの、シンプルな薄い陶器の仮面だ。その下から現れた顔に――……給仕係は改めて、恭しく頭を下げる。
「もちろん、存じております。お越しいただき光栄でございます」
オテル・レーヴ――
王都でも有数の高級ホテルとして名が知れているが、実は二号店であることはあまり知られていない。
十年ほど前にとある資産家が、今は“一号店”と呼ばれるそのホテルに宿泊し――
そこを大層お気に召して、資産家は『王都にも同じホテルを出してくれ』とオーナーに頼み込んだ。
外装に内装、客室のアメニティからレストランのメニュー、広間やサロンでの催しの内容からそのスケジュールに至るまでの一切を――――……こだわり抜いて。
そうやってオテル・レーヴを作り上げたオーナーを、口説き落とすために――資産家は言葉と誠意を尽くした、という創立秘話がある。
「……彼女に一晩、部屋を貸してやってくれ」
その創立秘話を――エルバートは知っている。
そしてもちろん――従業員である、この給仕係も。
「かしこまりました。では、こちらはお部屋に?」
給仕係は銀の盆を掲げ、失礼にならない程度に小首を傾げて見せた。
フルーツが盛られた銀のボウルに、封の切られていないシャンパンボトル。そして――曇り一つない、フルートグラスが二つ。
「結構! 泊まるのは彼女一人だ!」
ブルームフィールド侯爵領、ノースレイク――
――『出資はすべて自分が』。
――『同じクオリティを目指してくれて構わない』。
――『いくら注ぎ込もうと文句は言わないから』。
――……ある資産家はその地に膝を付き、そう言ってしまいには、額までその地にこすりつけた。
その言葉と誠意が向かう先は、オテル・レーヴを作り上げたオーナー――当時の社交界の華、今もなお女王として君臨し続ける麗しの侯爵夫人、オーガスタ・リー・ブルームフィールド。
オーガスタは――……予想だにしなかったことだろう。
この資産家との間に数多く取り付けた約束事の一つ、『家族が使えるように、いつでも一部屋空けておいて』の一部屋が――……当時十二歳だった自分の息子の、一夜のロマンスに使われる日が来ようとは。
いまいち仕組みが分からず、短編で投稿してみました。
というか本編を書き直したい欲が……すごいぞ……!